005_ねーねと呼ぶまで
ネージュの家の前まで来ると、ウィルは足を止めた。
戸口の脇の窓が少し開いていて、干した薬草の匂いが外まで流れてくる。小さい頃から、擦り傷をこしらえては見せに来た家だ。その匂いを吸い込むと、森での経験でかき乱されたままだった心が、ようやく村へ帰ってきた気がした。
村の人たちは、ここを治療院と呼んでいる。治療院は普通は教会に併設されるものだけど、ここは中も外も普通の家だし、村人でここを教会と呼ぶ人はだれも居ない。それでも一応、ネージュは司祭ということになっているらしい。
治癒の術は法術と呼ばれ、法術は”神の奇跡”なんだそうだ。そのせいか、使える人が魔法使いよりもずっと少ない。だから使える素質のある人は、それと知られれば教会に籍を置かされるものだと聞いたことがある。ネージュも元は信徒という訳ではないはずだが、色々な事を丸く収めるためにそうなったと聞いた。村の大人たちも、神様の話なんか好き好んでしないし、畑や家畜の話をしている方がずっと多い。ここへ来る人が求めているのも、祈りではなく怪我の手当だった。
だからウィルにとって、ここは司祭の家というより、ずっとねーねの家だった。
戸を叩こうとして、手が一度止まる。
「ネージュさん、ウィルです」
道々、今日はどちらの呼び名が先に出るだろうと考えていた。その答えは、思っていたよりあっさり出てしまった。
中から「どうぞ」と返事がある。戸を開けると、ネージュが微笑んでウィルを迎えた。水色の長い髪が、肩から胸元へゆったりと流れている。飾り気なく下ろした髪は、毛先まで艶やかに整っていた。目が合うと、サファイアを思わせる深い青の瞳が慈しむように細まった。
金の縁取りを施した白いケープの下には、青い長衣をまとっている。背筋をすっと伸ばした姿は、プリシラよりも豊かな胸元からすっきりとしたくびれへ、そこからゆったりとした腰の丸みへと、なめらかな線を描いていた。見慣れたはずなのに、その美しさには今も目を奪われる。夢で見た女神にも引けを取らない、ウィルにとって理想の女性だった。
畳みかけの白い布を片手に持ったまま、ネージュは空いた手でウィルを中へ招いた。
中は外より少しひんやりしていた。温度変化に敏感な薬品などもあるため、ワザと少し日差しを通しづらい様にしていると聞いたことがある。棚には畳んだ布が重ねてあり、窓辺には薬草が並べて干してある。奥の寝台は空いていて、上掛けがきちんと伸ばしてあった。今日はまだ、ほかに怪我人は来ていないらしい。
「いらっしゃい、ウィル。改めて、成人おめでとう」
ネージュに迎えられて、ウィルは少し背筋を伸ばした。腰のポーチを下ろしかけ、瓶が鳴らないようにフタに手を添える。
「ありがとうございます、ネージュさん」
つい、きちんとした返事をしようとしてしまう。
知らない相手の家に来たわけではない。小さい頃からお世話になっている人だ。プリシラたちと話す時には、今でも自然とねーねという呼び名が出る。それなのに、本人を前にすると、最近は名前にさんをつけて呼ぶことが多くなっていた。
昔のように呼んではいけないと言われたわけではない。けれど、いつまでも同じように甘えていていいのか、自分の方で気になっていた。
「これで仲良し三人組も、みんな大人の仲間入りね」
プリシラも、エレノアも、自分も。ネージュの口からそう言われると、昨日の成人式よりも、大人になった実感が湧いてくる。祝いの言葉に緩みかけた口元を引き締め、殴られて倒れたことをどう話そうかと考える。
「私もそろそろ、身の振り方を考えないと……」
ネージュは窓辺の薬草へ目をやりながら、続けた。ウィルは顔を上げた。
「ネージュさん……どこか行っちゃうんですか?」
考えるより先に尋ねていた。
懐かしい痛みが胸に走る。ずっとここにあって欲しいと願った”あの時”の痛みだ。ガランとした何もない部屋、片づけられた後の棚が頭に浮かんで、胸の奥がすっと冷えた。
「ふふふ、そうじゃないのよ。私も色々考えないとねってこと。気にしないで」
振り返ったネージュは、いつもの調子で笑っていた。手にしていた布をテーブルの端へ置き、薬草の束を一つ裏返す。それきり、その話は続かなかった。
「そんなことより、冒険者になったんでしょう? くれぐれも怪我しないようにね」
「それが実は……」
気をつけます、とだけ答えて済ませるわけにはいかなかった。
ウィルは、プリシラと初めての依頼に出たことを話した。ゴブリンへ飛びかかってかわされ、後頭部を棍棒で殴られたこと。倒れている間にプリシラが相手を倒し、ポーションを使って起こしてくれたこと。
話しているうちに、ウィルは自然とポーチとナイフをテーブルに置き、いつものポジションである食卓の椅子に座る。ネージュも向かいの席について口を挟まずに聞いていた。順に話してみると、初めての冒険を自慢しに来たというには、ずいぶん情けない報告だった。
女神に言われた弱さが、また頭をよぎる。けれど今、ネージュに伝えるべきなのは夢の話ではない。どんなことがあって、診てもらいに来たのかを、ちゃんと話そうとした。
「もう。さっそく危ない目にあって……」
ネージュの眉が寄った。叱るというより、困ったような声だった。それを聞いて、ウィルは少し小さくなった。
「ほら、こっちに来て」
促されて、ネージュのそばへ寄った。ネージュの席の前で屈み、床に敷かれた布へ座り、背中を向ける。乾いた敷布が、腰の下でかすかに鳴った。目の前の窓辺では、干した薬草の葉先が風にそよぎ、そのたびに青い匂いが濃くなる。後頭部へ手をやり、殴られたのはこの辺りだと伝えると、ネージュがそっとそこに触れた。
髪をかき分ける指は、思っていたよりずっと慎重だった。今は痛まないと言っても、ネージュはすぐには手を離さなかった。首を動かしてみるよう促され、ウィルはゆっくりと顔を左右へ向けた。
ポーションで目も覚めたし、と言いかけて、口を閉じる。
ネージュの治癒を受ける間、ウィルは言われた通りにじっとしていた。背中を向けているので、彼女が何をしているのかは見えない。ただ、後頭部に添えられた手のひらの温かさだけが、髪越しに伝わってくる。意識するほどでは無かった鈍痛が晴れてから、少し痛んでた事を自覚する。知らずに詰めていた息が抜けた。首の後ろに残っていたこわばりも、いつの間にかほどけている。手が離れ、ネージュが前へ回ってウィルの様子を確かめた。
「はい、これでもう大丈夫」
「ありがとう、ネージュさん」
ほっとして礼を言い、首を回してみる。さっきより、ずっと軽い。肩を上げて下ろすと、森からずっと背負ってきた重さまで、一緒に下りていった気がした。
これなら、プリシラにもちゃんと診てもらったと伝えられる。
立ち上がって向き直り、荷物に手を伸ばしかけた時だった。ネージュがウィルの手を遮り、優しく握りしめながら問いかけた。
「……最近はもう、ねーねって呼んでくれないのね」
帰る前にもう一度礼を言おうかと思っていたところへ、思いがけないことを言われた。
戸口で名乗った時の自分の声が、耳の奥でよみがえった。
「それは……もう大人だし。ネージュさんにも旦那さんがいるし……」
言ってから、ウィルは目を伏せた。取られた手を拒絶と思われない様に優しく解きながら、誰に向けてなのか判らない言い訳が口をついた。
「そうね……」
ネージュはそこで一度、言葉を切る。そのままスッと、目を伏せたままのウィルの服をつまんで額を胸に埋めてくる。昔は自分がスッポリと収まっていた側なのに、今では少し追い越してしまった背丈のウィルの胸に、あの頃とは逆にネージュが滑り込む。
「……でも、ねーねは寂しいな」
「う……」
そんな言い方をされると、困る。顔も、耳の先も火がついた様に熱くなり、脳裏にはあの頃の思い出が波のように押し寄せる。
「うふふ。冗談よ。もうお互い子供じゃないものね」
ネージュは笑って、続けた。
「でも、もし怪我したら、すぐに私の所に来るのよ? 村で一緒に育ったあなたたちは家族も同然。誰に気を使う必要もないんだからね」
ウィルはすぐには答えなかった。
ネージュは今、寂しいと言った事を冗談にしようとしている。からかった事にして、無かった事にしようとしているのだと感じた。
ウィルの脳裏に彼女と過ごした日々の記憶が呼び起こされる。記憶の中の彼女は、いつも自分を押し殺して他人を立てていた。周りの期待に応えようとして、最初に自分を手放してしまうのだ。
彼女は今でも自分の事を家族と言ってくれてるのに、勝手に遠慮して遠ざけて、他の人がするみたいに寂しい想いをさせようとしている。自分だけはすまいと思ってきた事をやりかけて、自分を恥じた。
こんな状況で返事をするのは、少し照れくさくはある。それでも……。
「うん、分かってるよ……」
一度、息を吸う。
「……ねーね」
今度は言えた。
昔と同じ形をした、気持ちと言葉だった。
ネージュが目を見開いた。遠慮がちに服をつまんでいた指が離れ、そのままシッカリと抱き寄せられた。少しの間、抱き返す事はせずにウィルは立ち続けた。
「ウィル……」
やがて呼ばれた自分の名前は、さっきまでより柔らかく聞こえた。ネージュの頬がほころんでいく。
そう見つめられると、今度はウィルの方が、どこへ目をやればいいのか分からなくなった。頬をかき、窓の薬草を見て、テーブルのポーチに目を落とす。胸の内がむずむずして、じっとしていられなかった。
「うーん、やっぱり恥ずかしいや」
「ふふふ。怪我なんかなくても、いつでもいらっしゃい」
ネージュは小さく肩をすくめた。
「あの人、ずっと僻地なんだもの。一人じゃ退屈で、おばあちゃんになっちゃうわ」
最後の言葉には、ウィルも少し笑った。ネージュがおばあちゃんになるところは、どうしても思い浮かばない。
ネージュは畳み終えた布を、棚の一番上へ重ねた。空いたままの寝台と、窓辺で乾いていく薬草。怪我人がいなければ、この部屋は静かなままなのだろう。
「うん。これからは、できるだけ顔を出すよ」
「待ってるわ」
今度は、怪我をした話以外も持ってこよう。ウィルは頷き、ポーチを腰に掛け直して戸口へ向かった。瓶が一つ、小さく鳴った。ネージュも見送るために戸口までついてきた。
「それじゃ……この後もプリシラと冒険の約束があるから、そろそろ行くよ」
「気をつけてね。いってらっしゃい」
その言葉に頷いて、ウィルはネージュの家を後にした。
外の光は、入った時と変わらず明るかった。少し歩いてから振り返ると、ネージュがまだ戸口にいた。ウィルは手を上げた。彼女も手を振ってくれる。
後頭部へ手をやってみる。指先に触れるのは、少しくしゃくしゃになった髪だけだった。
ねーね、と呼んだ時の照れくささだけが、まだ少し残っていた。




