059_牧場の朝
プリシラの耳が、隣の家で小屋の戸が開く音を拾った。
プリシラはウィルの腕の中から窓を見た。もう朝の仕事が始まる時間だ。もう少しここにいたいが、家には泊まると伝えてあっても、手伝いを休むとは言っていない。
「あたし、一回帰るね」
「うん。あとで迎えに行くよ」
服を着て寝台を離れたところで、もう一度振り返った。ウィルが笑っている。さっきまであんなに近くにいたのに、また抱きつきたくなった。
いけない、帰れなくなる。
プリシラは手を振り、隣の家へ駆け戻った。
*
自分の部屋で髪を整えていると、母に呼ばれた。
「プリシラちゃん。起きてる?」
「起きてる! 今行く!」
いつもと同じように返事をしてから、少し照れた。昨夜、薬を渡してくれた母に、今朝はどんな顔をすればいいのだろう。泊まりに行く時は嬉しくて仕方なかったのに、帰ってきた途端に恥ずかしくなる。
けれど、いつまでも部屋にいては母を待たせてしまう。プリシラは櫛を置き、外へ出た。
囲いの前でリリシラが戸を押さえ、飼料の袋を片腕に載せていた。開いた隙間へ、豚が鼻を突っ込んでいる。
「そっちは後ね」
母が足で進路を塞ぐ。プリシラは別の袋へ手を掛けた。
「これ、パパのとこ?」
「ええ、お願い」
袋を抱え、囲いに沿って歩くと、柵の向こうの豚たちもついてきた。少し早足になれば、向こうも速くなる。
「あたし持ってるだけ! ご飯はあっち!」
囲いの入口でシルトが笑って手を伸ばした。袋を渡すと、豚たちの鼻先も父の方へ向く。
「すっかり好かれたね」
「袋がでしょ」
プリシラは柵越しに豚の背をひと撫でして、母の方へ戻った。
リリシラが袋を下ろす間に、シルトは餌を待つ豚を奥へ寄せていた。空いた戸口を母が閉じる。どちらも相手に頼んではいないのに、次にしてほしいことがちゃんと済んでいる。
「パパって、ママが何したいか分かるんだね」
シルトが戸の方を見た。
「あれだけ囲まれていたら、閉められないからね」
「そーいうことじゃなくて。言われる前にやるじゃん」
「長いこと一緒にやっているからかな」
父はそう答え、空いた袋を畳んだ。リリシラも笑っていた。
プリシラは箒を取り、こぼれた飼料や藁屑を掃き集めた。母が戸を閉めたがっていたことなど、父が動くまで気づかなかった。
ウィルとは何年も一緒にいる。それでも、何を考えているか分からなくて、昨日までずっとやきもきしていた。
いつかは、父と母のようになるのだろうか。
*
「手を洗っておいで。出かける前に食べていくんでしょう?」
「うん。ウィルが来るまでに食べる」
「お迎えなのね」
「冒険に行くんだよ」
「そう。支度はできてる?」
「できてる」
そう答えてから、寝癖を直している途中だったことを思い出した。
「……あと、髪だけ」
リリシラは笑ったが、昨夜のことは聞かなかった。聞かれずに済んでほっとしたような、少し話したかったような気がする。
食卓へ着くと、シルトが料理を回してくれた。母も向かいへ座り、三人で朝食を取る。
いつもの席だ。けれど今朝は、父と母が夫婦として向かい合っていることを妙に意識してしまった。
「ママ」
「なあに?」
パパとママは、どっちから好きって言ったの?――そう聞きかけたところで、シルトまでこちらを向いた。急に恥ずかしくなって、言葉を飲み込んだ。
「……おいしい」
「ふふ。よかった」
母が皿を寄せてくれる。プリシラはそれを受け取り、顔を見られないよう食事に戻った。両親の話を聞くなら、まず自分のことを話さなければ不公平だ。けれど、昨夜言ってもらった言葉は、まだ自分だけで思い出していたかった。
食べ終えて器を片づけ、部屋へ戻った。鏡の前で跳ねた髪を直していると、外から足音が聞こえた。
櫛を置き、用意してあった荷を取る。
「プリシラちゃん、そんなに急がなくても逃げないわよ」
「急いでないよ!」
言いながら、もう戸を開けていた。
「おはよう、プリシラ」
「おはよ!」
ウィルの顔を見ると、また頬が緩んだ。さっき別れたばかりなのに、もう迎えを待っていたなんて、おかしいと思われただろうか。
「まだ少し早かった?」
「ううん。もうごはんも食べたし、支度もできてるよ!」
ウィルが家の中へ挨拶すると、両親も戸口へ出てきた。プリシラはウィルの隣に並んで、行ってきますと言った。昨日までと同じように見送られるのが、くすぐったかった。
囲いの前を通り、二人で道へ出る。
「今朝、パパとママ見てて思ったんだけど」
「うん?」
「あの二人って、あんまり話さなくても、お互いにしてほしいこと分かるんだよね」
ウィルが家の方を振り返る。プリシラもつられて見ると、父が袋を持って囲いへ戻り、母がそのために戸を開けていた。
「ずっと一緒に仕事してるからかな」
「パパもそう言ってた」
プリシラはウィルの顔を覗き込んだ。
「でも、ウィルはちゃんと言ってね。あたしも言うから」
ウィルが少し照れ、頷いた。
「うん。もう、何年も待たせたりしないよ」
「約束だよ」
家の方からまだ見えているだろうか。気になったけれど、もう一度振り返るのはやめた。プリシラは隣へ手を伸ばし、ウィルの手を握った。




