055_秘密のまま
ネージュに会いたかった。顔を見に来たと言うだけでいいのに、家が近づくにつれて、ウィルは用もないのに訪ねていいのかと考えていた。
今さら引き返す方が変だ。戸を叩くと、すぐに声が返ってきた。
「はーい?」
「こんばんは、ねーね」
「いらっしゃい、ウィル」
ネージュが戸を開けてくれた。顔を見ると嬉しくなり、ウィルは用意していた言葉をやめた。
「ねーねの顔が見たくて、来ちゃった」
「嬉しいわ。いまお茶を淹れるから、座ってて?」
「うん」
いつもの席に座り、お茶を淹れるネージュを眺めた。振り向いた彼女と目が合っても、今日は逸らしたくなかった。会いたかったのだと、言葉にした分だけ素直に見ていられる。
けれど、向かいへ座ったネージュは笑っていなかった。
「あのね……ウィル。この間の事だけど……」
「この間の、どの事?」
「……色々よ。その……キス、した事とか」
「うん。それが?」
ネージュが目を伏せる。その様子に、ウィルも笑うのをやめた。
「……その、やっぱり良くないわ。私なんかと……」
「どうして? 僕はとっても嬉しかった。ねーねも僕と同じように思ってくれてて、それが分かって嬉しかったよ?」
「それは……私もそうだけれど。プリシラとエレノアはどうするの? あの二人の気持ちは分かっているでしょう?」
ウィルは、お茶へ伸ばしかけていた手を戻した。
「……うん。勿論分かってるよ」
昨夜、プリシラに好きだと答えられないままだった。エレノアとも、三人で話す約束をしたばかりだ。どちらも、ネージュに言われるまでもなかった。
「なら、私なんかにかまけていないで、あの子達に応えてあげて? 夫の居る私みたいな女、あなたの将来にも良くないわ」
ウィルは首を振った。二人への答えを待ってもらっていることと、ネージュを諦めることは別だった。
「良くない事なのはわかるよ。でも、もうお互い踏み出しちゃったんだもん。それに、僕はベンおじさんに殴られる覚悟だって済んじゃったよ」
「でも、あの人は貴族よ。それも中途半端な位ではないの。下手すればあなたの命だって……」
命、と言うところで、ネージュの声が詰まった。
そこまで危険なのか。ウィルは言葉に詰まった。けれどベンは出ていったまま戻ってこない。彼を待つほかに、ネージュがここを離れる方法はないのだろうか。
「それならさ、逃げちゃってもいいんじゃない?」
「……逃げる?」
「うん。ベンおじさんは戻って来ないし、手紙だってこないんでしょう? 探したりしないと思う」
最後まで言っても、ネージュは何も返さなかった。ウィルは慌てて言葉を継いだ。
「その……決してベンおじさんをないがしろにしようって事じゃないんだ。ただ、ベンおじさんなら、それでも分かってくれるんじゃないかなって……」
「……確かに、そうかもしれない」
そう答えてくれたものの、ネージュは俯いたままだった。ベンも分かってくれるというのは、自分の願いでしかない。ウィルは言い直した。
「でもね、ねーね。僕は、できればベンおじさんともちゃんと話したい」
ネージュが黙って待ってくれたので、ウィルは続けた。
「ベンおじさんには申し訳ないと思ってる。けど、正直に言うのが一番良いように思うんだ」
「……あの人の事まで考えてくれるの?」
「勿論だよ。僕はねーねの事を大事に思ってるけど、ベンおじさんだって、ねーねを嫌いになって置いていった訳じゃないんでしょう?」
「遺恨を残したら、ねーねが心から幸せになれないと思うんだ。だから、僕が悪い事をする以上、ちゃんとけじめはつけなきゃって思ってる」
「……嬉しい。本当に……真剣に考えてくれているのね」
「でも、それなら尚更よ? 私の事であの娘達が悲しむのも、私は嫌」
「それは僕も本当に悩んでる。こう言っては何だけど……、僕にとって三人は同じくらい大事な家族なんだ。そこに優劣なんか無いのに、何故こんなに難しい事になっちゃうんだろう……」
言い終えて、ウィルは俯いた。エレノアはプリシラと一緒でもいいと言ってくれた。その返事を思い出し、二人の名前を口にしかける。けれどその二人はまだネージュとのことを知らない。目の前で待つネージュの顔を見ると、続けられなかった。
「ウィル……」
ネージュはしばらく考えてから、静かに呼びかけた。
「ねぇ、ウィル」
「どうしたの? ねーね」
「私ね、あなたの気持ちは嬉しいわ。でも、このまま行っても私達はこの先、どうしたって公にできる関係にはならない」
「……そうだね」
「それにね、あなたはまだ若いわ。私に対する気持ちだって、本当に確かなものかまだわからないでしょう?」
「そんな事はないよ?」
ウィルはすぐに顔を上げて答えた。ネージュはその顔を見ていたが、小さく首を振った。
「……私がわからないのよ。私も恋愛経験なんて無いに等しいから……」
「……そっか」
分からないと言われると、好きだと繰り返すだけでは届かない気がした。ウィルが黙ると、ネージュはためらいながら話し始めた。
「でも私の心も、今は間違いなくあなたを求めてる。だからね、あなたさえ良ければ……。秘密のまま、二人で確かめてみない?」
「秘密のまま?」
「そう。あなたと私だけの、秘密の関係」
ネージュは声をひそめた。
「私はあなたを縛り付けたいなんて思ってないわ。だって、私は夫の居る身なんだもの。だから、あなたがあの娘達と恋人になっても、私は構わない。それで私達の関係が終わることになったとしても、私は納得できる」
そんなことを納得してほしくない。ウィルが身を乗り出すと、ネージュは最後まで聞いてと言うように、彼の手へ触れた。
「あなたの言う通り、私達は踏み出してしまった。だから、私ももう少しだけ進んでみたい。あなたは私との将来を真剣に考えてくれて、それはとっても嬉しいけれど、だからって結論を急がなくても良いんじゃないかって思うの」
ネージュはそこで言葉を切った。
「だから……内緒」
「……わかった。ねーねがそういうなら、少しだけ様子を見る事に反対はしないよ」
返事をしてから、ウィルは初めてお茶をひと口飲んだ。もう冷めかけていた。器を置き、言わずにおけないことを続けた。
「だけど、僕は絶対にねーねを諦めないよ。そんな……いかにも都合の良い関係、絶対に終わらせる」
「ねーねはすぐ自分を犠牲にしようとする。そんなの絶対見過ごせないし、僕も自分を許せない。……けど、確かに今すぐどうにかする力が僕には無いから」
ウィルは卓の上の手を取った。
「ごめん、ねーね。少しだけ待ってて」
「……あなたは本当にまっすぐね」
「不器用なだけだよ……。“みんな好き”なんて、普通ならダメでしょ?」
「でも、あなたが浮ついた気持ちで言っている訳じゃないのはわかるわ。そういうあなただから、私は……」
言い終える前にウィルは椅子を立ち、卓を回って彼女のそばへ寄った。ネージュもその近さから離れなかった。
「あぁ、ウィル……」
ウィルは彼女に口づけた。ネージュも握った手を握り返してくれた。
唇を離しても、しばらくはそのままでいた。やがてウィルが手を緩めると、ネージュは名残惜しそうに指を離した。
「……また来てもいい?」
「ええ。待ってるわ」
戸口で別れ、ウィルは家へ向かった。秘密にすると約束したばかりなのに、待ってると言ってもらえた嬉しさを、誰かに話したくなった。




