054_いつでもいいよ
食事が終わっても、プリシラはすぐには帰らなかった。
ウィルは食器を重ね、水を張った桶へ沈めた。
器を擦るたびに、ちゃぷちゃぷと水の音が立つ。聞こえるのはその音ばかりだった。さっきまで寝台の寝心地をあれほど話していたプリシラが、横で静かに皿を拭いている。眠くなってきたのかと思って振り返ったが、目はちゃんと開いていた。
「……ねぇウィル」
「ん?」
「なんでダブルベッドなの?」
目線は皿に向けたまま聞いてくる。
「おっちゃんが気を利かせてくれて……。お前もそのうち所帯を持つだろって」
おっちゃんが言ったのはそれだけではなかった。そんなボロボロのベッドじゃ満足に女も連れこめやしねえ、とも言っていた。そちらまでプリシラに話す気にはなれず、言葉の途中が詰まった。
「ふーん」
それきり少し間が空いた。納得したのかと思ってウィルが桶の中の皿へ手を戻すと、また呼ばれた。
「……ねぇウィル」
「ん?」
「そのうちっていつ?」
借金を返してから。そう答えかけて、ウィルは口ごもった。言い切ってしまうと、何かを決めている様に聞こえてしまう気がした。
「わかんないよ。そんな相手も居ないし」
言ってから、小さなトゲが胸に刺さる。エレノアには恋人になってほしいと頼んだばかりなのに、そんな相手ではないと言うのは虫の良い話ではないのか。だが、自分がこの先どうなるか判らない以上、確約する事もできなかったのは本当だ。借金を返しきれなければ、今まで通りに生活する事はできないのだ。
「そっかぁ」
プリシラが天井を仰ぎ見る。ウィルは釣られてそちらを見ないように、洗い物に意識を集中する。
「……ねぇ、ウィル」
「なに?」
「……あたしはいつでもいいよ?」
ウィルの手が止まった。
プリシラがこちらに向き直る。堪えきれずにウィルも顔を向け、何を言えばいいか考えているうちに、その顔が近づいた。唇が触れたのは、ほんの一瞬だった。
「プリシラ!?」
「もう……そんな鈍感じゃないでしょ?」
濡れた手の置き場にも困って、ウィルは桶の縁を掴んだ。三人で話す前に、こんなふうに迫られるとは思っていなかった。
「それは……でも、僕たち兄弟みたいなものだし……」
「うん、でもホントの兄弟じゃないよ?」
プリシラがずいっと身を乗り出す。近づく分だけ、ウィルは身を引きかけた。昨日エレノアに答えた時には、自分の気持ちをきちんと言えたはずなのに。今プリシラを前にすると、口から出るのはまた別の言葉だった。
「で、でも……そんな風に見たことは……」
「あるじゃん! メチャクチャあるじゃん! あたしの水浴び、しょっちゅう覗いてたじゃん!」
プリシラの耳がぴんと立った。更に詰め寄られると、日だまりみたいな香りがふわりと届き、胸の鼓動が早まった。そこまで言われて、もう首を振る余地はなかった。
「の……覗いてました」
「でしょ? それにほら……。今だってウィルのココ、カチカチだよ?」
言葉を探しても、うまく出てこなかった。そばにいるのは、ずっと一緒に育ってきたプリシラだ。
姉と弟から始まって、小さい頃はいっつも振り回されていた。だが、いつも明るくて、いつだって側に居てくれて、コロコロと表情が変わって、面白くて、楽しくて。発育も良くて歳を重ねる毎に女性的な曲線が際立ってきて、微笑みかけてくれる顔はいつだって眩しくて、可愛くて。僕を真っ直ぐに見つめるエメラルドの瞳がとってもキレイで、今だって目が離せない。
「もう子供じゃないんだもん。こんな事だって……シてあげられるんだよ❤」
*
「んっ❤ んっ❤ んっ❤」
「あぁ……プリシラ、そんな……」
「ふふふ❤ いいんだよ❤ 気持ちよかったら……」
「ウィルー。こっちにプリシラは来てるかーい?」
プリシラの耳が、声の方へ跳ねた。いま正に興奮の絶頂に向かって駆け出しつつあった二人のあいだに、扉の外からの声が割って入る。プリシラとウィルは目を見合わせる。
「ジュポ ふにゃ~!? あわわわわウィル! ズボン履いて!?」
初めて家族の境界を超えて触れ合った最中、一瞬にして現実に引き戻される。
ウィルはいそいそと脱ぎかけのズボンを引き上げ、洗いかけの食器に向き直る。
シルトおじさんだった。プリシラの帰りが遅いので、見に来たらしい。今朝二人で海へ釣りに出て親交を深めたばかりのおじさんに、こんな姿を見せられるはずがない。ウィルの準備が整ったのを見計らって、プリシラが返事をする。
「おとーさん、ごめーん。こっちでご飯食べちゃったー」
戸口へ向かうプリシラの声は、もう普段どおりだった。
何食わぬ顔で戸を開けるプリシラを見て、どこかで聞いた「女はみんな女優」という言葉を思い出した。
「まったく、ちょっと行ってくると言って全然戻ってこないから心配したじゃないか」
「ごめんごめ~ん。ウィルの新しいベッドすっごいフカフカでさ~♪」
「まぁここにいるならいいさ。ウィル、後片付けくらいプリシラにやらせなさい」
呼ばれて顔を上げたウィルは、慌てて取り繕った。
「ちゃんと手伝ってくれましたから。もうすぐ終わりますよ」
「そーだよ。ちゃんとお手伝いしたんだから……ねー? ウィル」
「ハハハハハハ」
プリシラがこちらを向く。何を思い出させようとしているか分かってしまって、ウィルは笑い声を返すのが精いっぱいだった。
「そうかそうか。それじゃ夜も遅いから、そろそろ戻って来なさい」
「片付け終わったらもどるよ! おとーさんは先に帰って! 子供じゃないんだから!」
「わかったわかった。そう邪険にしなくても……」
「はい! じゃーあとでね! ばいばーい!」
戸が閉まってからも、ウィルはすぐに動けなかった。耳を戸の方へ向けていたプリシラが、こちらへ顔を戻す。ウィルが短く息を吐いた。
「…………びっくりしたー」
「いやー、ほんとねー。せっかくいいところだったのに。残念」
「なんて事するんだよ……」
「ふふふ、興奮した? おかーさんがね、『ウィルは奥手だからガンガン攻めなきゃだめよ』って」
母に教わるのは恥ずかしかったけれど、ウィルのために頑張ったのだと打ち明けてくれた。リリシラさんがそこまで話していたことにも驚いたが、自分が言葉を返せずにいる間、プリシラも答えを待っていたのだ。
初めての親密な時間が過ぎた後、ウィルは彼女を困らせなかったか尋ねた。嬉しかったと答えてもらうと、離れがたくなる。
「この先はまた今度、だね」
プリシラは、ウィルのそばへ戻ってきた。先ほどまで父親に話していた声が、二人にだけ聞こえる声になる。
「……うん」
「次する時は、あたしの初めて……奪ってね?」
「……ぅ。 そ、そんなこと言われたら……」
先程までの情事に加えてその先まで想像させられて、寸止めをくらった劣情が再び熱を帯びてくる。
「……ん。もう……仕方ないんだから」
「ん、いいよ」
すぐ帰らなければと分かっていた。けれどプリシラも、もう少しだけここにいることを選んだ。
二人はもう一度、親密な時間を過ごした。ただ、プリシラが次にと望んだことまでは、今夜は進まなかった。
*
今度こそプリシラが帰ると、ウィルは洗いかけの皿を桶から取り出した。水はすっかり冷えていた。
帰り際の笑顔を思い出すだけで頬が緩む。けれど、皿を拭きながら、何度も交わした言葉をたどるうちに手が止まった。
あたしはいつでもいいよ。
プリシラにそこまで言わせて、自分はまだ好きだとさえ答えていない。
エレノアは今度三人で話そうと言った。けれどその前に、プリシラへの答えは自分の口から伝えなければならない。次に会う時はごまかさずに言おう。




