052_男同士の釣り
戸を叩く音がした時、窓の外はまだ暗かった。
ウィルは起き上がり、服を整えて戸へ向かう。閂を外すと、シルトが竿を二本持って立っていた。肩には口を結んだ袋を下げている。
「おはよう。起きられたね」
「おはようございます。すぐ、支度します」
昨夜のうちに用意しておいたポーチを腰に掛け、水筒を持って戸口へ戻った。
外では、シルトが一方の竿をこちらへ差し出していた。
「今日は、こっちを使うといい」
竿を受け取り、先を戸口に引っかけないよう外へ出た。シルトに並んで歩き出す。
家々の窓は、まだほとんど暗い。いつもなら誰かと挨拶を交わす道を、二人だけで通った。隣の足音がゆっくりなので、ウィルも急ぐ気にならなかった。
村を離れるにつれ、風の匂いが変わる。頬を撫でる空気に海の匂いが混じり、木々の間から波の音が届き始めた。ウィルはシルトの竿の向きを見ながら枝の下を通る。
「眠いかい?」
「いえ、大丈夫です」
答えたそばからあくびが出そうになって、ウィルは口を閉じた。シルトが笑った。
道を下りると、海が見えた。
空と水の境はまだぼやけている。手前の石の間へ波が寄り、暗いところを濡らしては引いていく。ウィルが足元を見る間に、シルトは平らな石の方へ寄った。
「ここなら座れる。濡れている所には足を置かないようにね」
腰を下ろしてみると、石は冷たかった。ポーチから布を出し、下へ敷く。シルトは荷を水の届かない所へ置き、二本の竿の糸を解いた。
シルトは慣れた手つきで、竿に留めていた鉤を外した。
「絡まっていないか、先に見てごらん」
ウィルも糸を伸ばした。途中にできた輪を、引き絞めてしまわないよう指でほどく。
餌をつけてから、竿を動かす。糸が向かい風に戻され、思ったより近い所へ落ちた。
「もう一度、投げます」
「そのままでいいよ。まずは待ってみよう」
ウィルは浮かせかけた腰を下ろした。
何も動かなかった。
波が寄せては引いていく。そのたびに糸が揺れ、魚が掛かったかと手に力が入った。シルトは悠々と海を眺めている。
背後で小さく音がした。ウィルが振り返ると、シルトも顔を向けていた。耳だけはその少し先へ動いている。
鳥が石の向こうから飛び立った。
「……おじさん、聞こえてたんですね」
シルトは頷き、また竿へ目を戻した。プリシラもこんなふうに姿の見えないものを先に聞く。だが彼女なら、何かいると言って一緒に顔を向けていたかもしれない。
握り続けた手が疲れて、ウィルは竿を持ち替えた。
「疲れたら、ここへ乗せて」
シルトが竿の下を指す。言われた所へ置くと、肩が下がった。自分でも思ったより力を入れていたらしい。
「プリシラには、言ってきたんですか?」
「昨夜、話してあるよ」
「一緒に行く、って言いませんでした?」
シルトが笑った。少し待ってから、首を振る。
「今日は、二人で行っておいでと言ってくれた」
父親と二人で話せるように、遠慮してくれたのだろうか。帰ったら釣果を見せてやろうと思い、ウィルは海へ目を戻した。
水の先で、何かが跳ねた。
ウィルが目をやるより先に、シルトの片方の耳がそちらへ向く。指が糸へ触れ、竿がほんの少し動いた。
次にしなったのは、その竿の先だった。
「来た」
短く言うと、シルトは腰を浮かせた。竿を持ち上げ、糸の緩んだ分を手で寄せる。ウィルも立ちかけたが、相手の動きを見て座り直した。
水面を割った魚が、腹を光らせて身をひねった。シルトは手元へ引き寄せ、布で押さえて鉤を外した。
「釣れましたね!」
「うん。一匹」
ウィルは魚の入った魚籠を覗いた。今度は自分の竿にも来てくれるだろうか。
*
明るくなるにつれ、海の色が分かれてきた。
向こうは青く、足元の浅いところには石の影が見える。ウィルは餌をつけ直し、今度は風の弱まったところで糸を送った。先ほどより少し遠くへ落ちる。
シルトは何も言わなかった。だが、ウィルの竿から水面へ目を移す時、口元が緩んでいた。
次に手へ伝わった重さは、波とは違った。
ウィルは竿を持ち上げかけ、止めた。早すぎるだろうか。隣を見ると、シルトもこちらの糸を見ている。
「今でいい」
声を聞き、竿を上げた。
何かが引く。手前へ戻そうとすると、水の中で向きが変わった。ウィルは立ち上がり、濡れていない石へ足を置き直す。シルトもそばへ来たが、竿は取らなかった。
「ゆっくりでいいから」
ウィルは息を吐き、糸を寄せた。
「相手を制するために、相手に呼吸を合わせるんだ。伝わる感触から、相手が何をしたいのか想像して、それを制する」
シルトに言われ、闇雲に糸を引くのを止める。まずは竿に伝わる感触に意識を集中する。
「そう。力ずくでは糸が切れてしまうからね。 相手の力には逆らわず。だが、好きにさせるな」
逆らわず、好きにはさせない。竿を引く力が強い時には引ききらず、しかし手は離さずにユックリと送り出す。やがて引く力が弱くなってから引き、相手の力が強まればこちらは弱め、静かに圧える。そんなやり取りを数度繰り返すうちに、だんだんと魚は力を失い、その姿が水上からも確認できるほどに引き上げられてきた。
「そろそろいいよ。一気に引き上げるんだ」
「はい!」
声と共にグンと引き上げると、釣り上げた魚が身をくねらせながら飛び出してきた。そのまま慌てず、ユックリと岸に引き上げる。うち上げられた魚が最後の抵抗とばかりにもう一度身を振る。逃がすまいと手を出しかけると、シルトが布を広げてくれた。
魚がその上へ乗る。ウィルは竿を下ろしてから、鉤を外す手元を見せてもらった。
「ありがとう、ございます!」
「やったな、ウィル」
自分の一匹が、袋の中へ入った。
腰を下ろしてからも嬉しくて、ウィルは魚籠を覗き込んだ。さっきシルトが釣った魚と、自分の魚が並んでいる。
「今の方が、少し……」
「大きいかな」
「はい。たぶん」
シルトが目を細めた。竿を手に戻しながら、もう一度だけ魚籠を見る。その顔を見て、ウィルは声を立てずに笑った。おじさんも比べたかったのかもしれない。
風が弱まり、波の音が低くなった。
「小さい頃は、プリシラが釣った魚まで、君が持とうとしていたね」
急に言われ、ウィルは振り返る。
「そうでしたっけ」
「あの子の方が先に釣れると、見たくてそばへ来る。二人の糸が絡まるから、少し離れて座らせたよ」
ウィルは糸の伸びる先を見た。今、隣へ寄りすぎれば同じことになりそうだった。子供の頃はプリシラにくっついて歩いていたと、この間リリシラにも言われた。
「今も、ちょっと見たくなりました」
シルトが笑った。
少し黙ってから、ウィルは尋ねた。
「おじさんとリリシラさんは、どうやって知り合ったんですか?」
シルトは竿を持ったまま、しばらく海を眺めていた。
「……その話は、二人でいる時に聞いてもらおうかな」
「リリシラさんの前で?」
「ちょっと長い話になるからね。私一人で話すと、後でどんな文句を言われるか」
困ったように笑うので、ウィルも笑ってしまった。それでももう少し聞きたかったが、シルトは魚籠へ目をやる。
「まず今日は、これをいっぱいにして持って帰ってやろう」
ウィルは頷いた。はぐらかされてしまったが、リリシラの話も一緒に聞いてみたい。それは次の楽しみにしておこう。
その後も暫くシルトとウィルは釣りを楽しみ、やがて魚籠が重たくなってくると、鉤と糸を竿へ留めて、帰る支度を始めた。
ウィルは自分の分を終え、魚籠を持ち上げた。
道を上がる頃には、村の方にも人の声が増えていた。家へ着くと、戸口でプリシラが待っている。袋を見た途端、耳が立った。
「いっぱい釣れた!?」
「豊漁さ」
シルトが答え、ウィルも魚籠を差し出す。プリシラは中を覗いてから、母親を呼んだ。
リリシラが受け取りながら、よかったわね、と笑う。シルトは竿を片づけに行き、ウィルは手を洗った。海水の乾いた指先が、水を受けて滑らかになる。
顔を上げると、シルトも隣で手を流していた。どちらが大きかったか、とプリシラが二人を見比べる。
ウィルが答える前に、シルトは小さくこちらを指した。さっき海で並んだ時と同じ笑顔だった。




