003a_女神との邂逅1
「来ましたね、ウィル。勇者の素質を持つ者」
知らない声だった。
自分を呼んでいたのは、プリシラではなかったか。
ウィルは辺りを見回した。足元にあるのは土でも草でもなく、白っぽい石畳だった。その両脇を、青く澄んだ水路が囲んでいる。水面には丸い葉と花が浮かび、向こう岸には、低い生垣に縁取られた庭が広がっていた。
ウィルは片足を引き、踵へ体の重さをかけた。硬い面が靴の底を受け止める。つい先ほどまで踏んでいた、葉と土の柔らかさはなかった。水路の縁まで目で辿ると、明るい空がその向こうへ続いている。
庭の先に、森がない。
石造りの柱の向こうにも、その下にも、青空が続いている。白い雲の間には、木々を載せた岩の塊が浮かんでいた。目を凝らしても、それを支える地面は見えない。自分の立つこの場所まで空に浮いているのだと気づき、ウィルは思わず足元を見直した。
振り返ると、石畳の少し先に、一人の女性が立っていた。その背後には二つの塔が並び、左右の幅広い階段が、さらに高い壇へと続いている。翼のある石像が階段の上を守り、壇に刻まれた金色の模様が光を受けていた。
神殿なのだろうか。見上げたまま、ウィルは声をかけられたことも忘れかけた。石像の翼から柱へ、柱からその間に見える空へと目が動く。どれも光を受けて明るい。だが、見慣れた村の屋根も、森へ続く道も、一つも見つからなかった。
つい先ほどまで、ゴブリンと向かい合っていたはずだ。ナイフを突き出し、かわされて――その先を思い出そうとすると、頭の後ろを殴られた衝撃だけが蘇った。
殴られる直前、プリシラが名前を呼んだ。振り向くことも、返事をすることもできなかった。
もう一度辺りを見ても、プリシラの姿はなかった。ウィルは、石畳の先に立つ女性へ目を戻した。
「……ここは?」
「夢と現実の狭間です。私は女神。あなたに力を与える者。夢を通じて、神託を与えに来ました」
夢。その言葉を聞いて、ウィルは少しだけ息をついた。どこかへ置き去りにされたわけではないらしい。
けれど、夢の中で女神に呼びかけられているというのも、どう受け止めればいいのか分からない話だった。ウィルはまばたきをした。目を閉じ、もう一度開いてみても、塔と階段はそこにある。水路にも顔を伏せるような近さで光が揺れていた。眠っているのなら目を覚ませばいいはずなのに、そのやり方が見つからなかった。
「神託……?」
「そう。あなたは勇者の素質を持っています」
女神は、ウィルが考えをまとめるのを待たなかった。
「来るべき魔王の復活に備え、あなたは真の勇者と成るべく己を鍛えなければなりません」
水面へ向いていた顔を上げた。声には、慌てた様子も言い淀みもない。こちらの聞き違いではないらしかった。
「僕が……勇者?」
今日、冒険者になったばかりだ。
初めての依頼を受けて、プリシラと森へ来た。プリシラが追い立てた、たった一匹のゴブリンを待ち受けていたのに、かわされ、何もできないまま倒れてしまった。その続きに置くには、勇者という言葉はあまりに釣り合わない。
「いえ、あくまで勇者『候補』です。素質があるだけなので、お間違いのないように」
まだ喜んだわけでもないのに、先回りして訂正された。
「……候補ってことは、他にもいるんですか?」
「ええ。あなたの時間軸でいうと、同じ世界に五十人くらいいます」
「……結構いますね」
「人類の危機に対して備えが一人では、何かあった時にどうするんですか」
「それはそうですけど……」
もっと神々しい説明が続くのかと思っていたのだが、返す言葉が見つからなかった。超然とした相手に突拍子もない事を言われて半信半疑だったが、人数が足りなければ困ると言われると、急に分かる話になる。
自分一人に何もかも任せるということではない。その点にはほっとした。だからといって、他の誰かに任せていいとも言ってくれそうにない。
他の候補は、どれくらい強いのだろう。ゴブリンにかわされ、空を突いたナイフを思い出す。まだ顔も知らない相手と並べられていることが、落ち着かなかった。
「まぁそういう事なので、必ず勇者になれる訳ではありませんが、有事の備えとしてあなたも自らを鍛えるのです」
ウィルは足を一つ動かした。これだけの話を立ったまま聞いているうち、膝まで固まっていた。靴の裏が石畳を擦る音が、自分と女神の間で鳴った。
ウィルは、ひとまず勇者という呼び名のことは脇へ置くことにした。考えていても、自分にふさわしいのかどうか、答えは出そうになかった。
「具体的には、何をすればいいんでしょう?」
「魔王の復活まではまだ時間がありますので、取り急ぎという事はありません」
思わず肩が下がった。けれど、女神の声は続いていた。
「ただし、勇者には試練がつきもの。あなたはそう遠くない未来に、魔王復活の予兆となる異変に巻き込まれます。その試練を乗り越えるためにも、あなたは出来る限り早く、強くならなくてはいけません」
巻き込まれる、と言われて初めて、ウィルはその話の中に自分が立っている気がした。遠くのどこかで起こることを教えられているのではない。
「それって、いつ頃なんですか?」
「残念ながら、それが起こる事はわかっても、いつ起きるというのは私にも判らないのです。あらゆる存在は互いに影響しあい、運命は常に変わり続けます。大きな事柄は確定していても、詳細な未来までは現時点でわからないのです」
問いかけるために少し乗り出していた体を戻した。日が分かれば、その日までにと考えられる。だが、目の前の相手が続きを言うのを待つほかには、手掛かりもなかった。
ならば、ずっと先になることもあるのだろうか。
「おそらく、遅くとも100日後には、その時が訪れるでしょう」
「う……結構早いですね」
100日。
今日のような仕事を繰り返していけば、その頃にはゴブリンを相手にもう少しましに戦えるだろうか。まず思いつくのがそんなことだった。試練と言われても、そもそも眼前のゴブリン一匹すら、今のウィルはうまく越えられていない。
倒れた時にはプリシラがいた。次も、同じように助けてもらえば済むのだろうか。
もう少し先だと思いたかった。けれど、遅くとも100日という女神の言葉に、のんびりしていていいとはとても思えなかった。
あのゴブリンが身をかわした時、どうすればよかったのだろう。追いかけて刃を向け直せたか。それとも、飛び込むこと自体が間違っていたのか。明日もう一度戦うとしても、今はまだ、その答えさえ出せなかった。
「あなたは、一流の冒険者になりたいのでしょう?」
答えを探すように黙ったウィルへ、女神が言った。
「そのために励むことは、勇者の道に背くものではありませんよ」
冒険者。朝、プリシラと向かったギルドが浮かんだ。まずはあそこへ戻り、次の仕事を受ける。その前に、ナイフの使い方も教わらなければならない。
勇者と言われた時には浮かばなかった明日の姿が、その言葉でようやく見えた。
「それなら、しばらくは冒険者として頑張ります」
「はい、そうしてください。しかし、今のあなたでは冒険者としても弱すぎます。ですので、私が力を授けましょう」
「え……僕って、そんなに弱いんですか?」
思わず聞き返した。自分でも分かっているつもりだったが、あまりにもはっきり言われると、聞き流すわけにはいかなかった。
「現に今も、ゴブリン如きにノされて、ここに飛ばされて来たわけですし」
「……さらっと酷いこと言いますね」
反論にしては弱かった。一匹くらいと思っていたのに、その一匹の動きについていけなかった。もっと言い返せる材料を探してみたが、初めての仕事で他に誇れることも思いつかなかった。
「まぁまぁ、そのために私が来た訳ですから」
女神の評価は、それでは終わらなかった。
「ちなみに現時点でのあなたの知能は並、戦闘力は今代の勇者候補の中でもダントツの最下位で、成人男性の世界平均で見ても下の下、伸びしろも無しです」
ウィルは唇を開いたまま、返事を忘れた。弱いと言われるだけなら、頑張りますと答えるつもりだった。だが、最後の言葉まで聞くと、その返事さえ引っかかった。見下ろした指を曲げる。空を突いたナイフを持っていた、この手に、先がないと言われている。
「あなた、さっき勇者の素質がどうのって言ってましたよね?」
何を頼りに頑張ればいいのか、いよいよ分からなくなってきた。
「勇者の素質は一つの時間軸で見た知能や身体能力の高さとは関係ありません」
顔を上げたウィルへ、女神は答えた。
「神業秘密なので、詳しくは申せませんが」
「あーもう、分かりました。それで、僕はどうすればいいんですか?」
説明してくれない素質を問い詰めても仕方がない。力を授けるとは言っていたのだ。その話だけは、ちゃんと聞いておかなければならない。




