041_離さないで
村での報告を済ませ、プリシラとエレノアに合流した頃には、ウィルの肩から朝の荷の重さが抜けていた。
今朝確かめた借金の残りは、五十五万ゴールドほど。少しずつでも返していなければ、もう六十万の線を越えていた頃だ。そろそろ心がざわつく金額になってきたが、焦ってもできることは変わらない。ケセラセラさ。
腰には新しいダガーがある。その使い心地を試したい気持ちを誤魔化しつつ、ウィルは二人と森の道へ入った。今日は荷運びではなく、三人で川沿いを歩いてみることにしたのだ。鉱石の袋を抱えていた昨日と違って、のんびり歩ける。気になる場所があれば、足を止めてもいい。そう言うと、プリシラは昨日の袋を抱える真似をして笑った。
木々の間を進むにつれて、水音が近づいてきた。道の先が開け、川に架かった木の橋が見える。岸沿いに茂る木々の間を、膨大な量の水が轟音を立てて流れ下っている。
「にゃんにゃんにゃ~♪ にゃ~♪ にゃんにゃんにゃ~♪ 今日もとっても冒険日和~♪」
先を歩くプリシラの尻尾が、歌に合わせて左右へ揺れる。
「最近はず~っと上機嫌だね、プリシラ」
「だってだって~♪ あたしたち三人で冒険できるなんて、夢みたいだよ~♪」
振り返った彼女に、エレノアも笑った。
「昔誘ってもらった時は断ったくせに、結局私もついてきちゃった。ごめんね、プリシラちゃん」
「そんなの気にしなくていいんだよ~♪ 一緒の方が楽しいもん♪ 三人一緒なら、毎日がハッピーデーだよ~♪」
「プリシラちゃん、ありがとう♪ これからもよろしくね♪」
ウィルも頷いた。自分が誘いに行く前に、二人で次の相談をしていることがある。それを見るのも嬉しかった。
橋へ近づいたところで、歌が途切れた。
プリシラが立ち止まっている。前を向いていた耳が、川上へ向き直っていた。
「プリシラ? どうかした?」
「ちょっと待って……?」
ウィルは足を止めた。エレノアも彼女の隣へ並びかけ、その顔を見て黙る。
水音と、葉の揺れる音。それ以外の音は、ウィルには聞き取れなかった。
プリシラは答えず、顔を少しずつ動かした。片耳が川上を向いたまま、もう片方も同じ方へ揃う。ウィルも水面を見たが、目に入るのは、岸に近いところを流れていく小さな枝くらいだった。
「面白いものでもあった?」
「違うの……。気のせいならいいんだけど……」
その時、水音の中に、短く息を吐くような声が混じった。
「……ぷあっ!」
ウィルは顔を上げた。橋の向こう、上流の水面に小さな頭が浮かんでいた。手が上がったかと思うと、すぐに見えなくなる。
「やっぱり! 子供が溺れてる!」
「え!? ど、どこ!?」
「あそこだ!!」
ウィルが指した先へ、エレノアが身を乗り出した。男の子が水を掻いている。顔を上げようとするたびに、口元へ波がかぶった。
「ど、どどどどどうしよう!? ここ、結構流れ速いよ!?」
プリシラの声が裏返った。男の子は橋の影へ入り、その下へ消えた。ウィルは腰のポーチを手早く外し、足下に投げ出しながら橋の下流側へ駆けた。
「大変!! ……しかも、この先は滝ですよ!?」
エレノアの声に、ウィルは川下を見た。流れの行き着く先が、白く途切れている。
「うああああああああああああ!!!」
橋の下から男の子が流れ出た。
岸へ泳ごうとしているのに、体が横へ向かない。手を伸ばしても、空を掻くだけだった。
「まずい……プリシラ!」
ウィルはプリシラを振り返ることもなく、呼びかけるなり川へ飛び込んだ。
「うん!」
プリシラの手が荷へ伸びた。荷袋からロープを取り出すと、流れを追い越す速さで、下流へ飛ぶように駆けていく。
飛び込んだ途端、冷たい水が全身を包んだ。山間の急流は夏でも水温が低い。こうも急激に体温を奪われては、大人でも長くは泳いでいられないだろう。ウィルは息を吸い損ね、水の中で体が回りかけた。足を伸ばしても、底には届かない。水面に顔を上げた時には、さっき立っていた岸がもう遠ざかっている。
すぐ横で腕が上がった。
ウィルは水を掻き、手を伸ばした。指先が濡れた服に触れるが、子供が暴れてうまく掴めない。もう一度伸ばし、今度は腕を掴んだ。
男の子がしがみつき、よじ登ろうとしてくる。その重みで、ウィルの口元が沈んだ。水を飲みかけながら子供の脇へ腕を回し、せめてその顔だけでも水面へ出そうとする。
川岸でプリシラが走っていた。エレノアも荷物を抱えてその後ろから追っている。岸の木のそばでプリシラが足を止め、ロープの一端を幹へ結びつけた。残りのロープを手繰り、川へ向き直る。
ウィルは岸へ向かって足を動かした。思うように近づかない。子供を支える腕が引かれ、そのたび自分の口元まで水が来る。
「ウィルーーーっ!!! 掴まってーーーーっ!!!」
プリシラの声がした。
岸からロープが飛んできた。水面を打ち、目の前を斜めに横切る。ウィルは空いている手を伸ばした。一度は指をすり抜けたが、沈む前に握り込めた。もう離すまいと、掴んだロープを腕全体にがむしゃらに巻き付ける。
子供が水を飲まないよう、肩口へ抱え直す。ウィルはなんとか自分の首から上も水面に出し、力いっぱい叫んだ。
「掴んだ!」
声を上げるのとほぼ同時にロープが張った。
腕が肩から引き抜かれそうになり、ウィルは歯を食いしばって耐えた。流されていた体が止まる。その分、水が背中へ押し寄せた。子供を抱えた腕へ、さらに力を込める。
プリシラが岸で踏ん張っていた。後ろの木から延びたロープを抱えるように持ち、体ごと後ろへ倒す。少し近づいたと思った岸が、そこで動かなくなった。
「わ、私も!」
エレノアがプリシラのそばへ駆け寄った。
ウィルは子供の顔を見た。咳き込んではいるが、顔は水の上に出ている。あとは、このまま――。
「ウィル! 危ないっ!」
顔を上げると、川上から木が流れてきていた。
避けようとしたが、ロープに引かれた腕は伸びきっている。手を離せば、子供ごと流される。枝の出た流木が、水面で回った。
「くっ!」
ウィルは男の子を抱き寄せた。顔を胸元へ伏せさせ、自分の肩を川上へ向ける。
「ぐあっ!?」
頭へ衝撃が走った。
一瞬、岸が見えなくなった。ロープを握る手へ体重がかかり、その痛みに、指へ力を込め直す。何かが耳のそばを擦り、流れ去った。
「ウィルーっ!?」
「だ……大丈夫だからっ!」
声を出した。プリシラになら、きっと聞こえたはず。
大丈夫だ。子供は、まだ腕の中にいる。離していない。
岸の二人を見ようとしたが、水しぶきの向こうで顔がぼやけた。ロープへしがみつき、ウィルはもう一度、息を吸おうとした。
*
エレノアはロープを引いた。プリシラの後ろで足を踏ん張る。だが、張り詰めたロープはぴくりとも動かなかった。
「んぐぐぐぐぐぐぐ!!」
「うううううううう!!!」
二人で引いても、水流に押されるウィルの体は岸へ近づかなかった。ロープが軋み、川面に細かな振動を伝えている。
「流れが速すぎて持ち上がらないよぉ! ウィルーーっ!!」
ウィルの口が動いた。だが、エレノアには何も聞こえなかった。子供を抱えた腕は動かない。流木は下流へ流れ去ったが、ウィルの額には赤い筋が見える。さっきまで岸へ向けていた顔が、少し下がってきていた。
「お願い、離さないでぇっ! 気を失っちゃだめええええ!!!」
プリシラが叫んだ。エレノアも手に力を込めたが、上半身が前へ引かれる。自分がここでぶら下がっているだけでは、変わらない。
どれだけ力を込めても、上流から絶えず押し寄せる水流が、ウィルの体を下流へ押し流そうとする。
「プリシラちゃん! 流れがなければ二人を持ち上げられる!?」
「いける! 上げられるよぉ! 大人の豚さんでも持ち上げられるもんっ!」
「分かった! なら私が止めるから! 本当に一瞬だけど……お願い!」
「絶対に引き上げるっ! 絶対!」
プリシラがロープを抱え込み、一人で支える構えになった。その足が踏みとどまっているのを確かめてから、エレノアは手を離した。
「魔法で水を吹き飛ばすよ!」
「ロープが保つか分からない! 早く!」
エレノアは岸際へ進んだ。飛沫が顔へかかる。二人よりも上流、水流が押し寄せるところへ狙いを定めた。
「私、まだ炎系の魔法しか使えない……。生半可な魔法じゃ駄目……」
「今使える最大の魔法を……最大出力で!」
掌へ意識を集める。ロープが軋むたび、そちらへ顔が向きそうになる。エレノアは必死に川へ目を戻した。狙うのはウィルではない。ウィルへ押し寄せる水流だ。
「いくよ! プリシラちゃん!」
「絶対上げる! あたしは獣人だもん! 人よりずっと力持ちなんだ!」
「アルセナ――ファナレビース・ロクアロム!」
詠唱とともに、エレノアが手をかざした先、急流の上に火球が膨らんだ。小さな家がすっぽり収まるほどに膨れ上がった炎が、今度は少しずつ縮んでいく。
炎が弱まっているのではない。圧縮されるほどに、その光は強くなった。玉蹴り遊びの玉ほどの大きさになる頃には、まともに目を向けていられないほど眩しく輝いていた。
「お願い! 止まって!」
エレノアの声に応じ、圧縮された炎の玉が急流を穿った。
次の瞬間、鈍い轟音とともに上流の水面が隆起し、白い飛沫が鳥の飛ぶ高さまで弾け飛んだ。エレノアは顔を背けそうになるのをこらえた。飛沫の向こうでウィルの頭が見え隠れする。二人を下流へ押していた水流が乱れる。その一瞬、張り詰めたロープがわずかにたわんだ。
「うぐぐぐぐぐぐぐ! 緩んだ!」
プリシラが全身に力を込める。
「こにゃくそぉぉぉぉぉぉっ!!!」
プリシラが地面に凹みを作るほど強く踏ん張り、一気にロープを引いた。ウィルの体が大きく動き、釣り上げられた魚のように水面を飛び出す。男の子を胸にしっかりと抱えたまま、その体は勢い余って水面へ叩きつけられ、跳ねた。
エレノアは手を下ろし、二人が引き寄せられる方へ駆け寄った。全身から力が抜け、脚が重い。魔力を一気に使いすぎたのか。それとも、さっきパーティの荷物を抱えて全速力で走ったせいか。頭がずきずきと痛むが、今はそんなことに構っていられない。
一瞬だけ押しとどめられた水流は、もう戻っていた。再びウィルの足をさらおうとする流れに抗って、プリシラが二人を川岸まで手繰り寄せる。
濡れた体が岸へ乗り、ロープが地面に落ちる。
エレノアは膝をつき、二人を見た。ウィルも男の子も、岸に上がっている。すぐ横では、川が先ほどと変わらない勢いで流れていた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
プリシラが肩で息をしていた。ロープから手を離し、顔を上げる。
「やったあああああ!!!」
「すごい! すごいよ、プリシラちゃん!」
「エレノアこそ! 川の流れを止めちゃうなんて!!」
笑いかけられ、エレノアは頷こうとした。けれど、腕も脚もまだ震えていて、ちゃんと頷けたかも分からなかった。こんなやり方しか思いつかなかった。
「土か水の魔法が使えたら、もっと簡単に助けられたはずなのに……ごめんなさい」
「謝ることなんてないよ! エレノアがいたから助けられたんだよ!」
「うん……うん……」
「そ、そうだ! 二人の状態を確認しなくちゃ!」
プリシラがウィルへ向き直った。男の子はウィルの腕から離れ、咳き込んでいる。エレノアがそちらへ手を伸ばした時、プリシラの声が止まった。
「大変! 頭から血が流れてる!?」
ウィルの顔が横へ傾いていた。濡れた髪の下から、赤いものが伝っている。
「兄様、子供を流木からかばってた!」
口にしてから、その瞬間が脳裏をよぎる。男の子を抱き寄せ、体勢を変えたウィルの頭を流木が打ち据えていた。ウィルはそれでも、ロープを離さなかった。
「あああ、どうしよう!? ポーション!? ポーション!?」
「落ち着いて! プリシラちゃん!」
叫んだ自分の声に、エレノア自身が驚いた。けれど、プリシラがこちらを見たので、そのまま続けた。
「意識がないとポーションは飲めないし、こんなにびしょ濡れだと、かけても効果が薄まっちゃう!」
「じゃ、じゃあどうすれば!?」
エレノアはウィルのそばへ座り直した。呼びかけても返事がない。男の子は隣で咳をしながら、自分の手で顔を拭っている。
「プリシラちゃんは急いで村に戻って、人を呼んできて。子供の方は大丈夫そうだから、兄様をねーねのところに運んでもらうの」
「そ、それならあたしが……」
「頭を打ってるから、慎重に運ばないと駄目! 応急手当は私がしておくから、急いで!」
「そ、そっか! 分かった! 急いで呼んでくる!」
プリシラが立ち上がった。走りかけて、もう一度ウィルを見た。
エレノアは頷いた。ここには、自分が残る。
風を切るような軽快な足音が遠ざかっていく。エレノアは荷から布を取り出し、濡れた手で広げた。指が震え、折り重なったところがうまく開かない。さっき川へ大魔法を放った手と、同じ手とは思えなかった。
「兄様」
さっきまで名前を呼ぶ声は、あんなに大きかったのに。今は川音に消えそうな声しか出せなかった。
それでも、手は止めなかった。すぐにプリシラが人を連れてきてくれる。それまでウィルを、一人にはしない。




