038_ねーねとの約束
翌日の午後、ウィルは訓練場の案山子に木短剣を打ち込んでいた。
藁を束ねた胴には、打たれて擦り切れた跡がある。ウィルはそこを狙い、踏み込んでは木短剣を当て、構え直した。午前から繰り返してきた動きだ。昼に一度休んだが、今は肩も腕も重い。先ほどから切っ先が狙ったところを外れ、案山子の脇を叩くようになっていた。
そろそろ終わりにしようと考えながら、もう一度だけ、と木短剣を握り直す。昨日、男の前で震えた膝を思い出すたび、もう少しだけと思い剣を振るった。
打ち込んで元の位置へ戻ろうとした時、足がもつれた。よろめいたまま膝をつき、咄嗟に差し出した手のひらが地面を擦った。木短剣が砂の上へ転がる。
立ち上がろうと手をつくと、擦れたところに痛みが走った。土を払うと、小さく血がにじんでいる。落とした木短剣を拾ったが、握り直しても腕に力が入らなかった。ウィルは道具置き場へそれを戻し、訓練場を出た。
ネージュを驚かせたくはなかった。昨日はあんなに喜んでくれた。今日は大丈夫な顔で会いに行きたかったのに。
治療院では、ネージュが手のひらに残った土を落とし、傷を診てくれた。何をしていたのか訊かれて、案山子への打ち込みを続けたことを話す。切っ先が狙いを外れるようになった時、やめていれば転ばずに済んだかもしれない。今ならそう思えるのに、あの時は次の一度のことしか考えていなかった。
「もう……また無茶をして」
「は、はい……ごめんなさい」
手当てを終えたネージュが、こちらへ向き直った。いつものように笑って済ませてはくれなかった。
先ほどまで傷を見ていた目が、今はウィルの返事を待っている。どこで何をしていたかは、手当てを受けながら話してしまっていた。転んだだけはもう通じない。
ウィルは言い訳を飲み込み、顔を起こした。
「ねえ、ウィル。あなたが念願の冒険者になれて、気持ちが逸ってしまうのは分かるわ」
ウィルは膝の上で手を揃えた。何か言おうとしたが、ネージュの声が続く。
「でもね。無茶をして、体に残るような怪我をしてしまったら、冒険者を続けることもできないの」
当然の指摘を受けて、更に後ろめたい気持ちになる。
「それに、無理を続ければ……死んでしまうことだってあるのよ。ねーねは、そんなの絶対に嫌……」
最後の声が小さくなった。
昨日、抱き寄せてくれた時には、恥ずかしくて周りばかり気になったのに、今はその潤んだ瞳から目を逸らせなかった。守りたくて気が逸って、当の本人がこんな顔をさせてしまったらだめだ。
「ごめん。そうだよね。ねーねの言う通りだ」
早く強くなりたいのは、今も変わらない。だが、稽古を続けられなくなったら、元も子もない。
「もう無茶はしないよ。ねーねを悲しませたりしたくない」
ネージュはしばらくウィルを見ていた。それから、ゆっくり頷いた。
「分かってくれて嬉しいわ。お願いね、ウィル。ねーねと約束よ?」
「うん。約束」
今度は急いで返事をしなかった。目を見て頷くと、ネージュの肩がわずかに下がった。
「焦らないで、ウィル。あなたは必ず、立派な冒険者になれる」
責める時とは違う、柔らかい声だった。
「自分なりに鍛錬を続けてきたことも、戦う以外の勉強も怠らずに続けてきたことも、ねーねは全部知ってるわ。そんな勤勉な冒険者、ほかに見たことないもの」
ウィルは少し気恥ずかしくなった。知られていたのだ。手当てを頼みに来る時、無茶をしているところばかりを見せていると思っていた。
「まだ、あなたの冒険は始まったばかりでしょう? ゆっくり楽しみながら、着実に進めばいいのよ」
「うん、ありがとう。ねーねにそう言ってもらえたら、少しだけ自信が出てきた」
ネージュが微笑んだ。ウィルも息をつき、膝の上で握っていた手を緩める。
「ふふふ。それに、ウィルがそんなに早く立派な冒険者になって、村から飛び出していってしまったら、ねーねは退屈で……すぐおばあちゃんになっちゃうわ」
前にも聞いた言葉だった。その時は、そんなにすぐ年を取るわけがないと笑えた。
ネージュは頬へ指先を添え、少しだけ目を伏せた。
「一緒にいたいのは……単なる私のわがまま。だけど、少しだけ気にしてくれたら嬉しいわ」
「ぼ、僕だって、ねーねと一緒にいたいよ。ずっとだよ?」
口にすると、花畑で同じように言った自分が浮かんだ。あの時より声は低くなったのに、顔が熱くなるのは変わらない。
ネージュが顔を上げた。
「それなら、とっても嬉しいわ♪ これからも、たまにでいいから、私に元気を分けに来てね♪」
「うん!」
返事をすると、ようやくいつもの笑顔が戻った。
ウィルは立ち上がり、身支度を整えた。外はもう夕方だった。今からもう一度、とは思わなかった。
「今日は、ちゃんと休むよ」
戸口で振り返って伝えると、ネージュが頷いた。
帰ったら、まずは夕飯にしよう。ウィルは急がず、家へ向かって歩き出した。
*
翌日は、疲れを感じたところで打ち込みを切り上げた。午後にはエレノアと少し話したくて、村長の家へ向かった。授業はもう終わった頃だろうと思っていたが、戸口まで来ると、教室の方から声が聞こえた。
「明日までに用意しておいていただけますか」
ウィルは歩みを緩めた。戸口の向こうに、エレノアが立っている。相手は村の先生だった。青い髪を左右へ分けた男で、眼鏡の奥からエレノアを見ている。子どもたちの声はなく、並んだ机には誰も座っていない。
「それは、ちょっと難しいです」
「明日の授業で使うんですよ。なぜ用意できないんです?」
エレノアは左手を胸元へ添えた。
「この辺りでは珍しいものですから。行商の方が次に来るのは来月です。そこで注文して、届くのは再来月になります」
「それでは明日の授業ができないじゃないですか!」
ウィルは戸口で足を止めた。先生はエレノアの返事を待たずに声を荒らげている。挨拶を差し挟める調子ではなかった。
「前もって言っていただければ、準備もできましたのに」
「私が以前いた学院では、そこら中にあったものですよ。この村にはそんなものもないんですか?」
「ないものはありません。授業を変更するしかないと思いますけれど」
エレノアの返事は静かだった。だが、添えていた左手が服から離れず、指が少し握り込まれる。
「どうにか用意してください。授業の準備はチューターの役目でしょう!」
「エレノア」
ウィルは教室へ入った。
「声が聞こえたんだけど、何か困ってる?」
彼女が顔を上げるより先に、先生が振り向いた。
「部外者が勝手に入ってこないでください」
「ここは村長さんの家ですし、授業はもう終わっていますよね」
「授業の話をしているんです。それには部外者でしょう」
ウィルは先生の前で止まった。エレノアを背中へ隠すような距離ではなく、三人で話せるところへ立つ。
「この村のチューターは、手伝いですよ。給金をもらっている先生の準備を、全部引き受ける役ではないと思います」
先生が口を開いた。ウィルは、その言葉を待たずに続けた。
「喧嘩をしに来たわけじゃありません。何か手伝えないかと思って。それで、何が要るの?」
「凸レンズです、兄様。明日の授業で使いたいそうなのですが、備品にはなくて」
「集光の実験ですか?」
「そうですよ。科学の実験は、子どもたちの未来を作る大事な授業です。学のない方には分からないかもしれませんが」
ウィルは言い返しかけた口を閉じた。先生の言い方より、明日の授業に何が足りないかの方が先だった。
「それなら、空き瓶に水を入れれば代わりになりませんか」
先生からは返事がなかった。エレノアが瞬きをして、ウィルを見る。
「瓶、ですか」
「うん。水が入っている時と、空の時とで比べられるでしょう。どうして光が集まるのかも話しやすいと思います」
答えは、考えるより先に口から出ていた。ネージュが知っていてくれた、戦う以外の勉強が、こんな所で役に立つ。
「ほかには何が要りますか。黒い紙とか?」
「……そうですね。できるだけ黒いものを用意していただきましょう」
光を集めて紙を燃やす実験だ。白い紙の一部を黒く塗って比べれば、どちらが先に焦げるか、子どもたち自身の目で確かめられるはずだ。
「それも、白い紙に炭を塗るところから見せればいいんじゃないですか。子どもたちにも違いが分かるし」
先生の顔を見て、ウィルは少しだけ顎を上げた。
「光が曲がる説明だけで、授業の時間を全部使うわけじゃないですよね」
「紙と炭で結構です!」
先生の声が教室に響いた。机の上のものを乱暴にまとめる手を、ウィルは黙って見ていた。
「明日までに用意しておくように!」
足音が戸口を抜ける。遠ざかるまで、ウィルは何も言わなかった。
エレノアが、胸元の手を下ろした。
「兄様、ごめんなさい」
「エレノアが謝ることじゃないよ。僕の方こそ、勝手に首突っ込んじゃった。明日、やりにくくなったらごめん」
「いえ、ああいうことは、しょっちゅうですから」
「……しょっちゅうなの?」
思わず戸口を振り返った。追いかけても仕方がないと分かって、ウィルはエレノアへ向き直る。
「つい口を挟んじゃうくらい理不尽だったけど……」
「助かりました。本当に」
彼女は机へ手をついた。ようやく息をつけたように肩が下がる。
ウィルは、その隣へ立った。さっきの先生の乱暴な手つきが、まだ目に残っていた。
「それに、用意しようと思えば、できなくもなかったんでしょう?」
「……え?」
「ケイトさん、装備の彫金もするでしょう。拡大鏡くらい持ってるの、エレノアなら思い出さないはずないもん。迷ってたのは、それを先生に貸すかどうかだよね」
エレノアがウィルを見上げた。
「分かるよ。僕も、ケイトさんの大事な仕事道具を、あの人に貸したいとは思わないもん」
「あの先生、道具を大事に扱ってくださらないんです」
「それに、話を聞いたら授業も想像ついたし。あれなら代用品でいいよね」
「兄様!」
勢いよく近づかれ、ウィルは机へ手をついた。エレノアの両手が、彼の服を掴む。
「エ……エレノア?」
「兄様はいつだって全部分かったうえで、私を助けに来てくださるんですね」
「大好きです、ウィル兄様」
真正面から言われて、返そうとした言葉が詰まった。
「か、家族を助けるのは、当たり前だよ」
エレノアが唇を結んだ。服を掴む手は離れない。ウィルが次の言葉を探すより先に、彼女が顔を覗き込んだ。
「私たち、もう大人ですよ?」
「そうだけど。僕はエレノアの兄様だし」
「……わかりました、呼び方を替えればよろしいんですね?」
問い返す声は、さっき先生に向けていたものより、ずっと柔らかい。
ウィルは目を逸らした先に、空いた机を見つけた。
「そ、それより、用意しよう。瓶と、紙と、炭!」
「兄様。お話はまだ終わっていませんよ」
「明日の分でしょう? 早い方がいいよ。紙と炭は、ここにある?」
「ええ。それは用意できますけれど」
「じゃあ、僕は瓶を探してくる。集まったら、水を入れて試してみよう。あれだけ言って、明日うまくいかなかったら困るし」
服からそっと手を外してもらい、戸口へ向かう。背中に、小さな「いくじなし」が飛んできた。
聞こえなかったことにして振り返ると、エレノアは笑っていた。
「ありがとうございます。私も行きます」
ウィルは頷き、彼女が並ぶのを待った。瓶を探すついでに、授業で何をしているのか聞いてみよう。先生に無理を言われた話ばかりではなく、子どもたちとどんな時間を過ごしたのかも聞きたかった。




