031_届かない背中
「あたしと特訓しよ!」
そう言うプリシラに連れられて来たのは、慣れ親しんだ家の前。プリシラの家の牧場だった。
家畜のいない柵の中へ入ると、プリシラがウィルの方を向いた。足元は土と短い草で、隠れる場所はない。柵の向こうまで出なければ、彼女の姿を見失うことはなさそうだった。
「今日はここで、鬼ごっこしよ♪」
「鬼ごっこ?」
ウィルが聞き返すと、プリシラは両手を背へ回し、笑った。
「あたしが逃げるから、ウィルが捕まえるの。決めた時間のうちに触れたら、ウィルの一本ね。柵の外へは出ないよ」
「それが、訓練になるの?」
「なるよ。今日はあたしから手は出さないから、捕まえることだけ考えてみて」
初めて一人でゴブリンを倒したあと、これからは遠慮せずに教えてほしいと頼んだ。そして先日、隊長と副長に稽古をつけてもらった話を聞いたプリシラが、今度は自分も特訓したいと申し出てきたのだが、てっきり打ち合うものだとばかり思っていた。
ウィルはナイフとポーチを外し、柵の外へ置いた。中へ戻ると、プリシラも待っていた場所から離れる。
「あたしが始めと終わりの合図をするね。その間に捕まえられなかったら、おしまい。一回休んで、また始めよう」
「分かった」
柵の中は、円内の稽古よりずっと広い。それでも、どこまでも逃げられるわけではない。いつも彼女について走っていたウィルは、追いつくまで走ればいいのだと思い、少し膝を曲げた。
「じゃ、始め!」
プリシラが走り出した。
ウィルも追いかける。背中へ伸ばした手の前で、彼女が横へ動いた。ウィルは向きを変えて手を伸ばすが、今度はその先から遠ざかっていく。
柵が迫った。プリシラは軽く向きを変えて戻ってきた。近い、と思った時には、ウィルの脇を抜けている。慌てて振り返ると、もう腕が届くところにはいなかった。
「あれ?」
走る向きを変えたウィルに、プリシラが手を振った。足は動き続けている。そのあとを追ううちに、胸が苦しくなってきた。
止まれば捕まえられない。そう思って走り続けたが、追いつくどころか、自分の方が遅くなっていった。
「はい、そこまで!」
終わりの合図で、ウィルは膝へ手をついた。プリシラが、すぐそばまで歩いてくる。
「……一回も、触れなかった」
「うん。休んだら、もう一回ね」
プリシラの息は、ほとんど乱れていない。ウィルは顔を上げ、彼女と、さっきまで走っていた柵の中を見た。どこか遠くへ逃げられたわけではなかった。同じ場所を、何度も行き来しただけだ。
息が落ち着いてから、二回目を始めた。
今度は、柵に近づいたところを狙って追った。先に向きを変え、戻ってくるはずの場所へ走る。だがプリシラは、ウィルがそちらへ向かったのを見ると、別の方へ抜けていった。
空いた場所で、ウィルは足を止めた。プリシラの背中が、また遠ざかる。
次にすれ違いそうになった時は、手を伸ばすのが早すぎた。指先を避けた彼女が笑い、ウィルは体ごと追いかけようとして、足をすべらせてすっ転ぶ。
合図がかかった。手はまだ、何にも触れていなかった。
「ウィル、だいじょーぶ?」
「う~ん……簡単そうだと思ってた」
「じゃあ、簡単じゃないって分かったね!」
プリシラは嬉しそうに言った。からかわれた気もしたが、ウィルも少し笑った。ナイフを持って立ち合ったら、もっと何もできなかったかもしれない。手を出さない彼女に触れることさえ、できないのだから。
その日は、何回試しても一本を取れなかった。柵の外で道具を拾う時、ナイフを腰へ戻す手まで重い。
「明日も、お願いしていい?」
「もちろん!頑張ってあたしを捕まえてね♪」
並んで牧場を出た。歩いているプリシラの肩はすぐ隣にある。さっきは、この距離に入ることができなかった。ウィルは彼女の足へ目を落とし、自分の足運びと見比べた。
*
二日目も、プリシラは逃げるだけだった。
ウィルは前日のように最初から走り回らず、彼女の全身を見るつもりで始めた。肩だけを追っていると、向きを変えた足が見えなくなる。近づくたびに手を出すのをやめ、届きそうなところまで走った。
それでも、触れそうになるとプリシラの体はしなやかにすり抜けていく。ウィルがそちらへ手を伸ばした時には、プリシラの尻尾はフルフルと揺れて、ウィルに別れを告げて遠ざかっていた。
「い、今の、ちょっと惜しかったよね?」
「うん、昨日より近かったね!」
返事を聞いて、ウィルはまた追った。だが近かった一回のあと、すぐ次も届くと思って無理に走り、息が上がった。終わりの合図までには、手を伸ばせる距離にも行けなくなっていた。
休むために柵のそばへ座ると、草に汗が落ちた。プリシラが、その横へしゃがむ。
「昨日より動けてるよ、ウィル」
「でも、後半は全然……」
「疲れてるもんね。少し長く休もうか」
プリシラは待ってくれた。休憩中はおしゃべりをして、荒かった息が整ってくると、そろそろと立ち上がった。そのあとは、また初めからだった。次の一回が始まれば、疲れたウィルの前でも動きを遅くしてはくれない。
帰る時、ウィルは触れそうになった一回を、プリシラに話した。
「あの時、僕が手を出すの、分かってた?」
「うん。来るかなって思った」
プリシラが、ウィルの出した手をまねた。指先を追うように体を横へずらす。その動きは今はゆっくりなのに、さっきの空振りを思い出せる。
「そっか……。僕が見てる間、プリシラも見てるんだよね」
「そりゃそうだよ。捕まっちゃうもん!」
行く先を見ているのは、自分だけではなかった。捕まえようと伸ばす手が、逃げる向きを彼女に教えていたのだ。
その夜は、早めに寝た。横になると脚が重かったが、もう一度試したい気持ちでいっぱいで。
*
三日目、ウィルは手を出す直前まで、プリシラの動きを見ていた。
近づいてきた彼女が、ウィルの横を抜ける。その一歩を見て向きを変えた。背中を追ってから振り返るより、早く動けた。初日と違い、足を止めずに追いかけられる。
プリシラが次にどちらへ行くか、構えと足から考える。先日、隊長との稽古で教わったことを、ここでも試していた。
右へ行きそうだと思ってそちらへ出ると、プリシラは左へ抜けた。逆に、迷って立ち止まった時には、目の前を通り過ぎていく。考えれば全部分かる、というものではないらしかった。
それでも、昨日より長く追えた。やたらに手を振り回さず、すれ違ったあとも彼女を見たまま動く。届かないまま終わった一回でも、以前のように遠くに置いていかれることは減ってきた。
最後の一回、ウィルは柵際でプリシラに追いつきそうになった。手を伸ばすと、指先が、革の服のすぐ手前を通る。あと少し、と体を前へ出した時には、もう彼女が離れていた。
「すとーっぷ!」
止まったウィルは、出した手をしばらく見ていた。
「う~ん、惜しかった。 明日こそ!」
「うん。あたしも頑張って逃げるね!」
プリシラの返事に、ウィルは顔を上げた。触れそうだからといって、止まってくれる相手ではなかった。ゴブリンと戦った時に頼んだことを、彼女はきちんと守ってくれている。
*
四日目、朝の草にはまだ露が残っていた。
ナイフとポーチを柵の外へ置いてから、ウィルは昨日と同じ場所へ立った。プリシラが向こうで片手を上げる。
「始め!」
彼女が走った。ウィルは追いながら、次の足がどこへ出るかを見る。
柵に近づくたびに、曲がって戻ってくる。その姿を、今度は背中だけで追わなかった。こちらの方へ顔が向いたところから、プリシラを見ながら足を運ぶ。
近い。
けれど、まだ手は出さなかった。プリシラがウィルの横へ抜けようとする。ウィルも向きを変え、彼女の肩へ手を伸ばした。
掌に、服の革が触れた。
二人とも足を止めた。ウィルは、触れた手をすぐには下ろせなかった。
「……触った?」
「うん、一本!」
プリシラが振り返って笑った。その声で、ようやくウィルも手を引く。
「やった……!」
「やったね!ウィル!」
息を吐くと、笑いまで一緒に出てきた。初めてここへ来てから、何度も、何度も手を伸ばした。ようやく、一度届いたのだ。
一本取られた側だというのに、プリシラも嬉しそうだった。ウィルが息を整えるのを待ち、少し離れた場所へ歩いていく。
「じゃー、次からはもう少し速くするね!」
「え?」
プリシラが振り返った。
「一段目、できたからね。休んだら、次をやろう!」
ウィルは、まだ温かい掌を見た。それからプリシラを見直す。昨日まで全力で追っていたのに、彼女には、まだ速くする余裕があった。
次の一回が始まると、その違いはすぐに分かった。同じように動いたつもりでも、手を出す前にプリシラが離れてしまう。しかも、今回からは背を向けて走る事は殆どなく、動いている間もずっと向き合ったまま動き続けていた。
終わりの合図で、ウィルは足を止めた。さっき触れた肩が、今はまた届かなくなっていた。
「……これで、もう少し?」
「うん!」
返事は明るかった。ウィルは柵へ寄り、外に置いた道具のそばへしゃがんだ。プリシラが、柵の内側から顔を覗かせる。
「ウィル。 また……やるよね?」
プリシラが不安そうに尋ねてくる。ウィルは少し自嘲気味に笑いながら頷いた。自分の知らない速さをプリシラは持っていた。今日の一本が嬉しい分、まだ追いつけないことも、はっきり分かった。
「うん。次もお願いね、プリシラ」
腰へポーチを下げ、ナイフを戻した。プリシラも柵の外へ出てくる。二人で牧場を出る時、ウィルは先を行く彼女に、今度は歩いて追いついた。




