029_フランソワーズの水
朝からひと仕事を終えて、午後からはプリシラを冒険に誘おうと、ウィルは彼女の家へ向かっていた。春の日差しも今日は夏を思わせるほど強くなり、着く頃には少し汗ばむくらいだった。家の陰に入ると、頬に当たる風が涼しい。ウィルは首筋を拭い、家の方へ声をかけようとしたが、先に聞き慣れた声がした。
「もうちょっと、食べない?」
声のする方へ回ると、プリシラが豚のフランソワーズのそばにしゃがんでいた。傍らには父親のおじさんもいる。プリシラが餌を差し出しているのに、フランソワーズは地面に伏せたまま、口をつけようとはしなかった。
プリシラは餌を鼻先へ近づけたが、フランソワーズが顔を背けると手を引いた。プリシラはウィルの足音に片耳だけを向け、まだ豚を気にしている。何か困っているのかと、ウィルは声を掛けた。
「プリシラが日中ここに居るなんて珍しいね」
「おはよ~ウィル、ちょっとだけ待っててね」
振り返った顔がほころぶ。
「おはよう、プリシラ」
ウィルも二人へ近づいたが、誘いの言葉は後にした。
「どうしたの?」
「なんかね、フランソワーズの調子が悪いんだって」
「夏バテみたいなものだと思うんだけど、このところあまり餌を食べてくれなくてね」
おじさんが言った。ウィルもプリシラの隣にしゃがんだ。餌の器には、ほとんど食べた跡がない。プリシラは手に残った餌をそこへ戻した。食べてくれないまま、ここで見守っていたらしい。
「そういうのってどうやって治療するんですか?」
「いつもより少し清潔にして、水もいつもよりこまめに替えてあげたり、といったところかな」
おじさんは食べ残した餌を見て、器を少しこちらへ寄せた。
「病気にかかっていそうだったら薬を調合したりもするけど、これくらいなら気にかけておくくらいでそんなに大仰にはしないよ」
「それだけで治るものなんですか?」
ウィルはおじさんへ顔を向けた。食べられずにいるなら、早く薬を飲ませた方がよいのではないかと思ったが、動物のクスリというのはどんなモノなのだろうか。動物は元々はクスリなど飲まないし、むしろ自然にないモノに関してはデリケートなのかも知れない。
おじさんは、気を悪くした様子もなく頷いた。
「人間にとって良くなさそうに感じても、動物にとってはそうではなかったりするからね」
「人間の感覚でやりすぎると、動物にはかえってよくないんだよ」
ウィルはもう一度、フランソワーズを見た。
顔を近づけると、フランソワーズの耳がウィルへ向いた。人なら、何がつらいのか尋ねられる。こちらを気にしてくれてはいるようだが、声を掛けたところで答えを聞けるわけではなかった。
「意思の疎通が出来ないから難しいですね」
「そうでもないよ~? あたしこの子達が言いたいことなんとなく分かるもん」
プリシラが言った。
「今も?」
「うん……」
答えたきり、プリシラは口を閉じた。鼻先を動かすフランソワーズを見て、それから水へ目を移す。器のそばへ顔を寄せた彼女の鼻が、小さく動いた。
ウィルも水の器を見た。餌のすぐそばに置いてあり、フランソワーズはいつでも飲めそうなのに、口をつけていない。プリシラが器へ手を添えると、豚はそちらへ顔を向け、また背けた。
水を置いてあるのに飲まない。ウィルにはそれくらいしか分からなかったが、プリシラは豚と器を見比べていた。何か思い当たったように、父親を呼ぶ。
「ねーパパ。このお水、もしかして井戸のお水?」
「そうだが、どうしてだい?」
「なんかいつものお水と違ってあんまり飲みたくないみたい。あと、なんかウンチが出づらくて辛そうにしてるよ?」
ウィルは器へ目を落とした。水は濁っていない。器の縁へ手を添え、顔を近づけてゆっくり息を吸ってみたが、何かおかしな匂いがするわけではなかった。
「水の匂いも、違うの?」
「違うよ。いつものは、滝のお水だもん」
ウィルは水の器から顔を離した。プリシラは、森の薬草を嗅ぎ分けた時にも見た、迷いのない顔をしていた。水を替えた理由なら、おじさんに聞けば分かるかもしれない。ウィルは彼へ目を向けた。
おじさんは、水の器とフランソワーズを見比べて考え込んだ。娘の言った二つの不調に、思い当たることがあるらしい。
「ん~? なるほど。という事は、水分不足で便秘かなぁ」
「いつもって滝のお水汲んで来てるんでしょ?」
「そうなんだが、最近少し夜なべをする事があってね。確かにここ何日か井戸の水で済ませていたんだ」
「フランソワーズは繊細だからね~。あたしお水汲んでこようか?」
プリシラが立ち上がりかけた。おじさんは穏やかに首を振る。
「いや、それさえ分かれば大丈夫。午後一番で汲んでくるよ」
「よかったね、フランソワーズ♪すぐ新しいお水がくるから、もうチョットだけ待っててね♪」
プリシラは再びしゃがみ、嬉しそうに声をかけた。
「ブッ」
丸い鼻先が彼女の方へ動いた。プリシラは笑い、手を伸ばす。低い鳴き声がもう一度して、ウィルもつい口元を緩めた。
本当に返事をしたみたいだ。
プリシラは空になった手を、今度は餌をやるためではなく、鼻先へそっと差し出した。フランソワーズの方から手のひらへ触れると、嬉しそうにその頭を撫でる。ウィルも触れてみたくなったが、立て続けに手を出して嫌がられては悪い。少し離れたところから、彼女が撫でるのを見ていた。
おじさんは立ち上がり、水汲みに使う桶を確かめ始めた。薬を使わずにできる手当てもあるのだと、ウィルは思った。食べないから薬を、という自分の考えでは、水が変わったことに気づけなかった。プリシラはただ動物好きなだけでなく、フランソワーズが嫌がっているものを見つけてくれたのだ。いつもの水なら飲めるだろうか。早く元気になった姿を見たい。
フランソワーズはプリシラに撫でられたまま、おとなしくしている。ウィルも背へ手を伸ばし、触れる前に彼女へ尋ねた。
「ここでいい?」
「うん。ウィルなら大丈夫だよ」
プリシラの撫で方を真似して、背へそっと触れた。思ったよりも毛が硬く、呼吸に合わせて背がわずかに動く。触れられても嫌がらないのが嬉しかった。ウィルは背に沿って、もう一度手を動かした。プリシラはこんなふうに、毎日この子たちのそばで様子を見ているのだろう。動物のことが分かるという彼女の言葉が、少し羨ましくなった。
「お水、飲めるといいね」
丸い耳が動いた。返事なのか、ただ動いただけなのか。尋ねる前に、プリシラが隣で笑った。
「フランソワーズはちゃんとウィルの事覚えてるよ。ブタさんたち、嫌だったらすぐ逃げちゃうもん」
「そっか。よかった」
「プリシラって昔から動物に好かれてたよね」
「なんでだろうね~♪」
「動物にはプリシラが悪いやつじゃないって分かるんだろうね。とっても素敵な才能だと思うよ」
プリシラがウィルを見た。
「ニャ~ン♥」
目を細めたプリシラの尻尾が、ぱたぱたと揺れた。頭を少し傾けてこちらへ寄せるので、ウィルも笑った。
「動物と会話? できちゃうなんて、冒険者を引退しても食い扶持に困らなそうだ」
尻尾が止まった。
プリシラは目を細めて、ウィルをじっと見た。ついさっきまで嬉しそうだった顔を見返して、ウィルは首を傾げる。
「ちょっと~? あたしたちの冒険はや~っと始まったんだよ? いまから引退の話なんてしないよ~!」
「え?」
「あ、そういうつもりじゃ」
立ち上がったプリシラを追って、ウィルも膝を伸ばした。
「先のことまで安心だなって思っただけだよ」
「先のことなら、もっと行きたいところとか、あるでしょ?」
「それもそうだね。ごめんごめん」
昨日、初めて山の麓へ足を延ばしたばかりだった。ウィルはプリシラの顔を見て苦笑した。動物の世話でも暮らしていけると感心したつもりが、一緒に始めた冒険をやめる話にしてしまった。彼女が楽しみにしているのは、この後の冒険だ。ウィルも先の道を見に行きたい。午後はどこへ向かおうかと考え直した。
プリシラは腰へ両手を当てていたが、ウィルが笑うと、口元が少し緩んだ。
「はいは~い。まぁいいや。ご飯食べて午後の冒険しにいこ~?」
「うん!」
今度は迷わず返事をした。
プリシラはおじさんへ振り向き、フランソワーズのことをもう一度頼んだ。おじさんが頷くと、ウィルの隣へ来る。歩き出す前にフランソワーズを振り返り、それからウィルを見た。
「で、今日はどこまで行く?」
さっきまで神妙な顔をしてたのに、もういつもの笑顔に戻っている。
「ご飯を食べながら決めよう。エレノアの都合も考えないといけないしね」
「うん。早く食べよ!」
日陰から出ると、陽射しが眩しかった。ウィルは目を細め、先に歩き出したプリシラを追った。すぐ隣へ並ぶと、彼女の尻尾が軽く揺れた。




