017_旅人のコーヒー
ベッドで横になった後も、酒場の前で教わった感覚を確かめていた。
出て、戻る。相手に合わせて押して、引く。副長に教わった動きを頭の中で繰り返すと、その先に朝のゴブリンが立つ。そこでナイフを構えようとした途端、村長の卓にあった証書が浮かんだ。
五十万G。改めて考えても大きすぎる額だった。日が変われば、また利子がつく。
ウィルは起き上がり、戸口へ目を向けた。リリシラにもらった種籾の袋が、内側に置いてある。今日のうちに畑の事も(欲しかった答えは貰えなかったが)相談できたし、やる前から手伝うと言ってくれたヒトが三人もいる。恵まれた状況だと思う。それなのに、灯の届かない所を見ていると、借金の数字ばかりが大きくなる。
外の空気を吸おう。ウィルは靴を履き、戸を開けた。
昼間には人が歩いていた道も、今は静かだった。家々の窓から漏れる光の間を通り、村はずれの方へ行く。草の向こうで、別の灯が揺れていた。
テントの前で小さな火が燃えている。そばに座る人が顔を上げると、ウィルも足を速めた。村へ来るたびに声をかけてくれる旅人だ。いつから冒険者になるつもりなのかと聞かれていた頃は、その問いに答えるだけで嬉しかった。
「やぁウィル。今日も特訓してきたのかい?」
「フキンさん、こんばんは。ようやっと正式に冒険者になれましたよ」
「そうなのかい? それはおめでとう。今日は冒険者ウィルの誕生日という訳だね」
「そうですね、ありがとうございます」
フキンの傍らには、湯気の出る器があった。火の上の小さな鍋からも、煙とは違う匂いがする。ウィルはその匂いを吸い込んだまま、火の手前で立ち止まった。
「おや? めでたい日だっていうのに、なんだか浮かない顔をしているね」
「あはは、そうなんですよ。嬉しい日でもあるんですが、ちょっと大変な事にもなってしまって」
「難しい顔をしているね。悩みなんて、大事に抱えておくほどの価値は無いものさ」
フキンは火のそばを指した。ウィルが腰を下ろすと、折った膝へ火の熱が当たる。夜の道を歩く間、袖の中へ寄せていた手を、膝の前へ出した。
テントの入口が風で膨らみ、また垂れる。昼なら向こうの畑まで見える所が、今は暗い。鍋のそばへ転がりかけた薪をフキンが戻すと、火の粉が一つ上がった。ウィルはその行く先を見上げる。すぐ消えてしまう小さな光を、消えるまで見ていた。
「……そうかもしれないです。少し、話を聞いてもらってもいいですか?」
「話すのは勝手さ。僕はここで美味しいコーヒーを飲みながら、風が運んでくる音色を楽しませて貰うだけだよ」
草が擦れる音に、火の爆ぜる小さな音が重なった。フキンは器を口へ運び、少しずつ飲んでいる。明日の稼ぎを計算しているようにも、次にどこへ行くかを急いで決めているようにも見えなかった。
「フキンさんは自由ですね」
「僕が自由かどうかはわからないな。だって、誰も本当の自由ってやつを見たことは無いだろう?」
「確かに……?」
思わず、疑問の方へ声が上がった。分かったように頷く前に、フキンが笑う。そばに置いていたもう一つの器を取り、鍋から中身を注いだ。
「ふふふ。でもね、こんな僕にも、悩める友人に温かいコーヒーを振る舞う自由はあるのさ」
「……ありがとう。頂きます」
差し出された器を、両手で受け取る。湯気の下にある液は黒く、火が揺れると、縁だけが細く光った。家の食卓では嗅がない香りが、近くなる。
少し冷ましてから、一口飲んだ。
苦い。ウィルは唇を離し、舌の奥に残った味へ眉を寄せた。フキンが器の向こうで笑っている。見られたことに気づくと、ますます変な顔を直しにくくなった。
それでも、二口目には量を減らし、ゆっくり飲めた。器を包む手が温かい。唇を離して息を吐くと、苦さの奥に、さっき嗅いだ香りが戻ってくる。
フキンは平気な顔で飲み、ウィルが器を膝へ下ろすのを待っていた。急いで飲み終えようとすると、舌も熱くなる。ウィルも器を持ったままにした。何を話そうか迷う間は、縁から細く上る湯気を眺めていられた。
フキンがこちらへ体を向けたので、ウィルは今日、村長から聞いたことを話し始めた。
両親の借金を返さなければならない。少しずつでよいとは言われたが、利子は毎日つく。畑を始めるために、リリシラが種をくれた。プリシラたちも手伝ってくれる。
そこまで話して、ウィルは器へ目を落とした。助けてもらった話をする時には、ちゃんと声が出た。それでも、返す額へ話が戻ると、続きが出なくなる。
「なるほど、親御さんの借金を返済しなきゃいけないなんて、難儀なものだ」
「なんとか返して行きたいんですけど、どうにも途方に暮れてしまって」
「そうかい。それなら、いっそのこと暫く忘れてしまえばいいんじゃないかな?」
「ぇ……でも……」
器を持ったまま、ウィルは顔を上げた。返せなかった時の話までしておくべきだったかと思った。だが、フキンの顔には、笑って聞き流すような調子はなかった。
「今すぐどうにかする事はできないんだろう? だったら、考えたって仕方ないじゃないか」
「た、たしかに……」
さっき、家で寝返りを打つたびに浮かんだ数字が、また頭へ戻ってきた。明日も利子がつく。それを考え続けても返す金は増えず、眠ることさえできなくなっていた。温かい器を両手で包み直すと、こわばっていた肩が少し下がった。
「村長さんだってイキナリ全部返せとは言ってない訳だし、まずは冒険者として自立する所から始めてみたら良いんじゃないかな?」
フキンは器を膝へ置き、ウィルが顔を上げるのを待ってから続けた。
「冒険者ってのは、ランクが上がれば上がるほど稼げる職業なんだろう?」
「……そうか。今の稼ぎから少しずつ返すだけじゃ、利息に追いつかないんだ」
「だったら、とりあえず返済の事は頭から離して、装備を整えたりして強くなって、冒険者ランクを上げた方が、結局は収入も大きくなりそうなモノだろう?」
ウィルは右の手を器から離した。朝の森で、ナイフを持っていた手だ。ゴブリンの前でどこへ立つかも、まだ迷った。プリシラとエレノアの声がなければ、動くのはもっと遅かったはずだ。
広場では、副長が先に近づいてきた。届かない距離から手を出しても、相手は待ってくれない。右手を開くと、柄を握っていた所へ夜風が当たった。
今、自分が上手になりたいことは、目の前にある。あの足の運びを身につけたい。ケイトに言われた防具も、ちゃんと揃えたい。五日に一度は返済に行く約束も、六十万Gを超えてはいけないことも、忘れるわけにはいかない。それでも、手元の金を残らず返して防具を買えずにいたら、また倒れて仕事を休むことになるかもしれない。次も無事に帰り、稼ぎを増やすために使う金まで、惜しんではいけないのだ。
「あんまり大袈裟に考えすぎない様にするといい。何でも大きくしすぎちゃ駄目なんだよ」
「目先の事に囚われず、ドンと構えて大きな視点を持つって事ですね!」
「ケ・セラ・セラだよ。世の中、諦めなければ成るように成るものさ」
フキンは、最後を歌うように言った。ウィルがその調子を聞いていると、短く一つ、節を口ずさむ。歌詞のない音が、風で揺れる火の上を通り過ぎた。
来た時は、草の擦れる音まで落ち着かなかった。今はその音が途切れる間に、フキンの器を置く音が聞こえる。ウィルはコーヒーを飲み、苦さを、急いで飲み込まずに舌へ残した。
「ありがとうございます! フキンさんのお陰でなんだか道が開けそうです!」
「僕は友達とお茶会を楽しんだだけさ」
「話を聞くくらいの事しかできないけど、行き詰まったらまた来ると良い」
ウィルは頷いた。空になりかけた器の底を傾けると、最後の一口が縁へ寄る。
「温かいコーヒーは、親しい友人と飲むのが一番美味しいのさ」
返そうとした器へ、もう一度手を添えた。飲み終わっても温かかった。フキンが受け取り、二つを重ねずに火のそばへ置く。ウィルは膝についた草を払い、立ち上がろうとした。
フキンが、思い出したように手を上げる。
「そうだ。君にはコレをあげよう。心を乱された時に使うといい」
渡されたのは、魚をかたどった小さな容器だった。細い口に栓がついていて、腹の部分は指でつまめるようになっている。フキンはこれを気付け薬と呼び、栓を外して腹をつまめば、中の薬液を吹きかけられるのだと教えてくれた。元々はモンスター由来の異常に使うモノで、冒険者なら一つくらいは常備しているものなんだそうだ。知らなかった。ウィルは手の中へ収め、押し潰さないように指を添えた。
「うん! ありがとう!」
礼を言ってから、テントへ顔を向けた。村へ来ている間は、いつもここにいる。テントを片づけ、別の場所へ歩いていくのはどんな気分なのか、聞いてみたかった。
「フキンさんは、どうして旅を続けているんですか?」
「こうして、あちこちで友達と会えるからね」
ウィルは火のそばに並んだ二つの器を見た。どこか遠くにも、フキンが来るのを待っている人がいるのだろう。知らない場所を歩くだけだと思っていた旅に、今夜のように腰を下ろして話せる時間もある。プリシラたちと村を出たら、自分にもそんな相手ができるだろうか。
「次は、どこへ行くんですか?」
フキンは帽子へ手をやり、草の揺れる方を見た。
「さてね。もう少し、ここのコーヒーを楽しんでから考えるよ」
ウィルも笑った。今夜は、急いで決めなくてもよいことが一つくらいあってもよかった。
火のそばを離れると、歩く先が暗くなる。目が慣れるまで足を緩め、家々の窓の光を目印に道を戻った。途中で振り返ると、フキンは座ったまま、鍋の方へ手を伸ばしている。
家では、戸口の種籾の袋を避けて靴を脱いだ。受け取ったノーマライザーは卓へ置く。立っているうちには、広場で教わった足の向きも、もう一度試せた。
明日は、また教わろう。畑へ持っていく袋を見てから、ウィルは灯を落とした。指先には、器を包んでいた時の温かさがまだ残っていた。




