016_森で交わす声
ゴブリンは草を踏み分け、道の端へ出てきた。
ウィルはナイフを前に出す。相手の目が刃へ動いた。そこで止まってくれればと思ったが、ゴブリンは身を低くし、ウィルの脇を抜けようとした。
その先には、エレノアがいる。
ウィルも横へ動いた。切りつけるには遠い。だが、刃先を向け直すと、ゴブリンは足を止めた。
左の方で、プリシラの短い掛け声がした。見たい。無事なのか、もう相手を倒せたのか、確かめたかった。
目の前のゴブリンの肩が動く。
ウィルは反射的に身を引いた。伸びてきた棍棒が胸の前をかすめ、空を切る。棘の先が目の前を通り、腕まで下げそうになった。相手が腕を引くのを見て、ナイフを向け直す。
だが、前へ出た刃は木の盾に遮られた。ゴブリンが身を沈め、盾ごと体を寄せてくる。ウィルは慌てて横へ退いた。足元の葉が滑り、膝が曲がる。盾の縁が、今までいた場所を押し通った。
背中の方で、エレノアの服が擦れる音がした。ウィルは振り返る余裕もなく、足を踏ん張った。ナイフを振るうより先に、さらに後ろへ下がりそうになる。
「兄様、少し左へ!」
振り返りかけると、エレノアが左側の空いた場所を手で示していた。ウィルはゴブリンから目を離しきらないまま、そこへ斜めに下がる。エレノアは道の右端へ動き、彼の体が射線から外れるのを待っていた。
「リルファイア!」
炎がゴブリンを捉えた。
木の盾を寄せた相手が顔を背ける。葉の陰が一瞬赤くなり、熱がウィルの頬へ届いた。自分がさっきまでいた場所を、魔術が通ったのだ。エレノアの杖の先が、ゴブリンに向かって真っ直ぐに伸びていた。
相手が悲鳴を上げ、腕で顔を覆う。ウィルは足を踏み出した。今なら届く。握り込んだナイフを突き出すと、手に抵抗が返ってきた。
刃を引き、離れる。ゴブリンが倒れるところまで見届けるつもりだったのに、相手は膝をついただけだった。こちらを睨み、また立とうとする。
盾の縁が地面を擦った。棍棒を握る手はまだ開かない。もう一度近づかなくては、と考えた時には、棍棒の突起がこちらを向きかけていた。ウィルは一歩だけ下がり、ナイフの先を相手へ戻した。
ウィルは息を吸った。緊張のせいか気道が狭くなって、うまく入ってこない。
「ウィル、そのまま!」
プリシラが左から来た。
ゴブリンが振り向く前に、踏み込んだ拳がその体を打った。小さな体が横倒しになり、草を押し潰す。ウィルはナイフを構えたまま、起き上がらないかを見つめていた。
プリシラが周りへ目を走らせる。それにつられて、ウィルも木の陰を見た。最初の一匹は、道の上に倒れている。新しく近づいてくる姿はなかった。
聞こえるのは、自分の息と、葉の擦れ合う音だった。
「兄様」
エレノアが呼んだ。
「……うん」
「怪我は?」
「してない。大丈夫」
返事をしてから自分の腕を見た。服を掴まれたような気がしていたが、破れてはいない。胸にも痛みはなかった。
プリシラがそばへ来る。ウィルの顔を覗き込み、腕を確かめ、それからようやく肩を下ろした。
「よかったあ……。ずっと黙ってるから、どこか痛いの我慢してるのかと思った」
「ごめん。まだ、起きてくるんじゃないかと思って」
「うん。でも、もう大丈夫だよ」
その言葉で、ウィルはやっとナイフを下げた。柄を握った指が、すぐには開かなかった。
「二人は?」
「あたしは平気!」
「私も無事です」
エレノアの返事はしっかりしていた。けれど、差し出しかけていた手を下ろす時、指先がわずかに震えているのが見えた。
ウィルは彼女の方へ向き直った。
「魔法、助かったよ。あのままだったら、後ろへ下がるばかりになってた」
「兄様が前にいてくださったから、私も落ち着いて唱えることができました」
エレノアはゴブリンの倒れている方へ目を向けた。
「最初は、お二人に当たってしまいそうで……。木もあって、どこから撃てばいいのか分からなくて」
「それで、横に出てくれたんだね」
「はい。声が届いて、よかったです」
ウィルは、さっき彼女が立っていた場所を見た。そこからなら、正面にいた自分が邪魔だったのだろう。声をかけてもらわなければ、目の前の相手を追うばかりで気づかなかった。
もう一度礼を言おうとすると、プリシラが二人の間へ顔を寄せた。
「あたしにも!」
「もちろん。最後、ありがとう。プリシラが来てくれて助かった」
「えへへ。ウィルも、エレノアのところに行かせなかったね!」
プリシラの尻尾が、後ろで大きく揺れた。ウィルは倒れているゴブリンからエレノアへ目を戻した。無傷で立っている。自分も、ここに立って話している。
まだ胸は速く動いていたが、その奥に、違う温かさが広がった。
「うん。……少しは、できたかな」
「できてたよ!」
プリシラの返事が大きくて、ウィルは思わず笑った。エレノアも笑い、すぐ片手で口元を押さえた。
こうして二人に笑いかけてもらえるのが、嬉しかった。プリシラとエレノアを交互に見ているうちに、ふと、もっと幼かった頃の二人を思い出した。
あの日も、プリシラの声がよく響いていた。
*
――エレノアみ~っけ!
隠れたままうとうとしていたウィルは、その声で目を覚ました。まだ自分は見つかっていない。息を潜めていれば、もう少し――そう思っていたところへ、悲鳴が聞こえた。
二人のそばにゴブリンがいた。
武器も持たずに飛びついた。掴んだ体を離すまいと、夢中で額をぶつけた。殴られるたびに腕の力が抜けそうになって、それでもしがみついた。自分を振りほどいたら、また二人のところへ行ってしまう。
それからどうなったのかは、覚えていない。気がついた時には、治療院の寝台に寝かされていた。
*
「……あの時も、ゴブリンだったね」
口にしてから、ウィルは顔を上げた。
「小さい頃、三人でかくれんぼをしてた時の」
「はい。私も、思い出していました」
「あたしも。ウィルが飛び出してきて、びっくりしたんだよ」
プリシラがウィルの顔を覗き込む。
「あの時のこと、覚えてる?」
「うん。頭突きしたところまでは。その後は、気を失っちゃったけど」
「じゃなくて、言ったこと!」
「僕が?」
「そう。ゴブリンにしがみつきながら、いっぱい叫んでたでしょ?」
ウィルは眉を寄せた。殴られても手を離せなかったことは覚えている。けれど、何を叫んだのかとなると、まるで出てこない。
「……何て言ったっけ」
「もぉ~! 本当に覚えてないの?」
「ごめん、何か変なこと言ってた?」
プリシラが口を開きかけて、エレノアを見た。目が合うと、エレノアが小さく笑う。プリシラもつられたように笑って、ウィルへ向き直った。
「ふふふ、内緒♪」
「ええ? エレノアも?」
「内緒です、兄様」
こちらには教えてくれないくせに、二人とも嬉しそうだった。ウィルはもう一度記憶を探り、やがて諦めて、笑う二人に肩をすくめた。
三人の声が収まると、また森の音が聞こえた。道は木々の間へ続いている。もっと先まで行けるだろうかと思い、ウィルは自分の手を見た。掌には柄の跡がついていた。
「今日は、ここから戻らない?」
プリシラは先の道を見てから、頷いた。
「うん。帰ろっか」
ウィルは周りを見渡し、二匹とも動かないことをもう一度確かめた。それから、討伐証明となる部分だけを回収した後、刃についた汚れを草で拭い、ナイフをしまう。プリシラが周囲の警戒を解き、村の方へ体を向けるまで、エレノアと並んで待った。
*
帰りはプリシラが少し先を歩き、ウィルとエレノアが続いた。見覚えのある木の根をまたいだところで、エレノアがようやく戦いのことを話し始めた。
戦っている時は気づかなかった、と言って、プリシラの動きを尋ねる。ウィルにも見えていなかった最初の一匹を、どう倒したのか。プリシラは歩きながら、肩を引き、拳を出してみせた。
「こう、横に避けてから――」
「プリシラちゃん、木が」
「わっ」
前を向き直ったプリシラが、すぐそばの幹を避けた。
ウィルは吹き出し、慌てて口を閉じた。プリシラが頬を膨らませる。その頭で耳がぴくりと動き、彼女は前へ向き直った。
「今のは説明してたからだよ!」
「うん。続きは村で聞かせて」
「ウィルもやるんだからね。見てるだけじゃ覚えられないよ」
それは本当にそうだと思い、今度は笑わず頷いた。もっと体が動けば、魔物の前で下がるばかりにならずに済む。プリシラが止まって教えようとするので、今は帰ろうと二人で促した。
木立が途切れると、村へ続く道が明るく見えた。
エレノアがウィルの隣へ並ぶ。
「兄様。私も冒険者登録は済ませてありますから、またお誘いくださいね」
「うん。次も一緒に行こう」
「あたしもだよ!」
「分かってるよ。三人で」
プリシラは満足そうに笑い、村へ足を向けた。ウィルも、今度はその隣を歩いた。
*
村へ戻り、森で拾ったものを家へ置くと、まだ日のあるうちに酒場へ行った。二人にも、騎士の人に少し見てもらうつもりだと言っておいた。
副長さんはウィルが頼むのを聞いて、勤勉ですね、と笑った。
「日が落ちるまでならいいですよ」
酒場の脇の広場へ出る。副長が、持っている武器を見せてほしいと言った。ウィルはシルトから貰ったナイフを出した。
打ち合うものと思って構えると、副長はまだ剣を出さなかった。ウィルの前へ立ち、ここから届きますか、と聞く。
刃先は届かない。ウィルが一歩寄ると、副長も動いた。追おうとしたところで、そこで止まってください、と言われた。
「武器が短い分、自分が近づかなくてはいけませんね。でも、近づく間にも相手は動きます」
森のゴブリンを思い出した。刃を向けても止まってくれず、エレノアの方へ抜けようとした相手だった。
「今日、そうなりました」
「でしょうね。今日はまず体の動きから始めましょう」
話すと、副長は今度はナイフをしまわせた。空いた手のまま、自分について来てほしいと言う。ウィルが進めば彼女が下がり、彼女が寄ればウィルが退く。
最初は追うことに夢中になった。急に寄られて、後ろへ足を引きすぎる。次に進もうとすると、また大きく踏み出さなければ届かない。
「足元を見てはダメ、相手の全部をみるんです。相手が自分の思い通りに動くと思ってはいけません。逃げ切る時の足と、もう一度打つ時の足は違いますよ」
広場の土には、森のような根はない。それでも、副長の肩が近づくと、ウィルは足元を見そうになった。彼女は向きを変え、もう一度こちらへ進む。今度は顔を見たまま下がった。靴の下で土が動く感触だけを頼りにすると、思ったより小さな歩幅でも離れられた。
ウィルは、下がった後も相手を見られるところで止まってみた。副長が寄ると、今度は一歩で戻れた。刃を持っていないのに、森で分からなかったことが少し分かった気がした。
酒場の窓の向こうに、隊長さんがいた。目が合うと、小さく頷いてくれる。見られていたことに気づき、ウィルは背筋を伸ばした。
「今のを忘れないように。次回は武器を持ってやってみましょう」
「はい。またお願いします!」
礼を言うと、副長は、今日はよく休んでくださいと言った。ウィルはもう一度広場を見た。魔物はいない。ただ進んで退くだけの動作が、明日は森で役に立つかもしれなかった。




