000b_お姉ちゃんの約束
「ウィルくーん」
プリシラの声が響いた。返事はなかった。扉の向こうへ、もう一度呼びかける。
「ウィルくん? おへやにいるの? あけてー?」
待っても、ウィルは出てこなかった。プリシラは戸のそばへ耳を近づけた。向こう側から足音はしない。少し離れて呼ぶのと、こうしてすぐ近くで呼ぶのでは、聞こえ方が違うだろうか。もう一度声をかけようと息を吸った。
「はいっていーい? ……おじゃましまーす」
返事はなく、待つのもそこそこに中へ入ると、もうすぐ昼になるというのにウィルがベッドで横になっていた。
「ウィルくんねぼすけさんだ! おきろー!」
そう言って無邪気に飛びかかったプリシラは、間近にみて異変に気づく。
ウィルは苦しそうに息をつき、体中が汗ばんで、額に手をやるとすぐさま高熱である事が窺えた。
「たいへん! ウィルくんびょーきだ! ママーーーーーーーーッ!!」
叫びながら部屋を飛び出す。
しばらくして、母を伴いプリシラが戻ってきた。部屋に入ってからも、プリシラは母の背を追う。寝台へ近づくと、自分がさっき触れた額へ、母の手が伸びた。何をするのか見たくて背伸びをする。だが、母の肩の向こうに見えるウィルの目は、まだこちらを見なかった。
「ママ! ウィルくんだいじょーぶ!?」
「危ない所だったわ。たぶん、この間から体調も良くなかったのよ。それに、ここに来てから何も食べてなかったのね」
リリシラのそばで、ウィルはまだ苦しそうに息をしていた。
「びょーきじゃないの?」
プリシラが不安そうに問う。リリシラは優しく、しかし真剣な表情で答えた。
「そうね、少なくとも体の病気ではないわ。この子はね、心の病気なの」
「こころのびょーき?」
「そう。大切な人が亡くなって、この子は心に大きな傷を負ったの。プリシラちゃんも、怪我をした後に放っておいたら、傷口からバイキンが入って病気になるでしょう?」
リリシラはプリシラの目を見て語りかけた。
「うん! おねつでた!」
「そうよね。この子はね、心の傷の手当をしてもらえないまま、ずっと苦しんでいたの。心が動かないと、体も動かないの。だから、この子はご飯すら食べる事ができなかったのよ」
「ウィルくんかあいそう! ママ! ウィルくんなおせる!?」
「ん~。体の処置はできても、心の傷はママでも……」
ウィルはうわ言のように、かすかな声を漏らした。
「おかー……さん……」
「ママ!」
プリシラは慌ててリリシラを呼ぶ。しかしリリシラは、プリシラの肩を優しく掴んだ。
「違うのよプリシラちゃん。これはね、私を呼んでるんじゃなくて……」
ウィルは虚空を見つめ、意識の混濁した中で呟いた。
「おか……さん……どこ?」
しかし逡巡したあと、リリシラがそばへ寄った。プリシラは続いて側によりかけて、止めた。今、母がウィルの手を取ろうとしている。離れずに、寝台の端からその手元を見ていた。
彼の震えるか細い手を握ってやると、やがてウィルの声は途切れ、寝息に変わった。
プリシラは泣きそうになりながら、リリシラを見上げた。
「プリシラちゃん。ウィルくんの事、好き?」
リリシラは静かに問いかけた。プリシラは顔を赤らめ、しかし真っ直ぐに頷いた。
「はずかしいよぅ……」
「ウィルくんに元気になってほしい?」
「うん! げんきになってほしい!」
リリシラは微笑んだ。
「そっか。それじゃあ、ウィルくんの病気は……プリシラちゃんが治してあげよう?」
「なおせるの?」
「うん、きっと治せるわ。プリシラちゃん、少しの間だけ、ウィルくんのおねーちゃんになってあげられる?ウィルくんの心の病気が治って動けるように、プリシラちゃんがお家に連れてきて、ご飯を食べさせてあげたり、遊んであげたりするの。できるかしら?」
プリシラは胸を張って叫んだ。
「できるよ! あたしおねーちゃんになる!」
「いい子ね。ウィルくんが元気になるまで頑張ってね、おねーちゃん♪」
*
その日から、プリシラの「おねーちゃん」としての日々が始まった。
「ウィルくんおきてー! ぶたさんのおせわのじかんだよー!」
プリシラの声で、ウィルは目を覚ます。彼女は毎日ウィルを外へ連れ出しては、おままごとを見せたり、豚の世話を手伝わせたりした。
柵の向こうから鼻息がすると、プリシラはそちらへ顔を向けた。ウィルにも見せたくて袖を引く。近づいた豚を指さしてから、ウィルの顔を見た。彼はまだ言葉を返さなかったが、そんな日を数日過ごした頃には、袖を引かれずともプリシラの後に続く様になった。
プリシラは家の掃除も、自分が手本を見せるのだと張り切った。
「ウィルくん! おうちはおそーじしないとだめなんだよ!」
呼んでから、プリシラは部屋を見回した。ウィルがすぐ動かなくても、今は自分がお姉ちゃんだ。先に始めて見せればいい。
「おねーちゃんがおてほんするよ! みてて!」
けれど、世話を焼こうとすることが、何もかも上手くいくわけではなかった。持った掃除道具の端が家具へ引っかかり、プリシラは小さな体を振り回す。
「にゃーーーー!?」
戻そうとした方でもまたつかえ、つんのめって転びそうになりながらも踏ん張っている。
一人で大変に騒がしく、大人が見れば微笑ましいその光景も、最初の頃ウィルは同じ所に座って無表情に眺めていた。
しかし、へこたれないプリシラに根負けでもしたように、次第に言葉が口をついて出るようになっていた。
「今日はおねーちゃんがおりょーりしてあげるね!」
ーパリーン!!ー
プリシラが料理をしようと言い出す度に、家にある皿の枚数は減っていく。
しかしそれでも、ウィルが彼女を拒む事はなかった。
「ぁ……危ないよぉ」
ウィルはプリシラの手元を心配そうに見やる。
「だいじょーぶ! あたしママにニンジンの皮むきならったの!」
「ウィルにも教えてあげる! みててね!」
サクッ、という軽い音が響く。
「に”ゃ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”!!!!」
「リ、リリおばさん呼んでくる!」
ウィルは慌てて立ち上がり、リリシラを呼びに行った。
そんな日々の合間に、二人は並んで座り、本を開くこともあった。
「ゆーしゃは……まものを……つぎつぎと……」
プリシラが文字を追う。指で押さえた一文字を声に出し、次へ次へと少しずつずらしていく。頁の端をウィルが支えていた。ウィルは早く先へ進めたくなり、じれったくなってその続きを口にする。
「勇者は魔物をつぎつぎとなぎたおし、あっというまに魔王のところまでたどりつきました」
「もう! いまはあたしがよんであげてるの!」
「だ、だって……プリシラ読むのおそいんだもん」
ウィルが遠慮がちに言うと、プリシラは頬を膨らませた。
「おねーちゃんがいっしょーけんめーよんでるのに! ひどい!」
「ご……ごめんね……。もうじゃましないから……」
ウィルが悲しそうに視線を落とすと、気づいたプリシラも声を落とした。
「……ううん、あたしのほうがごめんね。ウィルのほうがじょうずだから、ウィルがよんでくれる?」
「……う、うん」
ウィルは本を引き取り、ゆっくりとページをめくった。膝の上へ置き直し、プリシラにも絵が見えるように少し傾ける。さっきまで指で追っていた所を探すと、彼女もそこへ顔を寄せた。
読み直す声が出るまで、二人とも頁を見ていた。今度はウィルが読み終えるのを待ち、プリシラの目が隣の行へ移る。一人で先へ進む時とは違う速さで、続きが声になった。
「魔王の間にたどりついた勇者は……」
言葉を紡ぐウィルの横顔を見ながら、プリシラは満足げに頷いた。
ある日、ウィルはふと、隣にいる少女に問いかけた。
「プリシラはさ、どうしていつも一緒にいてくれるの?」
プリシラは顔を輝かせ、迷いなく答えた。
「ウィルのびょーきをなおすためだよ!」
「……僕のびょーき?」
「ママがね! ウィルはこころのびょーきだから、あたしがおねーちゃんになっていっしょにいたら、ウィルがげんきになるよって!」
ウィルはプリシラを見た。
「……そっか」
「そーいえばウィル! いつのまにかおしゃべりできるようになったね! びょーきなおったの!?」
プリシラに聞かれて、ウィルは頷いた。今日も、こうして二人で話している。名前を呼ばれれば顔を上げられるし、彼女が隣へ座ると、その分だけ自分も場所を空ける。手元には読みかけの本があり、次の頁をめくる前に、何か話したいと思う。
いつ頃からそうなったのかは分からない。けれど、プリシラの話す声を、ただ聞いているだけの時間は終わっていた。
「……うん。プリシラのおかげで治ったみたい」
「ほんと!?」
「……うん。ありがとう、プリシラ」
「やったーーーっ!! これでまたいっしょにあそびにいけるね!」
ウィルは静かに微笑み、彼女の手を取った。
「うん。これから色々たいへんかもしれないけど……」
「だいじょーぶだよ! あたしがなんでも手伝ってあげる!」
「お料理とかお洗濯も?」
「ぅ……ま、まぁ……ちょっとくらいできるから、手伝ってあげるよ!」
ウィルは深く頷いた。
「そっか。それじゃあ、これからも一緒によろしくおねがいします」
「うん! ずっとずっと! ずーっと一緒だよ!」
プリシラの声に、ウィルももう一度頷いた。




