010_土を知る人
家の前まで戻って、ウィルは柵の切れ目に立った。
橙の瓦屋根の小さな家の右隣に、木の柵で囲った四角い土がある。耕してはあるが、何も植わっていない。茶色い土の表面は乾いて、ところどころに細い草が顔を出していた。
切れ目の脇――畑の左隣に、木の作業台が据えてある。板の上は空で、道具も種も載っていない。リリシラが「手入れしておきなさいね」と言った、あれだ。手入れと言っても、何をすればいいのかは分からない。畑は一応、定期的に草むしりなんかはしていたが、使ったことのある道具は鎌とクワぐらいのものだ。他の道具については、その使い方すらわからない。
種籾はある。手伝うと言ってくれた人もいる。作業台も一応ある。後は始めるだけのはずだった。この柵の中に、ネージュやエレノアが立つのも頼めばすぐだ。でもその時、何をしてほしいと頼めばいいのか。頼む本人が、まだ何も知らない。
ウィルはしゃがみ込み、土を一つまみ指でほぐした。ぱらぱらと崩れて、指の腹に湿り気が少し残る。袋の口に指をかけ、そこで止まった。どのくらい深く埋めるのだろう。一粒ずつか、まとめてか。粒と粒の間は空けるのか。そもそも今まいていいのか。
おいしい野菜を作ろう、とプリシラは言った。その芽を出すための最初の一つが、もう分からない。
手の中の袋は、リリシラの家で受け取った時と同じ重さのままだった。
ウィルは袋の口を縛り直して立ち上がった。分からなければゼペリに聞け、とリリシラは言っていた。
せっかくリリシラさんがくれた種籾を無駄にはしたくない。失敗する前に、まずは専門家に話を聞いてみよう。
*
家の前をめぐる道を、村の北側へたどっていく。
見慣れた家々の屋根が、左右を後ろへ流れていく。軒先で干し物を取り込む人、薪を割る音、どこかの家の鶏の声。いつもなら気にも留めない村の昼が、今日は一つずつ目に入った。この家々の誰かが、ゼペリの畑で採れたものを食べているのかもしれない。リリシラの台所に並んでいた、根の先に土の残った野菜のように。
しばらく歩くと、木の柵で囲った大きな畑が見えてきた。
柵の中に、緑の葉がまっすぐな列になって並んでいる。一列、二列と目で数えて、八列目のあたりで数えるのをやめた。どの列も間隔がそろっていて、葉の高さまでそろっている。自分の家の隣の四角い土が、いくつ入るのか見当もつかない。畑の側には窓が二つ並んだ木造の家が一軒建ち、右手には岩肌の段差が崖になって続いていた。
家側の柵の端に、木の門がある。門の脇には看板が一枚立っていた。ウィルは門の前で一度足を止め、袋を胸に抱え直してから、そっと中をのぞいた。列の間に、つばの広い帽子が一つ、ゆっくり動いている。葉を踏まないよう、列と列の間の土だけを選んで近づいた。
「こんにちはゼペリさん」
帽子が持ち上がった。
「やぁウィルくん。畑に来るなんて珍しいね。土でも食べるかい?」
「い、いえ。今はお腹いっぱいなので……」
リリシラの家で食べたパンが、まだ腹の中で温かい。答えてから、空いていたら食べるのか、と自分で思った。ゼペリは気にした様子もなく、にこにこしている。
彼は村の北側で、村で唯一の大規模農場を営んでいる人だ。顔も名前も昔から知っている。けれど、物を教わりに来たのは初めてだった。帽子の下の顔は日に焼けて、土を握る手の爪の間まで、畑と同じ色をしていた。
「実は、畑の事で少し相談させて頂きたくて」
「おぉ! もしや、君も農業を始めるのかい!?」
ゼペリが一歩踏み出した。帽子のつばが、ウィルの額に当たりそうになる。
「は、はい。ゼペリさんの畑ほど大きくて立派な畑ではないですけど……生活の足しにしたくて」
「良い! いいんだよウィルくん! どんなキッカケだろうと土をいじるのはとても良い事だ!」
ゼペリは土のついた両手を打ち合わせた。乾いた土が、ぱっと散る。
「はぁ……」
勢いに押されて、ウィルは半歩下がった。踵が、列の端の葉に触れそうになって慌てて止まる。
「それで!? どんな作物を育てるつもりなんだい!?」
詰め寄られて、ウィルは抱えていた袋を思わず前に出した。
「ま、まずは手元にある麦米の栽培から始めようかと思ってます」
ゼペリは袋をのぞき込み、粒を一つつまみ上げた。光にかざし、指の腹で転がし、爪で軽く押す。それから粒を袋へ戻して、目を閉じ、深く息を吸った。
「あぁ……良い。君は良くわかってる。素晴らしいよウィルくん!」
「ぁ、ありがとうございます」
何がそんなに良いのか、ウィルには分からない。麦米を選んだのは、リリシラの引き出しから出てきたのがそれだったからだ。
貰ったから、とりあえず――とは、とても言えない雰囲気だった。
「まずは自分なりにやってみると良いよ! なに、失敗したっていいんだ! 少しずつゆっくりと、作物の事を理解していこう!」
「は、はい」
ゼペリは満足そうに頷いて、また葉の方へかがみかけた。話は終わり、という顔だった。
このまま帰れば、さっきと同じように柵の切れ目で立ち止まることになる。ウィルは袋を握る手に力を入れた。
「あの! そ、それで、良かったら農業の事を少し教えて貰えたら嬉しいのですが……」
「そういう事なら、私の畑を少し手伝ってみるのはどうだろう? 少しならバイト代も出せるし」
「ぇ? で、でも……僕ほんとに農業とかわからないですよ?」
バイト代、という言葉が耳に残っていた。一日に五千Gほどずつ増えていく利子に、少しでも届くなら。そう思った自分に、ウィルは少し驚いた。
教わりに来たつもりが、雇われる話になっている。ウィルは目の前の葉を見下ろした。どれがよく育っていて、どれが弱っているのかも分からない。間違えて大事な株を抜いたりしたら、とても給金どころではない。
「それなら、害虫退治なんかどうだい? ちょうど畑を荒らす虫を退治してくれる人を雇おうかと思っていた所なんだよ」
ゼペリが近くの葉を一枚めくってみせた。裏に、小さな穴がいくつも開いている。
「ぁ、それならできそうですね」
虫を探して退治するだけなら、どの株を抜くかを決めるよりはずっと分かりやすい。葉の裏をのぞき込むと、穴の縁が茶色く縮れていた。
「畑を歩いて土に触れている内に自然と作物の事は理解できるようになるだろうし、慣れてきたら頃合いを見て新しい作物の種もプレゼントしてあげよう」
ゼペリはしゃがんで、列の間の土を手のひらで軽く叩いた。それから一つかみすくって、ウィルの手のひらに載せる。家の前でほぐした土より、ずっと黒く、しっとりと重い。指で押すと、形を残したまま、ゆっくり崩れた。同じ土でも、こんなに違う。それが何のせいなのか、ウィルにはまだ分からなかった。
「とにかく、農業は土に触れるのが一番だからね!」
「ほ……本当ですか?」
歩いて触っているだけで分かるようになるなら、村の誰もが農家になれる。ウィルの顔に、そう書いてあったのかもしれない。
「あぁ、間違いない。誰よりも農業に精通したこの私が言うんだから間違いないよ」
「ぁ~。そ、そうですね」
間違いない、が二回あった。ウィルはそれ以上は聞かないことにした。少なくとも、この畑の列のそろい方は、言葉より確かだった。
「よしよし。それじゃあ、手の空いている時で良いから、アルバイトをしたい時は私に話しかけておくれ」
ゼペリは帽子を脱いで、額の汗をぬぐった。日に焼けた額に、帽子のつばの形のまま白い線が残っている。
「農業はいいぞぉ。体も鍛えられるし、一石二鳥だよ」
「それは嬉しいですね」
これは、取り繕わずに出た返事だった。腕も足腰も、今のままでは足りない。それを鍛えながら、お金をもらえて、自分の畑のことまで分かってくる。
「そうだろう、そうだろう」
ゼペリは帽子をかぶり直し、思い出したように指を一本立てた。
「あ、一つ注意してほしいのは、農業は日のある間しかできないから。来るなら昼、出来れば日が傾く前にお願いするよ」
「それはそうですよね。わかりました」
朝はギルドで依頼を見て、昼はここで虫を払い、空いた時間に自分の畑。指を折りかけて、ウィルはやめた。今日はもう、指を折るのは十分だった。
「うん、良いね。若手の君が農業に目覚めてくれるとは、私も嬉しい限りだ」
ゼペリは両腕を大きく広げて、柵の向こうまでぐるりと示した。岩の段差の先、土の道の向こう、村の家々の屋根のあたりまで。
「共にこの村を一面の畑で埋め尽くそう!」
「こ、これから宜しくお願いします」
頭を下げながら、ウィルは心の中だけで言った。
埋め尽くしちゃだめでしょ……。
家も道も、リリシラの家の豚小屋も、ギルドも全部畑になった村を、一瞬だけ想像してしまった。
門まで戻り、ゼペリにもう一度会釈をする。振り返ると、つばの広い帽子が緑の列の間で一度だけ持ち上がって、また葉の間に沈んだ。
昼の間に来ること。最初は害虫退治。ウィルは聞いたことを順に胸の中で並べ直し、袋を抱え直した。今日はまだ、村長に頼まれた騎士団の世話役の挨拶が残っている。その後には、プリシラとの約束もある。
途中で家に寄り、種籾の袋を戸口の内側に置いた。袋を持ったまま騎士団の人に挨拶するわけにもいかない。扉を閉める前に、もう一度だけ柵の中の土を見た。明日の朝には、あの中に何をすればいいかくらいは、聞ける相手がいる。
ウィルは酒場の方へ足を向けた。




