008_できることから
村長の家からの帰り道、ウィルは自分の家の前で足を止めかけて、やめた。橙の瓦屋根の小さな家と、その右隣の柵。見慣れたものを見ても、今日は何も思いつかない。隣へ行けば、相談できる人がいる。
緑の屋根の石造りの家は、ウィルの家の隣にある。両開きの扉が二つ並び、その前には水を張った桶と、割った薪が積んであった。小さい頃から、何度くぐったか分からない戸口だ。
今朝もこの前を通った。その時と同じ扉の前で、ウィルは手のひらを一度、服の裾で拭った。
戸を叩くと、すぐに足音がして、リリシラが顔を出した。
「あらウィル、どうしたの? なんだか深刻そうな顔をしてるわね」
挨拶の言葉を選んでいるうちに、先に言われてしまった。ウィルは思わず自分の頬に手をやった。
「実は……」
戸口で話し始めたウィルを、リリシラは手招きで中へ入れた。
扉の内側は、外より少し暖かかった。右手の奥が台所で、煙突のついた暖炉に火が入っている。流し台にはまな板と包丁、洗ったばかりの野菜。壁の棚には皿と瓶が隙間なく並び、その下に引き出しが続いていた。部屋の真ん中には大きな卓があり、丸椅子が六つほど、ぐるりと囲んでいる。卓の上には茶器と水差し。壁際には樽が三つと、口を縛った穀物の袋が寄せてあった。
奥の仕切りの向こうで、ぶう、と低い声がした。家に併設された飼育小屋で飼っている豚だ。藁と土の混じった匂いも、この家ではいつものことだった。
勧められた丸椅子に腰を下ろし、ウィルは借金のことを順に話した。
両親の借金を、村長が肩代わりしてくれていたこと。成人したので、その返済を始めなければならないこと。五十万Gという額と、毎日ついていく利子のこと。六十万Gを超えたらどうなるか、ということ。
最後の話のところで、杯へ伸びかけていたリリシラの手が止まった。けれど口は挟まず、ウィルが言い終えるまで黙って頷いていた。
話しながら、膝の上で指を一本ずつ折っていた。村長の家で数えた日数を、ここでまた数え直している。
「それで、冒険者の仕事だけで借金を返済しきるのは、難しそうなので、どうしようか悩んでいるんです」
リリシラは急かさなかった。水差しから杯に水を注いでウィルの前に置き、自分の分も注いでから、ようやく口を開いた。
「なるほどね」
杯の縁を指先でひとなでして、リリシラは扉の方へ目をやった。その先の隣には、ウィルの家がある。
「そういう事なら、お家の前の畑で、お野菜でも育ててみたらどうかしら?」
ウィルの頭に、自分の家の右隣が浮かんだ。木の柵で四方を囲っただけの、小さな四角い土。耕してはあるが、何も植わっていない。毎日その横を通り、柵の杭に手をかけて道を曲がることさえあるのに、そこで何かを育てるとは考えたこともなかった。
流し台の上の野菜に目が行く。土の色がまだ少し残った根の先。こういうものが、あの柵の中でも育つのだろうか。
「この辺りは王都からも少し離れているし、食料品なら需要が尽きる事もないから、大きくは無いけど安定した収入になると思うわよ?自炊もすれば、少しだけど食費も浮くしね」
遠くの依頼、難しい依頼、強い魔物。村長の家からここまで歩く間、ウィルが思い浮かべていたのはそちらばかりだった。膝の上で折っていた指が、ほどけた。
「確かに、目の前に畑があるのに、遊ばせておくのももったいないですもんね」
言ってから、ウィルは柵の中の土をもう一度思い浮かべた。種をまけば、水をやる人が要る。草を抜く人も要る。その間、自分は依頼を受けて、村の外の森にいるかもしれない。土は待ってくれても、芽はたぶん待ってくれない。
「でも、そうなると畑の管理で冒険者の方に手が回らなくなってしまいそうで……」
「そんなの、三人娘にも手伝わせれば良いのよ」
リリシラはあっさり言って、杯を卓に置いた。
三人娘。リリシラさんがそう言う時には、プリシラとエレノアに加えてネージュも含まれる。もうみんな子供ではないのに、ネージュまでその中に数えるのか。ウィルはそう思ったが、口には出さなかった。言えば、話がよけいに進んでしまいそうだった。
「えぇ!? その……リリシラさんがそう言ってくれるならプリシラはまだ良いとしても、ネージュさんやエレノアを勝手に数に入れるのは……」
「本気で言ってるの? そんなの、声掛けない方があの娘たち怒るわよ?」
「いやぁ、いくらなんでもそんな……」
ウィルは丸椅子の上で背中を丸めた。ネージュには、ついさっき頭の怪我を診てもらったばかりだ。エレノアにも、エレノアの一日がある。そこへ自分の借金の話を持ち込むのは、どう考えても筋が違う気がした。
「もう……じれったいわね」
リリシラは小さく息をつき、家の奥へ顔を向けた。
「プリシラちゃん、ちょっといらっしゃい」
「はーい?」
入口横のプリシラの部屋から、弾んだ返事が返ってきた。足音が近づき、白金の髪が戸口からのぞく。ウィルに気づくと、頭の上の耳がピコピコと挨拶するみたいに揺れた。ウィルも片手を上げて応えた。
「どうしたのママ?」
「ちょっとネージュちゃんとエレノアちゃんを呼んできて貰えるかしら」
プリシラは首をかしげた。それから母親とウィルの顔を順に見て、少しのあいだ黙る。耳が一度ぴくりと動いたかと思うと、ぱっと顔が明るくなった。何の話か、聞かなくても見当がついたらしい。
「わかった!」
言い終わるより早く、プリシラは戸口へ駆けだしていた。扉の閉まる音で、卓の上の茶器がかすかに鳴った。
閉まった扉を見たまま、ウィルは呟いた。
「……僕から、頼みに行けばよかったですね」
「来たら、ちゃんと自分の口でお話しなさいな」
「はい」
リリシラはそれ以上何も言わず、ウィルの杯に水を足した。揺れる水の面に、天井の梁と、情けない顔の自分が映っていた。
*
待つ間が、妙に長かった。
部屋の中ほどには、農具や工具の入った様々な大きさの木箱がところ狭しと並んでいる。子供の頃、プリシラと競ってあれを登り、二人そろってリリシラに叱られたことがあった。あの頃は、ここへ相談事を持ち込む日が来るとは思っていなかった。
リリシラは流し台へ戻り、まな板の上の野菜を刻み始めた。包丁がまな板を叩く音と、仕切りの向こうの鼻息と、暖炉の薪がはぜる音。ウィルは杯の水を一口飲み、もう一口飲んで、空になった杯を両手で包んだ。手のひらが、また湿っている。
「お昼は食べたの?」
背中を向けたまま、リリシラが聞いた。まだです、と答えると、包丁の音が一度止まった。
少しして、皿が一枚、ウィルの前に置かれた。厚く切ったパンに、刻んだ野菜と塩漬けの肉が載っている。遠慮しかけたウィルを、リリシラは目だけで黙らせた。
一口かじると、塩気が舌に広がった。村長の家から詰まっていた喉が、ようやくほどけた気がした。ウィルは黙って、皿が空になるまで食べた。
ネージュとは、ほんの先ほど治療院で別れたばかりだ。怪我がなくても来ていいとは言われたが、こんなに早く、こんな用事で顔を合わせるとは思わなかった。
エレノアも、小さい頃から一緒に過ごしてきた相手だ。ウィル、プリシラ、エレノア。ネージュが仲良し三人組と呼ぶ、その一人。同い年なのに、エレノアはウィルを兄様と呼ぶ。そう呼ばれると、少しは頼れるところを見せたくなる。借金の相談で呼び出すのは、その反対のような気がした。
扉が開いた。プリシラに続いて、水色の髪のネージュと、エレノアが入ってくる。エレノアは走ってきたのか、少し息が上がっていた。ネージュの目が、入ってくるなりウィルの頭の後ろへ向いた。怪我のことではない、と分かると、今度は不思議そうに首をかしげる。ウィルは丸椅子から立ち上がった。
「揃ったわね」
リリシラが包丁を置き、前掛けで手を拭きながら卓へ戻ってきた。
「あの、何かあったんですか……?」
エレノアが、ウィルとリリシラの顔を見比べた。
「説明するわね」
リリシラは三人に丸椅子を勧め、一連の流れを話した。借金のこと、畑のこと、冒険者の仕事と両方では手が回らないこと。ウィルが自分で話した時よりずっと短く、順番もきれいに並んでいた。
六十万Gのところで、エレノアが唇を引き結んだ。ネージュは膝の上で両手を重ねたまま、黙って聞いている。プリシラだけは途中から椅子の上で落ち着かなくなり、尻尾が何度も丸椅子の脚を叩いた。
ウィルは座り直し、膝の上の手を握ったり開いたりしていた。
「という事だから、暇な時はウィルの農業のお手伝いをしてあげてね」
「わかりました」
ネージュが、診察の続きでも引き受けるような顔で頷いた。
「私もやります!」
エレノアが卓に身を乗り出し、
「もちろんやるよ!」
プリシラが両手をついた。
三つの返事が、ほとんど間を置かずに並んだ。ウィルは三人の顔を順に見て、口を開け、言葉が見つからずに閉じた。もう一度、開いた。
「あの、みんなそんな簡単に……」




