第4話:タイムリミットと、深夜のソルティ・カザフ
神々の猶予は、永遠ではない。
極東の夜空に浮かぶ三日月が、冷酷な光を地上へと投げかけていた。
時計の針は午前一時を回っている。
漣一家のボロアパートから少し離れた、街灯の薄暗い裏路地。
そこに、二つの神聖なる影が対峙していた。
「……期限よ、ヘレナ。天界の最高評議会から、最終通告の神託が下ったわ」
ツインテールを夜風に揺らしながら、ミーフェイが腕を組んで言った。
その声音はいつもの強気な調子を装っているものの、眉根は苦しげに寄っている。
「ええ。スリー・グレイス本府からも、天秤の傾きが限界に達したと報告がありました。……地上再創世プロトコル発動までの猶予は、今夜の未明まで」
ヘレナが銀髪を夜風になびかせ、静かに目を伏せる。
手元に浮かぶ白銀の契約書には、赤黒い神聖文字で『執行承認』の署名を求める魔力が明滅していた。
「……で、どうするわけ? あんたがやらないなら、あたしがシンテン・ゴビアの仙術で、この星ごと綺麗さっぱり泥に還してあげてもいいのよ!?」
ミーフェイがツンと顎を突き出し、ヘレナを睨みつける。
「言っておくけど、あたしはいつでもやれるんだから! 仙境の主として、冷徹に、慈悲のかけらもなく、ドカンと一発で終わらせてあげるわよ! べ、別にあの一家に情が湧いて手が止まってるとか、そんなこと絶対にないんだからねっ!」
「よくも抜け抜けと嘘をおっしゃいますね、ミーフェイ」
ヘレナは青穹の瞳を細め、ため息をついた。
「今日の昼間、シオリさんにせがまれて、折り紙で『仙鶴』を三十羽も折って差し上げていたのはどこのどなたですか? 『どう? あたしの作った鶴は天界一飛ぶのよ!』と自慢げに微笑んでいらしたではありませんか」
「うっ……! あ、あれはシオリの集中力と指先の器用さを検分するための、高次元の精神試験よ! あの子が『おねえちゃん、すごい!』って抱きついてきたのも、不可抗力なんだから!」
「では、その真っ赤になった耳はなんの試験ですか?」
「う、うるさいわねぇっ!! あんたこそどうなのよ! アヤノが解いてた算数の宿題、横から覗き込んで『この連立方程式は美しくありません。我が神聖幾何学の理を授けましょう』とか言って、朝までマンツーマンで熱血指導してたじゃないの! あの子、あんたのこと『ヘレナ先生』って呼んでたわよ!?」
「そ、それは……! 将来『聖ルミナス・ジパング女学院』に進学するにあたり、学力基準を満たさぬは秩序の損失と考えたまでです! 契約の守護者として当然の責務であって、べ、別にアヤノさんの将来を案じて夜なべしたわけではありません!」
「どの口が言ってんのよ、このポンコツ西洋神!!」
「なんですって!? 万物を泥に還すと息巻いていた割に、子どもの頭を撫でる手つきばかり上達している東洋のツンデレ女仙に言われたくありません!」
「だ、誰がツンデレよぉぉぉっ!!」
深夜の路地裏で、東西の最高峰女神がギリギリと睨み合い、火花を散らす。
どちらも分かっていた。
自分たちの胸の中にあるのは、もはや「滅亡の使命」などではない。
あのボロアパートで必死に、泥臭く、けれど温かく寄り添い合って生きる家族を、守りたいという想いだけだ。
だが、神としてのプライドと天界からの絶対命令が、その本音を認めることを許さない。
「……もういいわよ! あんたが滅ぼさないなら、あたしがやってやるわ!」
ミーフェイが両手を掲げ、黒髪を逆立てて膨大な仙気を練り上げる。
「さあ見なさい、あたしの本気を! 今すぐ地上を更地にして――」
「あれ? ヘレナちゃんにミーフェイちゃんやないの! こんな夜中にふたりで何してんの?」
気の抜けた、温かな関西弁が路地裏に響いた。
「「――えっ!?」」
二柱が慌てて振り返ると、街灯の下に立っていたのは、自転車を押したレイとアユミだった。
レイは深夜警備員の制服の上に防寒ジャンパーを羽織り、アユミはスーパーのレジ袋を二つも両手に提げている。
ふたりとも顔には濃い疲労の色が滲んでいたが、女神たちを見つけた瞬間、ぱあっと花が咲いたような笑顔を浮かべた。
「こんな時間に女子ふたりで路地裏なんかいたら危ないがな! 寒かったやろ、風邪ひいてまうよ?」
「ほんまやで。ふたりとも薄着なんやから。……あ、もしかして、うちが遅いからお腹空かせて待っててくれたん?」
「ち、違いま――」
「我らは決してそのような――」
否定しようとした二人の言葉を遮るように、アユミが誇らしげにレジ袋を持ち上げた。
「見てぇなこれ! パート先のスーパーでな、閉店間際の半額シールが貼られたんよ! じゃーん! 『ソルティ・カザフ』の特選牛すき焼きセットやでー!」
「「……す、すき焼き!?」」
二柱の神気が、ピタリと霧散した。
「そうやねん!」
レイが嬉しそうに自転車の荷台を叩く。
「今月、ダブルワークの残業代がちょっとだけ色をつけてもらえてな。子どもらの制服代の積立も今月分は無事にクリアできたんや! せやから、今夜はみんなでささやかなお祝いや! ソルティ・カザフのすき焼きはな、付属の割り下が天下一品なんよ。岩塩のキレと黒糖のコクが合わさって、安物の肉でも料亭の味に化ける魔法のタレなんやで!」
「アヤノもシオリも、すき焼きの匂いしたら絶対飛び起きてくるわ。ユナも待っとるし、ほら、ふたりとも! 早よ帰って鍋囲も!」
アユミが人懐っこく笑い、ヘレナとミーフェイの手を、冷え切った自らの手でキュッと握りしめた。
――ぎゅるるるるるるるるるっ!!
――ぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!!
深夜の静寂を引き裂いて、東西最高峰の腹鳴りが、完璧なユニゾンとなって夜空に轟いた。
「ふふふっ、えらい賑やかなお腹の虫やなぁ! よし、お父ちゃんが腕によりをかけて極上のすき焼き作ったるからな!」
「あ、あの……レイさん、アユミさん……」
ヘレナが真っ赤になって俯く。
ミーフェイもまた、アユミに手を引かれながら、ツンとした態度をかなぐり捨てて小さな声で呟いた。
「……お、お肉……いっぱい、あるの……?」
「あるであるで! ソルティ・カザフの特製うどんも三玉入ってるからな! シメまでガッツリいこ!」
路地裏を歩く四人の背中。
ヘレナとミーフェイは、アユミの繋いだ手の温もりを感じながら、互いに視線を交わした。
(……ヘレナ。判決は?)
(……言わずもがなです、ミーフェイ)
二柱の女神は、無言のアイコンタクトを交わし、天界から届いていた神聖文字の契約書を、背中の後ろでそっと握りつぶした。
(判定は……すき焼きのシメのうどんを平らげた後です)
(そうね。お肉を一枚残らず味わい尽くすまで、滅亡はお預けよ……っ!)
冷たい夜風の中、ボロアパートへと向かう家路には、早くも甘辛い割り下と、温かな家族団らんの幻光が満ち溢れていた。




