第5話:神々の下した結論(最終回)
――グツグツグツグツ。
浅型の鍋の中で、芳醇な割り下が煮え立つ音が部屋中に満ちていた。
ネギの焦げた甘い香りと、牛肉から染み出す濃厚な脂の匂い。
溶き卵を小鉢に溶いたヘレナとミーフェイは、箸を構えたままゴクリと喉を鳴らした。
「さあ、お肉ええ感じに火ぃ通ったで! ヘレナちゃんもミーフェイちゃんも、遠慮せんと一番ええとこ取ってや!」
「あはは、ほんまや! 早い者勝ちやでー!」
「おねえちゃん、これ、おいしいよぉ」
レイとアユミが満面の笑みで肉を配り、飛び起きてきたユナとアヤノがはしゃぎ、シオリがちょこんとミーフェイの小鉢に白菜を乗せてくれる。
「い、いただきます……!」
「べ、別にお腹が空いて待ちきれなかったわけじゃないんだからね……っ!」
卵にくぐらせた熱々の牛肉を口に放り込んだ瞬間、二柱の意識は再び極楽へと吹き飛ばされた。
甘辛いタレの奥に広がる、『ソルティ・カザフ』特選割り下ならではの凛とした岩塩のキレ。肉の繊維が舌の上でほどけ、濃厚なコクが脳天を突き抜ける。
続いて投入されたシメのうどんは、出汁と旨味を限界まで吸い込み、モチモチとした弾力で胃袋を温かく満たしていった。
「……ふぅ。完璧です。この味わい、まさに至高の調和……」
「な、なによこれぇ……うどんが美味しすぎて、あたしもう天界に帰りたくないんだけどぉ……っ」
満腹になった子どもたちと二柱の女神は、四畳半の畳の上で、そのまま川の字になって雑魚寝の体勢へと崩れ落ちた。
シオリはミーフェイの腕にすがりついてスヤスヤと寝息を立て、アヤノはヘレナのドレスの端を握りしめて幸せそうに微笑んでいる。
深夜二時半。
ヘレナはそっと身を起こし、天界通信用の水晶を極小の光で展開した。
隣ではミーフェイも起き上がり、仙術の筆を走らせている。
『ヘ、ヘレナ様!? ミーフェイ様!? 執行期限は疾うに過ぎております! 地上消去のサインはまだですか!?』
通信の向こうで、クララとシュエンニューが悲鳴のような声を上げる。
ヘレナは穏やかな、しかし絶対的な声音で告げた。
「スリー・グレイス本府へ通達。観測対象『第0号・特異家庭』における調査は、極めて重大な局面を迎えました。サピエンスが抱える心理の深淵、および食文化が神性に及ぼす影響について、無期限の長期観測が必要と判断します」
『は、はいぃぃ!?』
ミーフェイもツンと鼻を鳴らし、天界へ術式を叩き込む。
「シンテン・ゴビア序列第一位、ミーフェイより全女仙へ告ぐ! この地上には、泥に戻すには惜しい高度な精神性と、超絶美味な『ソルティ・カザフ』なる秘宝が存在する! よって、人類再創世計画は凍結! 文句がある奴は、あたしが直々に仙術で消し炭にしてあげるわ! 以上!」
『み、ミーフェイ様ァァァーーッ!?』
パチン、と通信水晶を消去する。
二柱の女神は顔を見合わせ、ふっと小さく吹き出した。
世界は救われたのだ。
ただただ美味いすき焼きと、四畳半の温もりによって。
「……おやすみなさい、ミーフェイ」
「……おやすみ、ヘレナ」
ふたりは再び布団へと潜り込み、子どもたちの温もりを抱きしめながら、深い眠りへと落ちていった。
――翌朝。
「ほらみんなー! 朝ご飯できたでー! 学校遅刻してまうよ!」
エプロン姿のレイの明るい声が、狭いアパートに響き渡る。
「うわぁ、寝坊したー!」と飛び起きるユナ、眠そうに目をこするアヤノとシオリ。
アユミが手際よくランドセルを背負わせ、「車に気ぃつけて行くんやで!」と送り出す。
「ヘレナお姉ちゃん、ミーフェイお姉ちゃん、いってきまーす!」
「……ええ、いってらっしゃい。車道に飛び出しては駄目ですよ」
「べ、別にあんたたちのこと心配して見送ってるんじゃないんだからね! 早く帰ってきなさいよねっ!」
玄関先で手を振る女神たち。
どこにでもある、けれど何物にも代えがたい、愛おしい日常の喧騒。
ふと、ヘレナの視線が、玄関の靴箱の上に置かれた一通の封筒に留まった。
昨日まではなかった、純白の分厚い上質紙の封筒。
そこには、あの優美な金箔の刻印――名門『私立・聖ルミナス・ジパング女学院』の校章が押されていた。
(……推薦入試の、一次選考通過通知……?)
さらにその下には、下流サピエンスには決して手に入らないはずの、超高級アパレルブランド『VALKANOR』の最高峰オーダーメイド受注票が、何気なく挟まれていた。
「……ねえ、ヘレナ。あれって……」
ミーフェイも目ざとくそれに気づき、怪訝そうに眉を寄せる。
「……レイさん」
ヘレナが台所で鼻歌交じりに洗い物をしている冴えない父親へ、そっと声をかけた。
「あの靴箱の上の書類……あれは一体?」
「ん? ああ、それ?」
レイは泡だらけの手を拭きながら、いつもの屈託のない、気の抜けた笑顔で振り返った。
「近所の商店街の福引でな、なんかすごい特賞が当たったんよ。『VALKANORの制服仕立券』と、女学院の推薦枠の応募権やって! いやぁ、ほんまツイてるわぁ! これで子どもらの夢に、また一歩近づいたよ!」
「ふ、福引……!? そんなものが商店街のガラガラで出るわけないでしょう!?」
「あはは、ほんまに出たんやからしゃあないがな! さあさあ、ふたりとも! 朝ご飯のソルティ・カザフの目玉焼き、冷めんうちに食べ食べ!」
カラカラと無邪気に笑うレイの背中を見つめながら、ヘレナとミーフェイは呆然と立ち尽くしていた。
ただの偶然か。
それとも、この男の底抜けの善性が手繰り寄せた、小さくて巨大な奇跡なのか。
神々の審問を軽やかに乗り越え、名門校の扉へと手を伸ばす小さな姉妹たち。
そして、その背中を押し続ける、ただの心優しい貧乏一家。
「……まったく。この家族には、天界の知恵すら敵いませんね」
「ふんっ! 退屈しなさそうで、いいんじゃないの!」
東西の最高峰女神が居着いた極東の片隅で、サピエンスたちの泥臭くも眩しい物語は、まだ始まったばかりだった。
(完)




