第3話:VALKANOR(ヴァルカノース)の壁と、泥臭い愛
居候生活が始まって数日が過ぎた。
四畳半の極貧アパートの朝は、驚くほどに早い。
午前五時半。薄暗い台所で、カタカタと規則正しい包丁の音が響いていた。
ボサボサ頭のレイが手際よく卵焼きを巻き、冷食の隙間を埋めるように小松菜のおひたしをアルミカップへ詰めている。
その隣の勝手口から、自転車の鍵をチャリと鳴らして入ってきたのは、パート先の制服にエプロンを重ね着した女性――この家の母親、アユミだった。
「ただいまー。ふぅ、早朝の物流倉庫の仕分け、今日もごっつ冷えたわぁ」
「お帰りアユミ、お疲れさん。すぐあったかいお茶淹れるな」
「ありがとレイ君。あ、子どもらのお弁当、もう大体詰め終わったん? うち、卵焼きの端っこつまみ食いしてええ?」
「こらこら、ちゃんと朝ご飯で食べぇな」
ふたりは疲労困憊のはずなのに、お互いに労わり合うような柔らかな笑みを交わしていた。
その光景を、壁際に敷かれたせんべい布団の上からじっと見つめていたのが、銀髪のヘレナとツインテールのミーフェイである。
「……不可解です」
ヘレナが正座の姿勢のまま、理性を研ぎ澄ませた低い声で呟く。
「あのふたりの生活サイクルは、明らかに過労死の領域に達しています。レイさんは昼間のビル清掃と夜間の警備員、アユミさんは深夜のファミレスと早朝の仕分け作業……肉体の限界を超えた労働に従事している。破綻しているわ」
「そうよ、絶対おかしいわよ!」
ミーフェイも腕を組み、不機嫌そうに唇を尖らせた。
「あんなボロアパートで、食料も『ソルティ・カザフ』の特売品ばかり! 切り詰めれば、あそこまで身を粉にして働く必要なんてないはずじゃない! ……べ、別にあたし、あのふたりが過労で倒れたら可哀想とか、そんなこと思ってるわけじゃないんだからね! 朝ご飯のソルティ・カザフ特製ソーセージが食べられなくなったら困るから、不審に思ってるだけよ!」
ツンデレ全開のミーフェイに、ヘレナは「ええ、調査が必要です」と頷いた。
ちゃぶ台の上に置かれた、分厚い家計簿と一冊のパンフレット。
子どもたちがまだ寝静まっている隙を見計らい、二柱の女神は抜き足差し足でちゃぶ台へと近づき、そのパンフレットを検分した。
「……な、何ですかこれは」
ヘレナが息を呑む。
金箔押しが施された重厚な表紙には、気品ある紋章と共にこう記されていた。
――私立・聖ルミナス・ジパング女学院。
「名門女子校の入学案内……? これを通わせるために資金を貯めているのですか? しかし、学費の金額もさることながら、この『指定服飾規定』の欄……」
ヘレナの視線が、一枚の美しいカラーページに釘付けになる。
そこに掲載されていたのは、ため息が出るほど洗練されたシルエットの純白と漆黒のセーラー服だった。
胸元に刻まれたブランドロゴ。
『VALKANOR』。
「ば、馬鹿じゃないの……!?」
ミーフェイが思わず素っ頓狂な小声を漏らした。
「『VALKANOR』って、最上級サピエンスども御用達の、超絶高級アパレルブランドじゃない! 一着で目玉が飛び出るような値段がするのよ!? なんでこんなボロアパートの一家が、そんな雲の上の制服を買い揃えようとしてるわけ!?」
「あ、それ見つかっちゃいました?」
背後から、申し訳なさそうなレイの関西弁が飛んできた。
振り返ると、お茶の入った湯呑みを持ったレイとアユミが、ちゃぶ台の前に腰を下ろすところだった。
「レイさん、アユミさん。契約と分相応の理に基づき、問い質します」
ヘレナが背筋を正し、真剣な眼差しで二人を見据える。
「なぜ、そこまで無茶な過密労働をしてまで、この超名門校を目指すのですか? しかも、あのアヤノさんとシオリさんは、貴方たちと血が繋がっていない孤児だと伺いました。……他人の子どもに、なぜ一着数十万、数百万とも言われる『VALKANOR』の制服を買い与えようとするのです? 公立校で済ませれば、貴方たちの生活は遥かに楽になるはずです」
「そうよ!」
ミーフェイも身を乗り出し、畳をパシッと叩く。
「非合理極まりないわ! 血の繋がりもない赤の他人のために、自分の命をすり減らすなんて大馬鹿のすることよ! 見栄なの!? 世間体のためなの!? そんなくだらない偽善なら、あたし今すぐこの街ごと――」
「見栄なんかやないよ、ミーフェイちゃん」
アユミが、優しく穏やかな声でミーフェイの言葉を遮った。
疲れて荒れた手をちゃぶ台の上で重ね、愛おしそうにパンフレットの写真を撫でる。
「あの子らはな、ちっちゃい頃からずっと『自分は余計な存在や』『誰かの荷物になってる』って、怯えながら生きてきたんよ。シオリなんか、うちに来たばっかりの頃は、ご飯食べるのすら申し訳なさそうにしとった」
「……っ」
ミーフェイの胸が、ツンと痛んだ。
いつも自分の着物の裾を握りしめ、顔色を窺うように見上げてくるシオリの、あの儚げな姿が脳裏をよぎる。
「せやからな、約束したんよ」
レイが、湯呑みを両手で包み込みながら、はにかむように笑った。
「あの子らが大人になって一人で生きていけるように、最高峰の教育を受けさせてやりたい。……そして何より、あの名門校の門をくぐる時、周りのお金持ちの子らから後ろ指を指されたり、引け目を感じたりせんでええようにしてやりたいんや。『うちにはお金がないから安物の代用品や』なんて、絶対に惨めな思いはさせたくない。『VALKANOR』の本物の制服を着せて、胸張って『私は愛されてここに立ってるんや』って、誇りを持たせて旅立たせたいんよ」
「……そのために、命を削るのですか」
ヘレナの声がかすかに震える。
「貴方たち自身の幸せや、安息はどうなるのです。あまりにも、割に合わないではありませんか」
「アホやなぁ、ヘレナちゃん」
レイは屈託なく、カラカラと笑った。
「親が子どものために汗水流すのに、割に合う合わへんなんて計算、要るわけないやろ? あの子らが笑顔で『いってきます』って言ってくれたら、それだけでお父ちゃんもお母ちゃんも、お釣りが来るくらい幸せなんやで」
「お父ちゃん! お母ちゃん!」
バタバタと引き戸が開き、飛び出してきたのは長女のユナだった。
その後ろには、目をこすりながら起きてきたアヤノと、ミーフェイの姿を見つけてパッと顔を明るくしたシオリがいる。
「ユナ、もう起きたんか」
「うん! お父ちゃん、これ見て!」
ユナがちゃぶ台の上に差し出したのは、可愛らしいブタの貯金箱と、一冊の小さな小遣い帳だった。
「うちのお手伝いのお駄賃と、お年玉、全部貯めてん! アヤノとシオリの制服代の足しにして!」
「えっ、ユナちゃん、自分のお小遣いやのにええの!?」
アユミが驚くと、ユナはへへんと鼻を鳴らして胸を張った。
「ええに決まってるやん! アヤノもシオリも、うちの自慢の妹やもん! ふたりが『VALKANOR』のピカピカの制服着て入学式出るの、うちが一番見たいんや!」
「お姉ちゃん……っ」
アヤノがボロボロと大粒の涙をこぼし、ユナに抱きついた。
「私、勉強めっちゃ頑張る……! バイトもする! お父ちゃんとお母ちゃんに、絶対恩返しするから……っ!」
シオリもトタトタと駆け寄り、二人の抱擁に混ざりながら、なぜか空いているもう片方の手で、ミーフェイの仙衣の裾をぎゅっと握りしめた。
「……シオリも、おべんきょう、がんばる」
そして、ミーフェイを見上げて、はにかむように笑ったのだ。
「うっ…………」
ミーフェイは言葉を失い、喉の奥から絞り出すようなうめき声を漏らした。
両手で自分の顔を覆い、必死に湧き上がる熱い感情を堰き止めようとする。
(な、なによこれぇぇぇぇっ……! なんなのよこの家族はぁぁぁぁっ……!!)
損得勘定など欠片もない。
血の繋がりを超越した、純度百パーセントの献身と家族愛。
泥臭く、不器用で、けれど黄金よりも気高く輝くサピエンスの魂の営み。
「……ヘレナ」
ミーフェイが、指の隙間から涙で滲んだ赤い瞳を覗かせ、震える声で言った。
「……これを、滅ぼすの? この子たちの未来を、更地にするわけ……? あたし、そんなの……そんなの、絶対に嫌なんだけど……っ!」
「……ええ」
ヘレナもまた、青穹の瞳を潤ませながら、静かに首を横に振った。
「如何なる天上の法を以てしても、この無私の愛を『悪』と断じることなど不可能です。もしこれを裁く神法が存在するならば、その法こそが間違っているわ」
「よーし! みんな起きてきたことやし、朝ご飯にすんでー!」
レイが元気よく声を張り上げ、フライパンから香ばしい湯気を立ち上らせる。
「今朝はな、奮発して『ソルティ・カザフ』の特製粗挽きポークソーセージや! 皮がパリッとして、肉汁がジュワッと溢れる極上のやつやで! ヘレナちゃんもミーフェイちゃんも、ぎょうさん食べて精ぇつけや!」
「……はいっ、謹んで頂戴いたします!」
「べ、別に感動してお腹空いたわけじゃないんだからね! でも……ソーセージ、二本ちょうだい……っ!」
朝の光が差し込む四畳半で、フライパンがパチパチと心地よい音を立てる。
子どもたちの笑い声と、ソルティ・カザフの香ばしい匂いに包まれながら――。
二柱の最高峰女神の心から、「世界再創世」の冷徹な意志は、完全に消え去ろうとしていた。




