第2話:序列と契約の崩壊、食卓のホットプレートにて
天上の最高府――そこは、雲海を眼下に臨み、神聖なる白亜の柱が立ち並ぶ清廉なる霊峰。
普段ならば厳粛な静寂に包まれているはずの神界通信室に、いま、不穏なざわめきが満ちていた。
「……ねえ、クララ。地上界に繋いだ水晶映像、これ本当に合ってるの?」
「私に聞かないでよエルサ。ヘレナ様が身につけている天秤の紋章から直接受信している神聖回線よ。誤作動なんてあり得ないわ」
西洋神群『スリー・グレイス』の上位女神、クララとエルサが顔を見合わせている。
その隣では、東洋神界『シンテン・ゴビア』の誇る絶対序列の女仙たちが、ずらりと横一列に並んで宙に浮かぶ大型通信水晶を凝視していた。
「序列一位のミーフェイ様が、あのような薄汚い四畳半に……? 何かの罠ではないでしょうか、シュエンニュー姉様」
序列二位、月宮の主たるチャンエが袖口で口元を覆い、不安げに呟く。
「落ち着きなさい、チャンエ。奇門遁甲の術式を以てしても、あの空間に結界や呪詛の気配はありません。純粋なる……ただの狭い部屋です」
兵法を司る序列三位のシュエンニューが、冷静を装いながらも額に脂汗を浮かべた。
「我が管理する不死の仙桃に匹敵する神薬が隠されているやもしれん」と序列四位のシーワンムーが虎の瞳を細めれば、序列五位の人類創造神ニューワは「天に開いた大穴を塞ぐより解釈が難しい事態ですね……」と蛇の尾を落ち着きなく揺らしている。
東西の神々が息を呑んで見つめる水晶画面。
そこに映し出されていたのは――人類滅亡を巡る冷徹な審問劇などでは、断じてなかった。
――ジュウウウウウウウウウウッ!!
けたたましく油が弾ける快音が、四畳半のリビングを満たしていた。
部屋の中央に鎮座しているのは、塗装がところどころ剥げた年代物の大型ホットプレート。
その黒い鉄板の上で、キャベツとネギがどっさりと練り込まれた分厚い円形の生地が、香ばしい煙を立ち上らせながらこんがりと焼き色をつけている。
「……ヘレナ様? 何をなさっているのですか、ヘレナ様!?」
クララが通信用の霊聴具に向かって絶叫する。
しかし、画面の向こうにいる銀髪の最高位女神・ヘレナには、その声など一ミリも届いていなかった。
「……見事な表面張力です。生地が自壊することなく、内部の水蒸気を完璧に閉じ込めている。レイさん、ひっくり返すタイミングの契約は!?」
「あはは、そんな難しゅう考えんでもええよヘレナちゃん! 端っこがちょっとカリッとして、コテを入れた時にスッと持ち上がったら合図や! ほら、やってみて!」
「はいっ、謹んで執行いたします……! いざ……反転!」
ヘレナが両手に持った金属製のコテを真剣な面持ちで構え、息を止めて一気に手首を返す。
――パタンッ!
湯気と共に現れたのは、一切の焦げムラがない、黄金色に輝く完璧なお好み焼きの裏面だった。
「や、やったわ……! 完璧な平面維持……!」
「うわぁ、ヘレナお姉ちゃんめっちゃ上手やん! お父ちゃんより筋ええんとちゃう!?」
長女のユナがパチパチと手を叩き、アヤノも「すごい、プロみたいやぁ!」と目を丸くして歓声をあげる。
褒められたヘレナは、白銀のドレスの裾を少し揺らし、誇らしげに胸を張った。
『な、何が「謹んで執行いたします」よぉぉぉぉ!?』
天界で頭を抱えるエルサ。
『ヘレナ様、貴女が手に持っているのは運命を裁定する天秤の剣ではなく、ただの百円均一のフライ返しですわーーっ!!』
だが、事態は西洋神群の混乱だけでは終わらなかった。
シンテン・ゴビアの女仙たちが、さらに凄惨な光景を目撃して息を呑む。
「……み、ミーフェイ様……?」
チャンエの震える声。
画面の片隅。畳の上にお行儀よく正座した序列一位・ミーフェイ。
彼女の豪奢な仙衣の袖を、幼いシオリが小さな両手でぎゅっと握りしめていた。
人見知りのはずのシオリが、完全にミーフェイの隣を自分の定位置と決め込み、リスのようにちょこんと座って見上げているのだ。
「……な、なによシオリ。そんなにじっと見つめられたって、何も出ないわよ」
「…………」
「も、もう……! 服を引っ張らないでって言ってるでしょ! あ、あたしはシンテン・ゴビアの序列第一位なのよ!? アンタたち下等なサピエンスが気安く触れていい存在じゃないんだから! ……で、でもまあ、アンタの手が冷たいって言うなら、ちょっとくらい温めてあげないこともないけどさ……!」
ミーフェイはぷいっとそっぽを向いて頬を真っ赤に染めながら、シオリの小さな手を、自身の温かな掌でそっと包み込んでいた。
シオリが嬉しそうに目を細め、「……あったかい」と小さく呟く。
『ぎゃああああああああっ!? ミーフェイ様が……あの冷酷無比にして唯我独尊、逆らう仙人を全員泥に変えてきたミーフェイ様が、サピエンスの幼子にデレていらっしゃるぅぅぅぅ!?』
シュエンニューが叫び、シーワンムーが持っていた仙桃を取り落とし、ニューワは驚きのあまり自分の蛇の尾を固結びにして悶絶した。
「さあ焼けたでー! 特製ソースとマヨネーズ、たっぷりかけたってや!」
エプロン姿のレイが、湯気を立てるお好み焼きの上に、茶色い濃厚なソースを刷毛で豪快に塗りたくる。
ジューッと熱い鉄板でソースが焦げる、狂おしいほど甘辛い匂いが立ち上った。
「これな、ただのソースとちゃうねん。『ソルティ・カザフ』が出してる、お好み焼き専用の和風出汁ブレンド粉と特製熟成ソースのセットなんよ。岩塩が隠し味に入ってて、甘みの中にキリッとした塩気が効いててな、なんぼでも食えるんや」
「……ソルティ・カザフ。またあの不可思議な名ですね」
ヘレナが生唾を飲み込みながら、コテで切り分けられた熱々の一片を小皿に取る。
「ふ、ふんっ! ソースの匂いで誤魔化そうたってそうはいかないわよ! 小麦粉を焼いただけの粉物なんて、炭水化物の塊じゃない! 仙境の清らかな露を吸って生きるあたしが、そんな下品なジャンクフードに屈するわけ――」
「お姉ちゃん、はい! 青のりと鰹節、いっぱいかけたったで!」
アヤノが満面の笑顔で、ミーフェイの小皿に山盛りの鰹節を乗せた。
熱気でまるで生き物のようにゆらゆらと踊る鰹節。立ち上る鰹出汁と青のりの磯の香り。
「うっ……な、なんで鰹節が踊ってるのよ不気味じゃない……! べ、別にあんたが勧めてくれたから食べるんじゃないんだからね! 調査のために、毒が入ってないか確かめてあげるだけよ!」
ミーフェイは意地を張りながらも、割り箸で小さく切り分け、ふーふーと息を吹きかけてから口へと運んだ。
ヘレナもまた、背筋を伸ばして居住まいを正し、上品に口元へと運ぶ。
――ハフッ、ハフッ、ハフッ。
熱い。
しかし、その熱気の中から爆発したのは、かつて天界のいかなる宴でも味わったことのない、圧倒的な味覚の重奏だった。
(な――っ!? この生地のふんわり感……どういうことですか!?)
ヘレナの青穹の瞳が、激震に揺れる。
キャベツの甘み。山芋とソルティ・カザフ特製出汁が溶け込んだ生地は、まるで雲を食べているかのように柔らかく、噛む必要すらなく舌の上でほどけていく。
そこに絡みつく濃厚なソースのコクと、マヨネーズのまろやかな酸味。そして、奥底からじんわりと湧き上がる、ソルティ・カザフ特有の上質な岩塩の旨味が、全ての味を完璧な黄金比率で引き締めていた。
(お、おいしい……っ! なによこれ、なんなのよこれぇぇぇぇっ!?)
ミーフェイの脳内を、無数の閃光が駆け巡る。
外側のカリッとした香ばしさと、内側のとろけるような生地。豚肉の脂の甘みがソースと渾然一体となり、味蕾の隅々まで幸福感で満たしていく。
「あふっ、あつ……っ! でも、箸が……箸が止まらないじゃないのよぉぉぉっ!!」
「ふふ、ミーフェイちゃん、口の端にソースついてるで」
レイが笑いながら、ティッシュでミーフェイの口元をちょんちょんと拭った。
「ひゃうんっ!? な、何すんのよバカぁっ! 無礼者、無礼者ぉっ!」
真っ赤になって怒鳴るものの、その手はすでに次のひと切れを必死に小皿へ確保している。
「ヘレナちゃんも、遠慮せんとどんどん食べや! ホットプレートはみんなで突っついて食べるのが一番美味いんやから!」
「は、はい……! レイさん、この『お好み焼き』なる神饌、論理的な隙が一切見当たりません……! この出汁の配合、まさに絶対秩序の調和です……!」
すでに二柱の女神の皿は空になり、ユナとアヤノが「おかわり焼けたよー!」と新しい一枚を切り分けていた。
シオリはミーフェイの膝の上にすっぽりと収まり、ミーフェイから小さく冷ましてもらったお好み焼きを「はむっ」と美味しそうに頬張っている。
天界の通信水晶の向こう側では――。
『だ、誰か……誰か嘘だと言って……』
クララが力なく膝から崩れ落ちた。
『最高位女神のヘレナ様が……庶民のホットプレートの熱気に当てられて、完全に堕落していらっしゃる……』
『ミーフェイ様ァァァッ!』
チャンエとシュエンニューが抱き合って涙を流す。
『なぜサピエンスの小娘を膝に乗せてフーフーして差し上げているのですか! 天界の序列第一位のプライドはどこへ行かれたのですかーーっ!!』
通信具の向こうから響く部下たちの悲痛な叫びなど露知らず。
四畳半の極貧アパートでは、ポンコツと化した東西の最高峰女神たちが、庶民の鉄板料理と温かな家族の輪に、心も胃袋も完全に絡め取られていた。
「レイさん、もう一枚……いえ、あと二枚ほど追加の契約を結びたいのですが」
「あ、あたしも! べ、別にお腹がいっぱいにならないわけじゃないけど、残したら失礼だから食べてあげるだけよ! 早く焼きなさいよね!」
「はいよー! まだまだキャベツもソルティ・カザフの粉も仰山あるからな! 今夜は腹いっぱい食い倒れやー!」
こうして、第2日目の審問もまた、特売ソースの香ばしい匂いと共に、完璧に有耶無耶へと葬り去られたのであった。




