第1話:滅亡審問官、特異点観測へ(ターゲットは超絶貧乏大家族)
神々が地上の消去を決断する基準は、極めて単純明快である。
すなわち――「そこに残すだけの価値があるか否か」。
もしも地上に一片の善性も、保護に値する理の結晶も残されておらぬのなら、腐敗した世界など一度すべて更地に戻し、初めから創り直したほうが早い。
その最終通告を下すため、天界の二大勢力から選りすぐりの最上位審問官が、極東の寂れた住宅街の路上へ降り立っていた。
「……ちょっと、なんなのよこのジメジメした空気は! 埃っぽくて息が詰まりそうじゃない! 我がシンテン・ゴビアの仙境に比べたら、掃き溜めもいいところよ! べ、別にあんたのために言ってあげてるんじゃないんだからね、ヘレナ! こんな不快な場所、あたしの一撃でさっさと更地にして帰りたいだけよ!」
腕を組み、ツンと顔を背けて毒づいたのは、東洋神界『シンテン・ゴビア』の絶対序列第一位、最上位女神ミーフェイである。
絹のように滑らかな黒髪のツインテールを揺らし、豪奢な刺繍が施された仙衣を翻す彼女の瞳は、尊大ながらもどこか落ち着きのない光を宿していた。
「無駄口を慎みなさい、ミーフェイ。契約と法に基づき、公正な観測を行うのが我らの崇高なる任務。感情に任せた破壊など、天上の秩序に対する重大な冒涜です」
そう言って銀髪のストレートヘアを優雅にかき上げたのは、西洋神群『スリー・グレイス』の頂点に君臨する最上位女神ヘレナだ。
身体のラインを美しく強調する白銀のドレスと、冷徹な理性を湛えた青穹の瞳。彼女の言葉には、一片の揺らぎもない正統派の気品が宿っている。
「ふんっ、理屈ばっかり並べ立てて! あんたたち西洋神が契約だの法だのと小難しく引き延ばすから、地上界のリセットが遅れるんじゃないの!」
「客観的証拠に基づかない断罪は、単なる虐殺に過ぎません。……この地上全域から選出された、最後の観察サンプル。通称『第0号・特異家庭』。この家庭にサピエンスとしての救うべき価値が認められなければ、即座に人類消去プロトコルを執行します。異論はありませんね?」
「な、ないわよ! さっさと価値なしって証明して、あんたに目にもの見せてやるんだから!」
二柱の絶対神が視線を向けた先。
そこにあったのは――築四十年は優に超えていそうな、モルタル外壁にひびが入った木造二階建てのボロアパートであった。
玄関の表札には、マジックペンで歪に書かれた『漣』の文字。
「……これが、最後の観測対象? な、なによこれ、みすぼらしすぎるじゃない! あたしが本気で息を吹きかけたら、それだけでペシャンコになっちゃいそうなんだけど!」
「ええ。ですが情報によれば、血の繋がりすら定かではない複数の孤児を囲い込み、極限の困窮生活を送っているとのこと。サピエンスの醜悪なエゴ、あるいは偽善の温床である可能性が極めて高い。その仮面を剥ぎ取り、法の裁きを下しましょう」
ヘレナが凛とした佇まいで進み出て、華奢な指先で古びたインターホンを押した。
ピンポーン、と間の抜けた破裂音が響く。
数秒後、ドタバタと慌ただしい足音が響き、ガチャリと建付けの悪いドアが開いた。
「はーい! どなたですかー――って、うわっ!?」
姿を現したのは、首回りがヨレヨレになったTシャツに、色褪せたチェック柄のエプロンを身につけた、ひどく冴えない風貌の男だった。
寝癖のついたボサボサの髪、目元には慢性的な疲労のクマ。どこからどう見ても、社会の荒波に揉みくちゃにされている苦労人の父親――この家の家主、レイである。
ヘレナはスッと背筋を伸ばし、威厳に満ちた絶対の声音で宣告を開始した。
「サピエンスよ、我が言葉を聞くがよい。我らは天界より遣わされし――」
「えっ、ちょ、ちょっと待ってください! もしかして新聞の勧誘か何かですか!? 堪忍してください、うち今月ほんまにカツカツで、チラシも裏が白いやつしか取ってへんのです……! あ、いや待てよ、道に迷わはったんですか!? こんな細い路地の奥まで……うわ、めっちゃ派手な格好やないですか! 外、ごっつ寒かったでしょ!?」
「は……?」
ヘレナの荘厳な宣告が、レイの怒涛の関西弁によって強制遮断された。
平伏するでもなく、怯えるでもなく、男は心底申し訳なさそうに、そして本気で二人の寒さを心配するようにオロオロと眉を下げている。
「な、なによアンタ! 誰が道に迷ったっていうのよ! あたしはシンテン・ゴビアの序列第一位、ミーフェイ様よ! アンタたちみたいな泥で作られた下等生物が、気安く話しかけてんじゃないわよ……っ!」
「まあまあ、そんなトゲトゲしいこと言わんと! 玄関先で立ち話もなんですやろ、お茶くらいしか出せへんけど、とにかく上がってあったまってきなはれ! 風邪ひいてしもたら大変や!」
ガラガラと無防備に開け放たれる引き戸。
神の絶対的な威圧を「寒さでガタガタ震えている気の毒な人」と盛大に勘違いした男は、二人を玄関先へぐいぐいと招き入れてしまった。
「ちょ、ちょっと! なんなのよこの男、わたしの話を聞きなさいよ! べ、別にあんたに優しくされたからって、入ってあげるわけじゃないんだからね! 中の様子を暴いてやるために、仕方なく上がってあげるだけよ!」
「……ええ。観察対象の内情に踏み込む手間が省けました。この家屋の腐敗ぶりをつぶさに検分し、厳格に記録しましょう」
ヘレナとミーフェイはそれぞれ毒づきながら、埃っぽい玄関で靴を脱ぎ、四畳半ほどのリビングへと足を踏み入れた。
室内は、絵に描いたような清貧そのものだった。
擦り切れた畳、角が削れた小さなちゃぶ台、隅に追いやられた小さなテレビ。
だが、不快なゴミや悪臭は一切ない。むしろ隅々まで雑巾がけが行き届き、驚くほど丁寧に住まわれていることが見て取れた。
「お父ちゃん、誰か来はったんー?」
奥の台所から、小走りで駆けてきたのは十歳ほどの少女だった。
整った顔立ちに、快活そうな笑顔。実の長女であるユナだ。
「ユナ、お客さんや。道に迷わはったみたいでな」
「わぁ、めっちゃ綺麗なお姉ちゃんたち! お客さんやったら、ちょうどええとこに来はったなぁ! 今な、揚げたてがあるねん!」
ユナが弾んだ声で台所へ戻り、代わりにトタトタと小さな足音を立てて現れたのは、もう一人の少女だった。
ユナより少し年下の少女――アヤノである。
彼女は両手に、新聞紙を敷いた平皿を大切そうに抱えていた。その上には、黄金色にカラリと揚がった大ぶりの楕円形の物体が、湯気を立てて鎮座している。
「あ、あの……これ、よう揚がったから、どうぞ食べてな……?」
アヤノはペこりと頭を下げ、人懐っこい笑みを浮かべて皿を差し出した。
その背後からは、さらに幼い少女――シオリが、アヤノの服の裾をぎゅっと握りしめ、大きな瞳をおずおずと覗かせながら、物陰から二柱の女神を見つめている。
「……な、なによこれ。油でギトギトの茶色い塊じゃない。あ、あたしにこんな下等な練り物を食べさせようなんて、百万年早いわよ! 仙界の霊果に比べたら、こんなのただの油まみれの泥よ! か、勘違いしないでよね、アンタたちが嫌いだから断るんじゃなくて、あたしの舌が高貴すぎるだけなんだから!」
ミーフェイが頬を赤くしながらツンとそっぽを向く。
「あはは、それな、近所のスーパーの特売で買うてきた『ソルティ・カザフ』の特製冷凍コロッケやねん!」
レイが嬉しそうに胸を張った。
「見切り品のシール貼ってあったんやけどな、ソルティ・カザフの惣菜は衣のサクサク感が他のやつと段違いなんよ。うちの子ら、これ大好物でなぁ。冷めんうちに、遠慮せんと食べてみてぇな!」
「……ソルティ・カザフ?」
ヘレナが端正な眉をひそめる。聞いたこともない名だ。サピエンスの零細食品加工ブランドか何かに違いない。
「お心遣いは感謝しますが、辞退いたします。我ら天上の神霊は、現世の物質的補給を一切必要としませ――」
――ぎゅるるるるるる。
静寂を切り裂いて、澄み渡るような、しかし絶望的に情けない音がリビングに響き渡った。
音の発生源は、他でもない。ヘレナの白銀のドレスの奥、その平坦な腹部であった。
「……っ!?」
ヘレナがサッと顔を真紅に染め、両手で腹を押さえる。
地上に降臨し、サピエンスの肉体へと位相を合わせた弊害だった。神気を抑え込んだことで、肉体の生理現象――すなわち「空腹」が完全に同期してしまっていたのだ。
「ぷ、ぷふっ……! あははは! なによそれヘレナ、見苦しすぎるわよ! 高潔ぶって『物質的補給は不要』とか偉そうに言っておいて、お腹の虫ひとつ統制できないわけぇ!?」
ここぞとばかりに指をさして勝ち誇るミーフェイ。
だが――。
――ぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ。
ミーフェイの腹部からも、重厚な腹鳴りが間髪入れずに炸裂した。
ミーフェイの嘲笑がピタリと凍りつく。
「…………っ」
「……あら。随分と威勢のよろしいお腹の虫を飼っていらっしゃるのね、ミーフェイ」
「ち、違うわよ! これは体内の仙気が練り合わさって共鳴しただけなんだから! べ、別にお腹なんか空いてないんだからねっ!!」
「ふふっ、お姉ちゃんたち、お腹ペコペコなんやね! はい、熱々のうちにハフハフして食べて!」
アヤノが無邪気に笑い、割り箸を二人に手渡した。
シオリもまた、アヤノの後ろから小さく頷き、
「……めっちゃ、おいしいよぉ?」
と、舌足らずな可愛い関西弁でぽつりと呟いた。
差し出された黄金の塊。
立ち上る暴力的なまでに香ばしい油の匂い。そして、ジャガイモと挽肉が織りなす甘やかな蒸気。
逃げ場を失った二柱の女神は、互いに忌々しそうに視線を交わし、観念したように割り箸を伸ばした。
「……毒見です。サピエンスが神を謀るための呪詛が込められていないか、契約に基づき検分いたします」
「そ、そうよ! あたしも毒見してあげるだけ! まずかったら承知しないんだからね!」
二人は同時に、コロッケの端を小さく齧りとった。
――サクッッッ。
部屋の中に、極上の破砕音が響いた。
次の瞬間、二柱の思考が、完全に停止した。
(――な、何ですか、この食感は……!?)
ヘレナの青い瞳が見開かれる。
極限まで薄く、均一にまぶされたパン粉が、歯の侵入と同時に軽やかな音を立てて弾け飛ぶ。決して油っこくない。むしろクリスピーな軽快さで、内側の熱を完璧に閉じ込めていた。
(う、嘘でしょ……!? 衣を噛んだ瞬間に、なんなのよこの溢れ出す旨味は……!)
ミーフェイの全身に電撃が走る。
舌の上に広がるのは、丁寧に裏ごしされたジャガイモの滑らかな甘み。そして、絶妙な塩梅でブレンドされた『ソルティ・カザフ』特有の、岩塩を思わせる鋭くもまろやかな塩気。
噛みしめるたびに、少量の粗挽き肉から染み出す肉汁が塩気と混ざり合い、暴力的なまでの旨味となって口内を蹂躙していく。
「あ、熱っ……でも、箸が止まらない……っ!」
「なによこれ、なんなのよこれぇ……っ! 外側は完璧なサクサクなのに、中はとろっとろに蕩けて……! べ、別に美味しくなんかないんだから……でも、この塩加減、信じられないくらい完璧じゃないのよぉ……っ!」
もはや上品な齧り方などどこかへ消え去っていた。
ヘレナは熱さにハフハフと息を漏らしながら無我夢中でコロッケにかじりつき、ミーフェイに至っては両手で箸を握りしめ、リスのように両頬をパンパンに膨らませて必死に咀嚼している。
「あはは、口に合ってほんま良かったわ! まだまだ仰山あるから、ぎょうさんおかわりしぃや!」
屈託のない笑顔で笑うレイ。
「アヤノ、シオリ、ソース取ったげて」
「はーい! お姉ちゃんたち、このソースかけると、もっと味ぃ濃うなって美味しいで!」
「……かける?」
シオリがおずおずと差し出してきたソースの瓶を受け取り、ヘレナは震える手で黒い液体をとろりと垂らす。
酸味とスパイスの刺激が加わった瞬間、二柱の脳内で何かが心地よく弾け飛んだ。
(美味です……! なぜ、なぜただの冷凍惣菜に、天界の神饌を凌駕する魔力が宿っているのですか……!?)
(こ、こんな安物の冷凍食品が美味しいわけないのに……っ! なんであたしの手、止まらないのよぉ……っ!)
二柱の最高峰女神が、四畳半の畳の上で、無心に揚げたてコロッケを貪り食う。
その神々しくもポンコツな姿を、レイと三人の娘たちは、ただただ温かな笑顔で見守っていた。
「……ふぅ。ごちそうさまでした」
ヘレナが皿の上の衣の破片まで綺麗に平らげ、ペーパーナプキンで口元を拭った。我に返ったその顔には、隠しようのない敗北感が滲んでいる。
「……感謝いたします、サピエンス。確かに、非の打ち所がない見事な味わいでした」
「ふ、ふんっ! ま、まあ、下等なサピエンスが作ったにしては、上出来なんじゃないかしらね! べ、別にあたし、感動なんかしてないんだから! お腹が空いてたから、付き合いで完食してあげただけよ!」
ミーフェイも満足げに小さく息を吐き、ポコンと膨らんだ腹部を慌てて両手で隠した。
だが、二人は神だ。
どれほど胃袋を掴まれようと、本来の任務を忘れるわけにはいかない。
ヘレナは青穹の瞳をスッと細め、再び冷徹な審問官の顔を取り戻した。
「……さて。食事の施しを受けたところで、本題に入りましょう」
「そ、そうよ! アンタたちの身元を厳しく取り調べてやるんだから! 覚悟しなさいよね!」
ピリリと張り詰める空気。
だが、レイは相変わらず気の抜けた笑顔のまま、首を傾げた。
「本題? あ、もしかして泊まるとこ無くて困ってはるんですか? 見たところ荷物も持ってはりませんし」
「は……? 泊まる……?」
「うん。行く当てがないんやったら、何日かうちに泊まっていきはったらええがな。狭いし、布団も足らんから雑魚寝になってまうけどな」
あっけらかんと言い放つレイに、ヘレナは思わず目を見張り、ミーフェイは素っ頓狂な声を上げた。
「な、ななな……アンタ、頭大丈夫なの!? どこの誰かもわからない女二人を、なんでホイホイ家に泊めようとするわけ!? 騙されて身ぐるみ剥がされたらどうするのよ、バカじゃないの!?」
「ええ? だって、あんな美味しそうにコロッケ食べてくれはったやないですか。そんなええ人たちが、悪いことするわけあらへんよ。……それに、こんな寒い夜に女の子を路頭に放り出すなんて、寝覚めが悪すぎますやんか」
レイは困ったように頭を掻きながら、心底当たり前のことのように笑った。
「それにね、うちはみんな血ぃ繋がってへんようなもんやし。アヤノもシオリも、身寄りがのうてうちに引き取った子ぉなんよ。家族が二人くらい増えたかて、賑やかになって楽しいだけですやん」
「……っ」
ヘレナの言葉が喉に詰まる。
ミーフェイもまた、ツンとした態度を崩し、言葉を失って目を見開いていた。
血縁の不在。極限の困窮。
そんな過酷な現実を呪うどころか、当たり前のように他者を受け入れ、自らの分け前を差し出す。
それが計算でも偽善でもなく、呼吸をするのと同じ自然さで行われていることに、二柱は戦慄していた。
(……この男、あまりにもお人よしが過ぎます。無防備で、愚かなまでに純粋……)
(こんなの……こんなの、滅亡の対象にできるわけないじゃないのよ、バカぁ……っ!)
ヘレナとミーフェイは、視線を交わした。
当初の予定では、この日のうちにサピエンスの醜悪さを突き止め、天界へ消去承認のサインを送るはずだった。
しかし――。
「……ヘレナ。どうするのよ」
「……まだ、結論を出すのは早計です。この家庭が真に存続に値するか、長期的な監視下に置くべきと判断します」
「そ、そうよね! あたしも全く同じ意見よ! アンタたちが裏で悪巧みしてないか、あたしがちゃーんと見張っててあげるんだから! か、感謝しなさいよねっ!」
二柱の意見が、奇跡的に完全に一致した。
建前は「監視の継続」。
だがその本音の八割は、「この居心地の良さと、ソルティ・カザフの別メニューをもう少し堪能したい」という欲望に支配されていた。
「決まりました。……レイさん、貴方の申し出を受け入れ、我らは当面の間、ここに滞在することにします」
「うむ、光栄に思いなさいよね!」
「おお、ほんまですか!? やったぁ、よかったー! ほんならアユミ……あ、ウチの嫁さんなんですけどね、夜勤から帰ってきたら紹介しますわ! 今夜は歓迎会やな!」
大喜びするレイの横で、アヤノが、
「わぁい! お姉ちゃんたち、ずっと一緒におってくれるん!?」
と目を輝かせ、シオリも安心したようにミーフェイの仙衣の裾をそっと握りしめた。
「ひゃっ!? な、なによ、服を引っ張らないでよ……っ! ……もう、離しなさいってば……減るもんじゃないけどさぁ……」
ミーフェイは真っ赤になって怒ったふりをしながらも、邪険に払うことはせず、おずおずとシオリの頭にぎこちなく手を添えて撫でていた。
こうして、世界を白紙に戻すはずだった東西の最高峰女神による、四畳半の極貧居候生活の幕が切って落とされたのである。
人類滅亡のタイムリミットは、確実に、そして極めて平和に先送りされていた。




