第七夜「人魚の声」
水だった。
雨のあとには、
いつも水が残る。
花街の奥、
使われなくなった水路。
そこだけ、
夜が沈んでいる。
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「……また、呼んでいる」
胡蝶が言った。
獏は眉をひそめる。
「何がだ」
胡蝶は、
水路の方を見ていた。
「声でありんす」
水の底から、
女の声がする。
歌のように。
祈りのように。
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「人魚が出るらしい」
紅が言ったのは、
その日の昼だった。
赤い傘はない。
代わりに、
濡れた髪だけが揺れていた。
「聞こえた人は、
皆、水に連れていかれるんですって」
胡蝶は目を細める。
「夢ではなく?」
紅は笑う。
「現実よ」
「あなたの嫌いなやつ」
その言葉に、
胡蝶は何も返さなかった。
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夜。
水路は、
月を飲んでいた。
胡蝶は一歩、
水際へ近づく。
獏が低く唸る。
「行くな」
「声が」
胡蝶は、
ぽつりと呟く。
「泣いておりんす」
水の中。
女がいる。
長い髪。
白い腕。
唇だけが、
やけに鮮やかだった。
歌うように、
何かを呼んでいる。
「……助けて」
その声で、
空気が変わった。
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暁が走ってくる。
「胡蝶!」
だが、
もう遅い。
水が揺れる。
波紋が広がる。
声が増える。
「助けて」
「ここにいる」
「見つけて」
獏が舌打ちする。
「やべぇな、これ」
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胡蝶は、
水の中を見ていた。
そこには。
何人もの“誰か”がいた。
沈んだ女たち。
忘れられた声。
届かなかった願い。
獏が気づく。
「これ……人魚じゃねぇ」
暁が息を呑む。
「夢だ」
「沈んだ夢が、
声になってる」
水が揺れる。
声が重なる。
甘くなる。
優しくなる。
逃げられないほどに。
⸻
「胡蝶」
獏が叫ぶ。
「喰えねぇぞ、これ」
胡蝶は、
静かに目を閉じる。
「分かっておりんす」
それでも。
一歩、踏み出す。
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水の中。
音が消える。
世界が反転する。
白い蝶が、
ゆっくり沈んでいく。
そこにいたのは、
人魚ではなかった。
声だった。
「ここにいるよ」
「見て」
「忘れないで」
胡蝶は、
その中心に立つ。
そして、
そっと言う。
「もう、呼ばなくてよいでありんす」
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一瞬。
水が止まる。
声が止まる。
沈黙が落ちる。
そして。
静かに、
泣く音だけが残る。
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朝。
水路は、
ただの水だった。
何もなかったように。
暁は胡蝶を見る。
「……無茶をするな」
胡蝶は微笑む。
「助けてなどおりんせん」
獏が目を細める。
「じゃあ何だ」
胡蝶は、
少しだけ遠くを見る。
「聞いておりんした」
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その夜。
紅い傘はなかった。
代わりに、
どこかでまた声がした。
水の底で。
誰にも届かない声が。
そして胡蝶は、
静かに耳を塞がなかった。




