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胡蝶の夢  作者: 夜半堂
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9/13

第七夜「人魚の声」

水だった。


雨のあとには、

いつも水が残る。


花街の奥、

使われなくなった水路。


そこだけ、

夜が沈んでいる。



「……また、呼んでいる」


胡蝶が言った。


獏は眉をひそめる。


「何がだ」


胡蝶は、

水路の方を見ていた。


「声でありんす」


水の底から、

女の声がする。


歌のように。


祈りのように。



「人魚が出るらしい」


紅が言ったのは、

その日の昼だった。


赤い傘はない。


代わりに、

濡れた髪だけが揺れていた。


「聞こえた人は、

皆、水に連れていかれるんですって」


胡蝶は目を細める。


「夢ではなく?」


紅は笑う。


「現実よ」


「あなたの嫌いなやつ」


その言葉に、

胡蝶は何も返さなかった。



夜。


水路は、

月を飲んでいた。


胡蝶は一歩、

水際へ近づく。


獏が低く唸る。


「行くな」


「声が」


胡蝶は、

ぽつりと呟く。


「泣いておりんす」


水の中。


女がいる。


長い髪。


白い腕。


唇だけが、

やけに鮮やかだった。


歌うように、

何かを呼んでいる。


「……助けて」


その声で、

空気が変わった。



暁が走ってくる。


「胡蝶!」


だが、

もう遅い。


水が揺れる。


波紋が広がる。


声が増える。


「助けて」


「ここにいる」


「見つけて」


獏が舌打ちする。


「やべぇな、これ」



胡蝶は、

水の中を見ていた。


そこには。


何人もの“誰か”がいた。


沈んだ女たち。


忘れられた声。


届かなかった願い。


獏が気づく。


「これ……人魚じゃねぇ」


暁が息を呑む。


「夢だ」


「沈んだ夢が、

声になってる」


水が揺れる。


声が重なる。


甘くなる。


優しくなる。


逃げられないほどに。



「胡蝶」


獏が叫ぶ。


「喰えねぇぞ、これ」


胡蝶は、

静かに目を閉じる。


「分かっておりんす」


それでも。


一歩、踏み出す。



水の中。


音が消える。


世界が反転する。


白い蝶が、

ゆっくり沈んでいく。


そこにいたのは、

人魚ではなかった。


声だった。


「ここにいるよ」


「見て」


「忘れないで」


胡蝶は、

その中心に立つ。


そして、

そっと言う。


「もう、呼ばなくてよいでありんす」



一瞬。


水が止まる。


声が止まる。


沈黙が落ちる。


そして。


静かに、

泣く音だけが残る。



朝。


水路は、

ただの水だった。


何もなかったように。


暁は胡蝶を見る。


「……無茶をするな」


胡蝶は微笑む。


「助けてなどおりんせん」


獏が目を細める。


「じゃあ何だ」


胡蝶は、

少しだけ遠くを見る。


「聞いておりんした」



その夜。


紅い傘はなかった。


代わりに、

どこかでまた声がした。


水の底で。


誰にも届かない声が。


そして胡蝶は、

静かに耳を塞がなかった。

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