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胡蝶の夢  作者: 夜半堂
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8/13

第六夜「赤い傘」

雨だった。


雪の次は、

いつも雨だ。


花街の灯りが、

水に滲む。


赤が、溶ける。



「……また、あの女が来ておりんす」


誰かが言った。


胡蝶は、鏡の前で髪を整えていた。


振り返らない。


「誰のことでありんすか」


答えは、すぐ背後から落ちた。


「私のことよ」


障子が、音もなく開く。


赤。


それだけで、

部屋の空気が変わった。


紅い傘。


濡れた黒髪。


唇だけが、

やけに鮮やかだった。


くれないが立っていた。


「胡蝶」


その呼び方は、

甘くもなく、優しくもない。


ただの刃だった。



「また“夢喰いごっこ”?」


紅は笑う。


胡蝶は、ようやく振り返る。


「遊びではありんせん」


「そう?」


紅は傘を閉じる。


ぽた、と雫が落ちた。


「でもあなた、

いつも綺麗なものしか救わないじゃない」


沈黙。


獏が、奥で舌打ちする。


「……用件だけ言え」


紅は獏を見て、

少しだけ目を細めた。


「相変わらずね、獏」


そして、胡蝶へ。


「最近、客が減ってるの」


「…………」


「“白椿太夫”の話、聞いた?」


その名で、

空気が一度止まる。


胡蝶は、瞬きをしない。


紅は続ける。


「顔を失った女に、

誰が金を払うと思う?」


静かだった。


静かすぎて、

雨の音だけが響く。


紅は笑う。


「ねえ胡蝶」


「あなたもいつか、

“落ちる側”になるのよ」



胡蝶は、紅を見ていた。


その目は、

怒りでも悲しみでもない。


ただ、観察だった。


「紅」


静かな声。


「何を恐れておりんすか」


紅の眉が動く。


胡蝶は続ける。


「強い言葉ほど、

弱さの裏返しでありんす」


紅が、笑う。


けれどその笑いは、

少しだけ揺れた。


「……うるさいわね」


紅は傘を開く。


赤が、再び広がる。


「あなたみたいに、

壊れたまま綺麗でいられないのよ」


その一言だけが、

妙に湿っていた。



紅が去ったあと。


雨はさらに強くなった。


獏が呟く。


「面倒なのに絡まれてんな」


胡蝶は窓の外を見ていた。


「紅は」


「ん?」


「昔は、優しかったのでありんす」


獏は黙る。


胡蝶は少しだけ目を細める。


「人は、

優しさを捨てるほど強くなるのでしょうか」


獏は答えない。


答えられない。



その夜。


紅は一人で傘を持っていた。


雨の中。


赤い傘だけが、

やけに目立つ。


彼女は空を見上げる。


「……胡蝶」


誰にも届かない声。


「あなたが一番、

ずるいのよ」


雨が、落ちる。


赤い傘を叩く音だけが、

やけに優しかった。


そしてその夜。


花街のどこかで、

またひとつ夢が歪み始めていた。

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