第六夜「赤い傘」
雨だった。
雪の次は、
いつも雨だ。
花街の灯りが、
水に滲む。
赤が、溶ける。
⸻
「……また、あの女が来ておりんす」
誰かが言った。
胡蝶は、鏡の前で髪を整えていた。
振り返らない。
「誰のことでありんすか」
答えは、すぐ背後から落ちた。
「私のことよ」
障子が、音もなく開く。
赤。
それだけで、
部屋の空気が変わった。
紅い傘。
濡れた黒髪。
唇だけが、
やけに鮮やかだった。
紅が立っていた。
「胡蝶」
その呼び方は、
甘くもなく、優しくもない。
ただの刃だった。
⸻
「また“夢喰いごっこ”?」
紅は笑う。
胡蝶は、ようやく振り返る。
「遊びではありんせん」
「そう?」
紅は傘を閉じる。
ぽた、と雫が落ちた。
「でもあなた、
いつも綺麗なものしか救わないじゃない」
沈黙。
獏が、奥で舌打ちする。
「……用件だけ言え」
紅は獏を見て、
少しだけ目を細めた。
「相変わらずね、獏」
そして、胡蝶へ。
「最近、客が減ってるの」
「…………」
「“白椿太夫”の話、聞いた?」
その名で、
空気が一度止まる。
胡蝶は、瞬きをしない。
紅は続ける。
「顔を失った女に、
誰が金を払うと思う?」
静かだった。
静かすぎて、
雨の音だけが響く。
紅は笑う。
「ねえ胡蝶」
「あなたもいつか、
“落ちる側”になるのよ」
⸻
胡蝶は、紅を見ていた。
その目は、
怒りでも悲しみでもない。
ただ、観察だった。
「紅」
静かな声。
「何を恐れておりんすか」
紅の眉が動く。
胡蝶は続ける。
「強い言葉ほど、
弱さの裏返しでありんす」
紅が、笑う。
けれどその笑いは、
少しだけ揺れた。
「……うるさいわね」
紅は傘を開く。
赤が、再び広がる。
「あなたみたいに、
壊れたまま綺麗でいられないのよ」
その一言だけが、
妙に湿っていた。
⸻
紅が去ったあと。
雨はさらに強くなった。
獏が呟く。
「面倒なのに絡まれてんな」
胡蝶は窓の外を見ていた。
「紅は」
「ん?」
「昔は、優しかったのでありんす」
獏は黙る。
胡蝶は少しだけ目を細める。
「人は、
優しさを捨てるほど強くなるのでしょうか」
獏は答えない。
答えられない。
⸻
その夜。
紅は一人で傘を持っていた。
雨の中。
赤い傘だけが、
やけに目立つ。
彼女は空を見上げる。
「……胡蝶」
誰にも届かない声。
「あなたが一番、
ずるいのよ」
雨が、落ちる。
赤い傘を叩く音だけが、
やけに優しかった。
そしてその夜。
花街のどこかで、
またひとつ夢が歪み始めていた。




