第五夜「白椿」
雪だった。
音のない夜。
白だけが、花街を埋めていく。
胡蝶は欄干にもたれ、ぼんやり空を見ていた。
白い息が溶ける。
「雪は好きでありんす」
胡蝶が言う。
獏は眉を寄せた。
「……意外だな」
胡蝶は降り続く白を見上げる。
「雪の日は、皆、静かになるので」
白い息が、夜へ消えていく。
「泣き声も、隠してくれんす」
獏が黙る。
胡蝶は小さく笑った。
「優しいのでありんすよ。雪は」
その横顔を見て、獏は目を細める。
優しいものほど、こいつを傷付けてきた。
雪も。
夢も。
人も。
獏は煙管を奪い、短く息を吐いた。
「……風邪引くぞ」
胡蝶がくすりと笑う。
けれどその目は、どこか遠かった。
⸻
その女が来たのは、
雪が深くなった頃だった。
足音がしない。
まるで亡霊みたいに、
女は立っていた。
深い白布。
俯いた顔。
けれど。
隠していても分かる。
昔、
相当美しかった女だ。
「……胡蝶花魁」
掠れた声。
「夢を喰うと聞きました」
獏が僅かに眉を寄せる。
胡蝶は女を見る。
「どんな夢でありんす?」
沈黙。
やがて女は、
細い声で言った。
「鏡の夢」
その瞬間。
獏の耳がぴくりと動く。
胡蝶だけが、
静かに微笑んでいた。
「お名前を」
女は少し迷ってから答える。
「……冬乃」
雪が、
しんしんと降っていた。
⸻
部屋へ通されたあとも、
冬乃は布を外さなかった。
細い指だけが見える。
白く、
傷だらけの指。
胡蝶は煙管を置く。
「顔を隠すのは、
恥じているからでありんすか」
冬乃の肩が揺れる。
「……見れば分かります」
静かな声だった。
「皆、
同じ顔をするので」
獏が黙る。
冬乃は、
ゆっくり白布へ触れた。
少しだけ覗く。
焼け爛れた皮膚。
潰れた片目。
火傷の痕。
けれど反対側だけは、
今も恐ろしいほど綺麗だった。
雪みたいに。
「昔は、
白椿太夫と呼ばれていました」
冬乃が笑う。
壊れたみたいに。
「綺麗だと、
皆が言いました」
「…………」
「でも、燃えたら終わりでした」
部屋が静まる。
遠くで三味線の音がした。
冬乃がぽつりと呟く。
「顔を焼いてから、
誰も名前を呼ばなくなった」
その声だけが、
やけに小さかった。
⸻
その夜。
冬乃は夢を見る。
暗い部屋。
大きな鏡。
そこには、
昔の冬乃がいた。
白い肌。
紅を引いた唇。
何も失っていない頃の顔。
鏡の中の女が笑う。
『――お前は誰?』
冬乃が震える。
『そんな顔で、
まだ生きているの?』
逃げようとしても、
身体が動かない。
鏡の女が近付く。
『醜い』
『可哀想』
『価値のない女』
冬乃が、
小さく息を漏らす。
その時。
鏡へ、
白い蝶が止まった。
ひびが入る。
ぱきり、と。
夢の奥で、
胡蝶が立っていた。
淡い灯りの中。
静かな顔で。
「それは、
あなたの声でありんせん」
冬乃が、
ゆっくり顔を上げる。
胡蝶は鏡へ触れる。
「傷より先に、
心を焼かれてしまったのでありんしょう」
鏡の中の女が嗤う。
けれど。
胡蝶は、
その顔を静かに見つめ返した。
「この街は、
美しい花しか愛しんせん」
白い蝶が舞う。
「散った花は、
土にもなれない」
冬乃の目から、
涙が落ちた。
夢の中なのに、
酷く熱かった。
⸻
朝。
雪はまだ降っていた。
冬乃は、
ぼんやり庭を見ている。
胡蝶が隣へ座る。
しばらく、
何も言わない。
やがて。
胡蝶が小さく呟く。
「白椿は、
花びらを散らしんせん」
冬乃が振り向く。
「首ごと落ちる花でありんす」
静かな声だった。
「美しいまま、
終わるために」
冬乃の唇が震える。
胡蝶は空を見る。
降り続く雪。
白い世界。
「……けれど」
白い蝶が舞った。
「落ちても尚、
花は花でありんすよ」




