第四夜「喰われぬ悪夢」
夜半。
胡蝶が倒れた。
花街が静まり返る。
いつも微笑みを絶やさぬ花魁が、
初めて見せた苦悶の表情に、
誰もが息を呑んだ。
障子の向こうでは、
雨が降っている。
胡蝶は熱に魘されながら、
何度も小さく呟いていた。
「……やめて」
獏が、
苛立ったように舌打ちする。
「くそ……っ」
暁は胡蝶の額へ濡れ布を当てながら、
険しい顔で問う。
「何が見えてる」
獏は答えない。
ただ、
胡蝶の震える手を見つめていた。
やがて。
胡蝶が、
苦しそうに息を漏らす。
「……いや」
「ごめんなさい」
その瞬間。
暁の表情が変わった。
まるで、
誰かへ怯える子どもの声だった。
⸻
夢だった。
冷たい雪の夜。
小さな女の子が、
薄暗い部屋で膝を抱えている。
腹が空いていた。
寒かった。
けれど泣かなかった。
泣けば殴られるから。
障子の向こうで、
大人の声がする。
「こんなガキ、
どうせ売るしかない」
女の子は、
じっと膝を抱えていた。
まるで。
自分が物ではないと、
信じないように。
⸻
胡蝶の身体が震える。
獏が低く唸った。
「見るな」
だが暁は、
目を逸らさなかった。
夢が続く。
小さな手。
割れた茶碗。
赤く腫れた頬。
閉じ込められた暗い部屋。
そして。
「期待するな」
誰かの声。
「愛されると思うな」
小さな胡蝶は、
静かに頷いていた。
泣きもしない。
まるで最初から、
諦めていたみたいに。
暁が、
拳を強く握る。
「……どうして」
声が震える。
「どうして誰も、
この人を助けなかった」
獏は、
静かに目を伏せた。
「助からなかったんだよ」
雨音が強くなる。
夢の中で。
幼い胡蝶は、
雪の中へ捨てられていた。
凍えながら、
それでも声を上げない。
その時。
闇の奥で、
何かが目を開く。
獏だった。
巨大な影。
悪夢を喰らう怪異。
普通なら、
そこで終わる。
悪夢は喰われ、
朝が来る。
けれど。
獏は動かなかった。
いや。
動けなかった。
暁が低く問う。
「……何故だ」
獏は、
苦しそうに吐き捨てた。
「喰えねぇんだよ」
空気が凍る。
獏は、
胡蝶を睨みながら言う。
「こいつ、
手放す気がねぇから」
夢が揺れる。
幼い胡蝶が、
暗闇の中で膝を抱えている。
独りだった。
ずっと。
誰も来ない。
誰も抱きしめない。
誰も、
「生きていい」と言わない。
その時。
白い蝶が舞う。
現在の胡蝶が、
静かに歩み寄っていた。
幼い胡蝶が顔を上げる。
幼い声で呟く。
「痛いの」
胡蝶は頷く。
「ええ」
「苦しいの」
「ええ」
「寂しいの」
その瞬間だけ。
胡蝶の瞳が、
泣きそうに揺れた。
けれど。
彼女は、
幼い自分へ微笑んだ。
「大丈夫ですよ」
優しい声だった。
あまりにも優しくて。
獏は顔を歪める。
暁は、
ただ息を呑む。
幼い胡蝶が、
そっと胡蝶の袖を掴む。
「……ほんとう?」
胡蝶は、
静かに頷いた。
白い蝶が、
雪空へ舞い上がる。
夢が、
ゆっくり崩れていく。
⸻
朝。
胡蝶は静かに目を開けた。
まるで何事もなかったように、
微笑む。
「ご心配をおかけしました」
暁が、
初めて怒った顔をする。
「笑うな」
部屋が静まる。
胡蝶は少しだけ目を丸くした。
暁は震える声で言う。
「そんな顔で、
大丈夫だと言うな」
胡蝶は、
何も答えなかった。
獏は黙ったまま、
窓の外を見る。
雨は止んでいた。
⸻
その夜。
胡蝶はひとり、
鏡の前へ座っていた。
薄暗い部屋。
揺れる灯り。
鏡の中。
一瞬だけ。
幼い胡蝶が映る。
痩せ細った、
小さな少女。
胡蝶は、
静かに目を伏せた。
「人は皆、
夢から覚めるのが怖いのです」
けれど。
その声は今までで一番、
寂しそうだった。
白い蝶が、
音もなく舞っていた。




