第三夜「忘れ雪」
雪だった。
音もなく降り積もる白が、
花街の灯りを淡く霞ませている。
胡蝶は縁側へ座り、
静かに雪を眺めていた。
白い息が、
夜へ溶ける。
その時。
店の戸が、
ゆっくり開いた。
入ってきた男は、
雪の中を長く歩いてきたのだろう。
肩へ雪を積もらせたまま、
どこか呆然と立ち尽くしていた。
胡蝶は静かに微笑む。
「さあ、今宵はどなたがおいでなんし」
男は、
少しだけ苦しそうに目を伏せた。
「……人を、
忘れたい」
獏が、
奥でゆっくり目を開く。
けれど胡蝶は、
ただ静かに茶を差し出した。
「大切な方だったのですね」
男は、
小さく笑った。
壊れそうな笑みだった。
⸻
男は、
雪山で倒れていた。
吹雪の夜。
もう駄目だと思った時。
ひとりの女が現れた。
白い髪。
透けるような肌。
雪より冷たい指。
そして、
泣きたくなるほど優しい目。
「死んではなりません」
それが、
最初だった。
女は雪女だった。
雪女
本来なら、
人を愛してはならない怪異。
けれど彼女は、
男を見捨てられなかった。
春を知った。
夏を知った。
温かな食事を知った。
笑うことを知った。
恋を知った。
男は語る。
「あいつ、
桜を見て泣いてたんだ」
どうして泣くのかと尋ねたら、
雪女は困ったように笑った。
『こんなに温かいもの、
知らなかったから』
男の声が震える。
「……幸せだった」
胡蝶は、
静かに目を伏せた。
けれど。
幸せは、
長く続かなかった。
雪女は、
人の世に長く留まれない。
春が近づくほど、
身体が薄れていった。
最初は指先。
次は髪。
やがて。
触れれば、
雪のように溶けるほどに。
最後の夜。
雪女は、
男へ言った。
『忘れてください』
男は首を振った。
何度も。
何度も。
「嫌だ」
「忘れられるわけがない」
雪女は泣きそうに笑った。
そして。
朝には、
消えていた。
白い雪だけを残して。
⸻
男は、
それから毎夜夢を見る。
吹雪の中。
雪女が、
ひとりで泣いている夢。
呼んでも届かない。
手を伸ばしても、
触れられない。
目覚めるたび、
胸が引き裂かれそうになる。
男は俯いた。
「もう苦しいんだ」
「なのに……」
「忘れたら、
本当にあいつが消える気がして」
その声は、
子どものようだった。
胡蝶は、
静かに雪を見つめる。
「雪は、
春になれば溶けます」
男が顔を上げる。
胡蝶は続けた。
「けれど」
「降ったことまで、
消えるわけではありません」
部屋が静まり返る。
獏が、
ゆっくり立ち上がった。
「……今回は、
喰い切れねぇぞ」
珍しく、
苦しそうな声だった。
胡蝶は頷く。
「ええ」
「これは悪夢ではなく、
愛した記憶ですから」
⸻
その夜。
男は夢を見る。
白い世界だった。
果てのない雪原。
吹雪の向こうで、
ひとりの女が立っている。
雪女だった。
あの日のまま、
静かに笑っている。
男は駆け出した。
「待ってくれ!」
雪を掻き分け、
手を伸ばす。
けれど。
触れる寸前。
雪女は、
優しく微笑んだ。
『ようやく、
春が来ますね』
男の目から、
涙が溢れる。
雪女の身体が、
白く崩れていく。
雪になる。
光になる。
春風に溶ける。
男は叫ぶ。
けれどもう、
届かない。
ただ。
最後にひとひら、
白い雪だけが掌へ落ちた。
⸻
春。
雪解け道を、
男は歩いていた。
もう夢は見ない。
胸の痛みも、
少しだけ遠くなった。
けれど。
桜が舞う空から。
ひとひらだけ、
雪が落ちる。
男は立ち止まった。
空を見上げる。
そして、
泣きながら笑った。
「……忘れてなんか、
やれるか」
風が吹く。
白い蝶が、
春空へ舞っていった。
⸻
その夜。
縁側で雪を見ていた胡蝶へ、
獏がぽつりと呟く。
「お前、
ああいう話弱いよな」
胡蝶は少し驚き、
やがて小さく微笑んだ。
「……そうかもしれません」
けれどその横顔は、
どこか寂しそうだった。
雪はもう、
降っていなかった。




