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胡蝶の夢  作者: 夜半堂
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5/13

第三夜「忘れ雪」

雪だった。


音もなく降り積もる白が、

花街の灯りを淡く霞ませている。


胡蝶は縁側へ座り、

静かに雪を眺めていた。


白い息が、

夜へ溶ける。


その時。


店の戸が、

ゆっくり開いた。


入ってきた男は、

雪の中を長く歩いてきたのだろう。


肩へ雪を積もらせたまま、

どこか呆然と立ち尽くしていた。


胡蝶は静かに微笑む。


「さあ、今宵はどなたがおいでなんし」


男は、

少しだけ苦しそうに目を伏せた。


「……人を、

忘れたい」


獏が、

奥でゆっくり目を開く。


けれど胡蝶は、

ただ静かに茶を差し出した。


「大切な方だったのですね」


男は、

小さく笑った。


壊れそうな笑みだった。



男は、

雪山で倒れていた。


吹雪の夜。


もう駄目だと思った時。


ひとりの女が現れた。


白い髪。


透けるような肌。


雪より冷たい指。


そして、

泣きたくなるほど優しい目。


「死んではなりません」


それが、

最初だった。


女は雪女だった。


雪女


本来なら、

人を愛してはならない怪異。


けれど彼女は、

男を見捨てられなかった。


春を知った。


夏を知った。


温かな食事を知った。


笑うことを知った。


恋を知った。


男は語る。


「あいつ、

桜を見て泣いてたんだ」


どうして泣くのかと尋ねたら、

雪女は困ったように笑った。


『こんなに温かいもの、

知らなかったから』


男の声が震える。


「……幸せだった」


胡蝶は、

静かに目を伏せた。


けれど。


幸せは、

長く続かなかった。


雪女は、

人の世に長く留まれない。


春が近づくほど、

身体が薄れていった。


最初は指先。


次は髪。


やがて。


触れれば、

雪のように溶けるほどに。


最後の夜。


雪女は、

男へ言った。


『忘れてください』


男は首を振った。


何度も。


何度も。


「嫌だ」


「忘れられるわけがない」


雪女は泣きそうに笑った。


そして。


朝には、

消えていた。


白い雪だけを残して。



男は、

それから毎夜夢を見る。


吹雪の中。


雪女が、

ひとりで泣いている夢。


呼んでも届かない。


手を伸ばしても、

触れられない。


目覚めるたび、

胸が引き裂かれそうになる。


男は俯いた。


「もう苦しいんだ」


「なのに……」


「忘れたら、

本当にあいつが消える気がして」


その声は、

子どものようだった。


胡蝶は、

静かに雪を見つめる。


「雪は、

春になれば溶けます」


男が顔を上げる。


胡蝶は続けた。


「けれど」


「降ったことまで、

消えるわけではありません」


部屋が静まり返る。


獏が、

ゆっくり立ち上がった。


「……今回は、

喰い切れねぇぞ」


珍しく、

苦しそうな声だった。


胡蝶は頷く。


「ええ」


「これは悪夢ではなく、

愛した記憶ですから」



その夜。


男は夢を見る。


白い世界だった。


果てのない雪原。


吹雪の向こうで、

ひとりの女が立っている。


雪女だった。


あの日のまま、

静かに笑っている。


男は駆け出した。


「待ってくれ!」


雪を掻き分け、

手を伸ばす。


けれど。


触れる寸前。


雪女は、

優しく微笑んだ。


『ようやく、

春が来ますね』


男の目から、

涙が溢れる。


雪女の身体が、

白く崩れていく。


雪になる。


光になる。


春風に溶ける。


男は叫ぶ。


けれどもう、

届かない。


ただ。


最後にひとひら、

白い雪だけが掌へ落ちた。



春。


雪解け道を、

男は歩いていた。


もう夢は見ない。


胸の痛みも、

少しだけ遠くなった。


けれど。


桜が舞う空から。


ひとひらだけ、

雪が落ちる。


男は立ち止まった。


空を見上げる。


そして、

泣きながら笑った。


「……忘れてなんか、

やれるか」


風が吹く。


白い蝶が、

春空へ舞っていった。



その夜。


縁側で雪を見ていた胡蝶へ、

獏がぽつりと呟く。


「お前、

ああいう話弱いよな」


胡蝶は少し驚き、

やがて小さく微笑んだ。


「……そうかもしれません」


けれどその横顔は、

どこか寂しそうだった。


雪はもう、

降っていなかった。

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