第二夜「鬼の涙」
山から、
泣き声が聞こえるという。
雨の夜だけ。
獣のような、
子どものような、
男のような声で。
それを聞いた者は、
皆こう囁いた。
「鬼が出る」
花街でも、
その噂は広がっていた。
人喰い鬼。
子を攫う怪異。
山へ入れば喰われると、
大人たちは子どもへ言い聞かせる。
けれど。
胡蝶は、
静かに茶を注ぎながら呟いた。
「……随分、悲しそうな声でした」
獏が鼻を鳴らす。
「怪異に情けかけるなよ」
その時。
店の戸が、
重く開いた。
冷たい風が吹き込む。
立っていたのは、
大柄な男だった。
深く笠を被り、
顔の半分を隠している。
けれど。
隠しきれなかった。
額から覗く、
赤い角が。
獏が鋭く目を細める。
「……鬼か」
男の肩が震えた。
まるで、
その言葉に傷ついたように。
胡蝶は、
何も言わなかった。
ただ静かに座布団を差し出す。
「さあ、今宵はどなたがおいでなんし」
鬼は、
ゆっくりと腰を下ろした。
⸻
男は、
長い間口を開かなかった。
ただ、
強く拳を握っていた。
やがて。
ぽつりと呟く。
「……俺は」
「生まれてこない方が、
良かったのか」
雨音が響く。
胡蝶は急かさない。
鬼は、
途切れ途切れに語り始めた。
山奥で、
ひっそり暮らしていたこと。
村へは近づかぬよう、
ずっと隠れて生きてきたこと。
それでも冬になると、
飢えた子どもたちがいたこと。
だから夜中、
誰にも見つからぬよう、
食べ物を置いて帰っていたこと。
「泣いてる子が、
嫌だっただけだ」
鬼は笑った。
不器用な、
諦めたような笑みだった。
けれどある夜。
子どもに見られた。
赤い角を。
化け物を見るような目を。
翌日から、
村人たちは石を投げた。
「鬼だ」
「災いを呼ぶ」
「子どもを攫うぞ」
鬼は、
逃げるしかなかった。
それでも。
山へ迷い込んだ子どもたちを、
放っておけなかった。
獣から守り、
洞窟へ隠し、
夜明け前に返した。
だが村人たちは、
さらに鬼を恐れた。
「子を攫う鬼だ」
鬼は俯く。
大きな拳が、
震えていた。
「俺は……」
「どうすれば良かった」
胡蝶は、
静かに鬼を見つめる。
「優しかったのでしょうね」
鬼は目を見開いた。
まるで、
そんな言葉を向けられるとは、
思っていなかったように。
その時。
帳の奥から、
低い声が響く。
「……お前、
青鬼を知らねぇか」
獏だった。
鬼の顔色が変わる。
「知ってる……」
「俺の、友だ」
青鬼。
唯一、
鬼へ笑いかけてくれた存在。
けれどある日、
突然姿を消した。
鬼はずっと、
自分を見捨てたのだと思っていた。
すると。
部屋の隅で黙っていた夜叉が、
静かに口を開く。
「……違う」
空気が張り詰める。
夜叉は、
感情を押し殺した声で続けた。
「村人から、
お前を庇った」
鬼が息を呑む。
「青鬼は、
わざと暴れた」
「“悪い鬼”を演じて、
村の目を引いた」
そうすれば、
赤鬼だけは逃げられると思った。
夜叉は目を伏せる。
「……討たれたよ」
沈黙。
雨音だけが、
静かに響いていた。
鬼は、
何も言わない。
ただ。
ぽたり、と。
畳へ雫が落ちた。
涙だった。
鬼は、
まるで壊れた子どものように、
声を殺して泣いた。
「なんでだよ……」
「なんで、
あいつが……」
胡蝶は、
静かに鬼へ近づく。
白い蝶が舞う。
「涙を流せるのなら」
「あなたは、
優しい方です」
鬼は首を振った。
泣きながら、
笑う。
「……鬼だよ」
「俺は、鬼だ」
胡蝶は、
そっと鈴守りを差し出した。
淡い青色の糸が結ばれている。
「なら」
「せめて、
独りになりませんように」
鬼は、
震える手でそれを受け取った。
⸻
春。
山には花が咲いていた。
村の子どもたちが、
小さな花束を置いていく。
「優しい鬼さんへ」
誰かが、
真実を話したのだろう。
遠くの木陰から、
赤鬼はそれを見ていた。
隣には、
胡蝶から貰った鈴守り。
風が吹く。
その音に混じって。
どこか懐かしい笑い声が、
聞こえた気がした。
鬼は空を見上げる。
青い蝶が、
春空へ舞っていた。
⸻
その夜。
胡蝶は縁側で、
静かに月を見ていた。
獏が隣へ座る。
「……また泣かせたな」
胡蝶は、
ふっと微笑む。
「涙は、
心が生きている証ですから」
夜風が吹く。
白い蝶が、
静かに舞っていた。




