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胡蝶の夢  作者: 夜半堂
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3/13

第一夜「母になる夢」

雨が降っていた。


花街の夜は、いつだって湿っている。


提灯の灯りが水面に揺れ、

遠くで三味線の音が滲む。


その夜、

胡蝶のもとへ現れた女は、

まるで幽鬼のようだった。


着物は濡れ、

抱いたままの小さな襦袢だけが、

ひどく丁寧に畳まれている。


胡蝶は静かに目を伏せた。


「……お寒かったでしょう」


女は答えない。


青白い唇を震わせながら、

ただ、ぽつりと呟いた。


「毎晩、泣くのです」


香炉の煙が揺れる。


帳の奥で、

獏がゆっくりと目を開けた。


「あの子が」


「私を呼ぶのです」


胡蝶は急かさない。


問い質さない。


ただ、

女の言葉を待っていた。


やがて女は、

壊れたように笑った。


「産んであげられなかったのに」


その瞬間。


部屋の温度が、

すっと下がる。


障子の向こうで、

誰かが小さく笑った気がした。


獏が低く唸る。


「……来てるな」


女の肩が跳ねた。


「違うのです……!」


「優しい子なんです……!」


「あの子は、ずっと……っ」


言葉が崩れる。


涙が落ちる。


胡蝶は、

静かに女の前へ座った。


白い蝶が一羽、

ふわりと舞い降りる。


「忘れたいのですか」


女は息を呑んだ。


忘れたい。


眠れぬ夜も。


耳にこびりつく泣き声も。


“自分が母になれなかった”という痛みも。


けれど。


女は顔を覆い、

子どもの襦袢を抱き締めた。


「……でも」


「忘れたく、ない……!」


雨音だけが響く。


胡蝶は、

泣き崩れる女を見つめながら、

静かに目を伏せた。


「そうでしょうね」


優しい声だった。


あまりにも優しくて、

女は余計に泣いた。


やがて胡蝶は、

帳の奥へ視線を向ける。


獏が舌打ちした。


「またお前は……」


胡蝶は微笑む。


「お願いできますか、獏」


沈黙。


やがて獏は、

諦めたように立ち上がった。


灯りが消える。


闇が満ちる。


障子の向こうで、

獣の影が蠢いた。


その瞬間。


遠くで、

幼子の笑い声が聞こえた気がした。


女が顔を上げる。


涙に滲む視界の先。


小さな影が、

胡蝶の後ろで微笑んでいる。


――おかあさん。


確かに、

そう聞こえた。


女が手を伸ばした瞬間。


白い蝶が舞う。


幼子の影は、

静かに夜へ溶けていった。


やがて。


朝が来る。


女は、

久しぶりに眠れた顔をしていた。


けれど。


帰り際、

女は不安そうに呟く。


「あの子の声が……」


「少し、思い出せないのです……」


胡蝶は、

小さな鈴守りを差し出した。


その中には、

淡い桜色の糸が結ばれている。


「思い出は、夢に喰われません」


女は震える手で、

それを受け取った。


胡蝶は続ける。


「痛みは、愛していた証です」


女は、

堪えていた涙を零した。


深く、

深く頭を下げる。


そして、

花街を去っていった。


静かになった部屋で、

獏がぼそりと呟く。


「……また背負ったな」


胡蝶は答えない。


ただ、

朝焼けを見つめていた。


白い蝶が、

ひらりと舞う。


その瞳は、

どこか寂しげだった。



数年後。


春の日。


ひとりの女が、

双子の手を引いて花街を訪れた。


蝶を追いかけ、

幼子たちが笑う。


その姿を見た瞬間。


女の頬を、

ひと筋の涙が伝った。


理由は分からない。


けれど確かに、

胸の奥が温かかった。


胡蝶は静かに微笑む。


「……良い夢を」


夜はまだ、

優しかった。

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