第一夜「母になる夢」
雨が降っていた。
花街の夜は、いつだって湿っている。
提灯の灯りが水面に揺れ、
遠くで三味線の音が滲む。
その夜、
胡蝶のもとへ現れた女は、
まるで幽鬼のようだった。
着物は濡れ、
抱いたままの小さな襦袢だけが、
ひどく丁寧に畳まれている。
胡蝶は静かに目を伏せた。
「……お寒かったでしょう」
女は答えない。
青白い唇を震わせながら、
ただ、ぽつりと呟いた。
「毎晩、泣くのです」
香炉の煙が揺れる。
帳の奥で、
獏がゆっくりと目を開けた。
「あの子が」
「私を呼ぶのです」
胡蝶は急かさない。
問い質さない。
ただ、
女の言葉を待っていた。
やがて女は、
壊れたように笑った。
「産んであげられなかったのに」
その瞬間。
部屋の温度が、
すっと下がる。
障子の向こうで、
誰かが小さく笑った気がした。
獏が低く唸る。
「……来てるな」
女の肩が跳ねた。
「違うのです……!」
「優しい子なんです……!」
「あの子は、ずっと……っ」
言葉が崩れる。
涙が落ちる。
胡蝶は、
静かに女の前へ座った。
白い蝶が一羽、
ふわりと舞い降りる。
「忘れたいのですか」
女は息を呑んだ。
忘れたい。
眠れぬ夜も。
耳にこびりつく泣き声も。
“自分が母になれなかった”という痛みも。
けれど。
女は顔を覆い、
子どもの襦袢を抱き締めた。
「……でも」
「忘れたく、ない……!」
雨音だけが響く。
胡蝶は、
泣き崩れる女を見つめながら、
静かに目を伏せた。
「そうでしょうね」
優しい声だった。
あまりにも優しくて、
女は余計に泣いた。
やがて胡蝶は、
帳の奥へ視線を向ける。
獏が舌打ちした。
「またお前は……」
胡蝶は微笑む。
「お願いできますか、獏」
沈黙。
やがて獏は、
諦めたように立ち上がった。
灯りが消える。
闇が満ちる。
障子の向こうで、
獣の影が蠢いた。
その瞬間。
遠くで、
幼子の笑い声が聞こえた気がした。
女が顔を上げる。
涙に滲む視界の先。
小さな影が、
胡蝶の後ろで微笑んでいる。
――おかあさん。
確かに、
そう聞こえた。
女が手を伸ばした瞬間。
白い蝶が舞う。
幼子の影は、
静かに夜へ溶けていった。
やがて。
朝が来る。
女は、
久しぶりに眠れた顔をしていた。
けれど。
帰り際、
女は不安そうに呟く。
「あの子の声が……」
「少し、思い出せないのです……」
胡蝶は、
小さな鈴守りを差し出した。
その中には、
淡い桜色の糸が結ばれている。
「思い出は、夢に喰われません」
女は震える手で、
それを受け取った。
胡蝶は続ける。
「痛みは、愛していた証です」
女は、
堪えていた涙を零した。
深く、
深く頭を下げる。
そして、
花街を去っていった。
静かになった部屋で、
獏がぼそりと呟く。
「……また背負ったな」
胡蝶は答えない。
ただ、
朝焼けを見つめていた。
白い蝶が、
ひらりと舞う。
その瞳は、
どこか寂しげだった。
⸻
数年後。
春の日。
ひとりの女が、
双子の手を引いて花街を訪れた。
蝶を追いかけ、
幼子たちが笑う。
その姿を見た瞬間。
女の頬を、
ひと筋の涙が伝った。
理由は分からない。
けれど確かに、
胸の奥が温かかった。
胡蝶は静かに微笑む。
「……良い夢を」
夜はまだ、
優しかった。




