常識人の頭痛(執事の苦労)
侯爵家に四十年間仕えてきた老執事ハンスは、引き出しから胃薬を取り出していた。
毎朝鏡を見て『私は狂っていない。狂っているのは世界だ』と呟くのが日課だったが、今朝の事態は彼の強靭な精神力をも限界へ追い込もうとしていた。
若い御者が、顔を真っ青にして執事室に飛び込んできた。
「ハ、ハンスさん……! 裏庭で、マリアンヌ様が、セレナお嬢様のアレクサンダー様と……がっちり連結(不倫)されています!」
ハンスはそっとこめかみを押し、無言で裏庭へと向かった。
そこでは、ギャーギャーと叫び合う2人と1頭と1台の修羅場が広がっていた。
「マリアンヌ! 君というものがありながら!」
「アレクサンダー、浮気よ!」
「勘違いしないでよエドワード!」
「君のために朝帰りしたんじゃない!」
「ブルルルル!(※乗れません)」
主人の叫び声、馬のいななき、車輪が激しくきしむ音が交錯する真ん中へ、ハンスはすっと背筋を伸ばして進み出た。
彼の目は完全に据わっていた。
「……皆様、恐れ入ります。お怒りはごもっともでございますが、マリアンヌ様の前車軸に過度な負荷がかかっております。また、アレクサンダー様の蹄が侯爵邸の芝生を荒らしておりますので、不倫の密会および口喧嘩は、一度ホワイトボードのある会議室へ場所を移されてはいかがでしょうか」
ハンスの放つガチの限界オーラに気圧され、人間2人と1頭と1台は、一瞬だけピタリと動きを止めた。




