背伸びをする魔物(ゴブリンチーフ)
あの日を境に、あいつはただのゴブリンではなく、明確に「ソードゴブリン」としての風格を纏うようになった。
体躯は人間の少年ほどになり、あの錆びた短剣を器用に腰に帯びている。だが、どれだけ強くなろうとも、川辺で女を待つときの姿勢は、以前と変わらず従順な犬のようだった。
俺はいつもの草むらに腰を下ろし、安酒の入った水筒を揺らしながら、その「変化」を観察していた。
「見て、今日はこれを買ってみたの。……少し、変かしら?」
女ははにかみながら、自分の髪を指差した。いつもは無造作に結ばれているだけの髪に、街の露店で買ったらしい、安物の赤いリボンが結ばれている。
「ギャウ……ギャギャ」
ゴブリンは、その赤いリボンをじっと見つめた。濁りの消えかけた黄色い瞳が、感嘆に揺れる。
あいつは大きな緑色の手を伸ばしかけ――しかし、自分の手が泥で汚れていることに気づき、慌てて後ろに引っ込めた。そして、近くの川の水で執拗に手を洗い、自分の服(といってもボロ布だが)で何度も拭いてから、もう一度手を伸ばした。
そっと、壊れ物に触れるように、女の髪のリボンを指先でなぞる。
「ふふ、ありがとう。あなたに可愛いって思ってもらいたくて」
女が嬉しそうに微笑み、ゴブリンの胸に顔を埋める。
ゴブリンは嬉しそうに喉を鳴らしたが、その表情には、どこか焦燥のようなものが見え隠れしていた。
あいつは、気づいたのだろう。自分がどれだけ強くなっても、人間の彼女とは「言葉」も違えば「教養」も違う。ただの魔物のままでは、彼女の隣に並ぶにはあまりにも醜く、野蛮であるということに。
逢瀬の後半、ゴブリンは奇妙な行動を始めた。
地面に落ちていた枝を拾うと、泥の上に不器用な線を書き殴り始めたのだ。
「ギャ、ギャウ。……あ、あ」
「え……? 今、真似しようとしたの?」
女が驚いて目を見開く。ゴブリンは必死に喉を震わせ、女がいつも使う言葉を真似ようとしていた。枝で泥に描いていたのは、女がいつも口にする挨拶の、音の波形をなぞろうとしたものだったのかもしれない。
さらにあいつは、自分が纏っているボロ布を、まるで人間の衣服のように、肩できちんと結び直そうと格闘し始めた。泥を払い、背筋を伸ばし、人間の「男」のように振る舞おうと必死に背伸びをしている。
(おいおい、まじかよ……)
草むらの中で、俺は呆れを通り越して、背筋がゾクリとするのを感じた。
魔物が人間の言葉を覚え、文化を真似る。それは通常、何百年も生きた高位の魔族がすることだ。しかし目の前のあいつは、ただ「彼女と対等に話したい」「ふさわしい男になりたい」という一念だけで、自らの魂を引き上げようとしていた。
バキバキ、と再びあいつの肉体が音を立てる。
背筋が伸び、骨格がさらに逞しく硬質化していく。肌の緑色は深い森の色へと変わり、その佇まいには、群れを率いる長としての気品すら漂い始めた。
**ゴブリンチーフ。**
戦場での殺戮ではなく、恋人への純粋な求愛の中で、あいつは二度目の進化を遂げた。
「……すごいのね、あなた。どんどん格好良くなっていくわ」
女は怯えるどころか、誇らしげにチーフとなったあいつの頬を撫でる。
あいつは嬉しそうに、しかし以前よりもずっと静かに、大人の男のような仕草で女の手を包み込んだ。
俺は水筒の酒を飲み干した。あいつの成長スピードは異常だ。だがそれ以上に、二人の間に流れる空気が、どんどん人間のそれよりも濃密で、気高いものに変わっていくのが、少しだけ恐ろしくもあった。




