命を賭した錆びた短剣
冷たい秋風が森の葉を揺らすようになっても、二人の逢瀬は途切れなかった。
むしろ、街での寒さが厳しくなるにつれ、女がこの川辺に求める温もりは深まっているようだった。ゴブリンもまた、彼女が来る時間に必ずそこにいて、不器用な優しさで彼女を迎え入れた。
俺はいつものように草むらに潜み、携帯水筒の安酒で喉を湿らせながら、その光景を眺めていた。
「ねえ、見て。今日はね、あなたのために少し良いパンを持ってきたの」
女は嬉しそうに、ギルドの厨房から融通してもらったらしい、少し白くて柔らかいパンを差し出した。
「ギャウ、ギャギャ!」
ゴブリンは跳びはねて喜び、それを大切そうに両手で受け取る。
だが、あいつはそれをすぐには口に運ばなかった。半分に綺麗にちぎると、より大きくて柔らかい方の半分を、優しく女の口元へと差し出したのだ。
「ふふ、私はいいのよ? あなたに食べてほしくて……ん」
女が断ろうとするのを遮るように、ゴブリンは強引にパンを押しつける。女は可笑しそうに笑うと、小さな口でそれを齧った。それを見届けたあいつは、ようやく残りの半分を、世界一美味なご馳走であるかのように、大事そうに咀嚼し始めた。
会話なんてなくても、分け合う仕草一つで、二人の間にある特別な絆が伝わってくる。
人の恋路にケチをつける趣味はない――そう改めて思った、まさにその時だった。
対岸の茂みが激しく揺れ、不吉な唸り声が響いた。
姿を現したのは、この森を縄張りとする野生の「牙狼」だ。飢えた獣の目は、完全に女を美味な獲物として捉えていた。
「ひっ……!」
女が悲鳴を上げ、その場にへたり込む。
俺が咄嗟に腰の剣に手をかけた瞬間、それよりも早く、小さな緑色の影が女の前に立ちはだかった。
「ギャギャァアアッ!」
それは、今まで俺が聞いたことのない、凄まじい威嚇の咆哮だった。
ゴブリンは、かつて人間が落としたものを拾ったのだろう、その細い腰に縄で縛り付けていた錆びた短剣を、サッと引き抜いた。あいつは、最初から彼女を守るための武器を携えていたのだ。
自分より遥かに巨大な牙狼に向かって、ゴブリンは躊躇なく突撃した。
体格差は圧倒的だ。ゴブリンの身体は狼の鋭い爪に裂かれ、緑色の血が飛び散る。それでもあいつは、絶対に後ろの女へ狼を近づけようとはしなかった。小さな短剣を必死に突き立て、泥臭く、命がけで立ち向かっていく。
(あいつ、死ぬ気か……!?)
俺が助けに入ろうと足に力を込めた、その時だった。
ゴブリンの傷口から、ドクドクと不気味な緑色の魔力が溢れ出し、その肉体を包み込んだ。
バキバキと骨が鳴る音が響く。
一回り大きく肥大化していく四肢。引き締まる筋肉。濁っていた黄色い瞳には、明確な「戦士の光」が宿っていく。あいつは戦いの中で、いや、「彼女を失いたくない」という極限の感情の中で、自らの限界を突破していた。
「ガァアアッ!」
進化したゴブリン――いや、**ソードゴブリン**となったあいつは、小さな短剣を握りしめたまま、凄まじい腕力と踏み込みで牙狼の懐に潜り込み、その首元を深く切り裂いて追い払った。
静まり返る川辺。息を荒くするソードゴブリンの背中に、女が涙を流しながら飛びついた。
「あぁ……無事でよかった、無事で……!」
あいつは、血に濡れた錆びた短剣をそっと地面に置くと、逞しくなった緑色の腕で、再び女を優しく抱きしめた。
その光景を見つめながら、俺は抜こうとしていた剣を、静かに鞘へと収めた。
(ただの魔物の進化じゃねえな、あれは……。あいつ、男になろうとしてやがる)
乾いた笑いが漏れる。あいつが強くなった理由は、紛れもなく、背中にいる女の存在そのものだった。




