紡がれる言葉(ゴブリンヒーロー)
あいつが「ゴブリンチーフ」になってから、逢瀬の様子は少し変わった。
何が変わったかって、あいつの「身嗜み」だ。
ある日、俺がいつものように少し早めに川沿いの監視場所に付くと、対岸で奇妙な光景を目撃した。あいつは女がやってくる前の冷たい川に自ら飛び込み、バシャバシャと熱心に身体を洗っていたのだ。
泥汚れを必死に落とし、衣服代わりの布をきっちりと結び直している。
とはいえ、相手はゴブリンだ。どれだけ水浴びをしたところで、魔物特有の生臭さが完全に消えるわけじゃない。それでも、あいつにとっては、彼女を迎えるための精一杯の「敬意」なのだろう。
やがて、茂みの奥からいつものように女が姿を現した。
「お待たせ。……あれ? あなた、なんだか少し綺麗ね」
女はあいつの濡れた髪や、いつもより泥の落ちた肌を見て、すぐにすべてを察したようだった。
もちろん、良い匂いがするわけじゃない。魔物の臭いは残ったままだ。だけど女はそのことに大きくは触れず、ただ愛おしそうに目を細めた。
そして、いつもより少しだけ長く、あいつの身体をぎゅっと抱きしめた。
あいつはその温もりを受け止めながら、どこか誇らしげに、しかし少し照れたように彼女の背中に手を回した。その佇まいは、野蛮な魔物のそれではなく、まるで主君を護衛する無骨な騎士のようだった。
そしてこの日、二人の関係は決定的な境界線を越えた。
女が街での辛い出来事をぽつりぽつりと話し、あいつがそれを静かに聞き入る。いつも通りの光景。だが、女がふと「……あなたに会うためだけに、私、毎日生きてるのよ」と寂しげに笑った、その時だった。
あいつが、深く息を吸い込み、その喉を信じられないほど繊細に震わせた。
「ア……、リ、ガ、ト」
「え……?」
女の身体が、完全に凍りついた。
俺が持っていた水筒の手を止めたのも、同時だった。
今、あいつの口から出たのは、紛れもない人間の言葉だった。
お世辞にも流暢とは言えない。ひどく掠れていて、一音ずつを必死に絞り出したような、不器用な発声。だけど、そこには明確な「意志」と、彼女への最大級の「親愛」が込められていた。
「今……喋って、くれたの……?」
女の目から、大粒の涙がポロポロと溢れ出した。
あいつは慌てて、綺麗に洗ったばかりの指先で、彼女の涙を優しく、本当に優しく拭った。
「マ、モ、ル。……キ、ミ、ヲ」
次いで紡がれたその拙い誓いに、女は声を上げて泣きながら、あいつの首にしがみついた。あいつは彼女を壊れ物のように、しかし力強く抱きしめ返した。
その瞬間、川辺の空気が爆発するように膨れ上がった。
あいつの全身から、これまでにない清廉な、ゴールドに近い輝きを放つ魔力が噴き出す。
バキバキと肉体が鳴り、背筋が完全に人間の戦士と同じように真っ直ぐに伸びた。体躯は俺たち大人の男と変わらないほどに大きく、逞しく変貌していく。
**ゴブリンヒーロー。**
それは、群れを率いる長を超え、ただ一人のために命を捧げる「英雄」の格。
あいつは戦場で死線を越えたわけじゃない。ただ、愛する女の涙を止めたい、その想いだけで、魔物の限界を完全に踏み外したのだ。
「うそだろ……」
草むらの中で、俺の口から乾いた呟きが漏れた。
圧倒的な風格を纏ったあいつは、泣きじゃくる女の頭を、とても静かに、慈しむように撫で続けている。
その気高い姿を見て、俺はもう、あいつのことをただの「面白い見せ物」としては見られなくなっていた。




