修羅場のリビング
平日の午後九時。金綿家のリビングは、呼吸の音さえ躊躇われるほどの静寂に支配されていた。
テーブルを挟んで向かい合う翔太と美穂。数日間にわたる冷戦を経て、二人の腹の底には、すでに限界まで膨れ上がった爆弾が埋め込まれている。
先に沈黙を破ったのは、美穂だった。その声は、地を這うように冷たい。
「……翔太。あなた、私に何か隠していることはない?」
「隠し事?」
翔太はノートPCを閉じた。指先が怒りで硬く強張る。
「隠し事なら、お前の方にあるんじゃないのか。……マークって、誰だ」
美穂の動きが止まった。なぜ、ここでマークさんの名前が出てくるのか分からなかった。
「どうしてその名前を知っているの!? あなた、私の持ち物を勝手に見たのね! 最低だわ!」
「最低なのはどちらだ! 来週こそ会う、本音を全部ぶつける、今のままじゃ耐えられない……! 自分のスケジュール帳にそう殴り書きしていたのはお前だろうが! 俺に隠れて、そんな男とコソコソ連絡を取り合って、一体何の真似だ!」
翔太は立ち上がり、テーブルを激しく叩いた。
美穂の顔に、深い困惑が浮かぶ。
「……男? 連絡? 何を言っているの、あなた。マークさんが男なわけないでしょうが!」
「とぼけるな! マークという名前の男じゃないのか! 男でもないのに、わざわざ会って本音をぶつけるだなんて、お前は一体何を言っているんだ!」
翔太は美穂の言葉を「はぐらかし」だと断定した。美穂もまた、目の前の夫が本気で理解できなかった。自分の浮気を棚に上げて、一体何を言っているのだろうか、と。
「本当に呆れたわ。自分の浮気を隠すために、私のスケジュールをそんな風に邪推するなんてね! だったら聞くけど、『ぽんちゃん』って誰によ! どこの女なのよ!」
美穂もまた椅子を蹴立てて立ち上がり、翔太の顔を指差して叫び返した。
翔太の全身の血液が完全に凝固した。
「ぽん、ちゃん……? なぜ、お前がその名前を……」
「とぼけないで! あなたが部屋のドアの向こうで、優しくその名前を呼んでいるのを私はこの耳で聞いたのよ! 『美穂には言えない』『お前だけだよ』って、愛してるって囁いていたじゃない! 私を裏切って、別の女にコソコソと本音を貢いでいたくせに!」
「別の女だと……? お前、何を言っているんだ。ぽんちゃんが別の女なわけがないだろう!」
「何がわけがないよ! 部屋に隠れてコソコソ名前を呼んでおいて、女じゃないって言い張るつもり!? よくそんな汚い口で私を責められるわね!」
リビングを満たすのは、お互いの激しい呼吸の音だけだった。
お互いが相手の言う「マーク」「ぽんちゃん」という存在を、自分を裏切る不倫相手だと確信し、しかし相手の「男じゃない」「女じゃない」という反論に強烈な噛み合わなさを感じている。
話せば話すほどズレていく対話の断片。それでもお互いに引き返せない憎しみの炎をぶつけ合うリビングは、もはや修復不可能な破滅の一歩手前まで追い詰められていた。




