逆転の疑惑
一度芽生えた不信感は、日常の些細な隙間から一気に侵食を始める。
日曜日の午後。リビングの空気は、朝食の席から引き続き冷え切ったままだった。
翔太はソファーに腰掛け、ノートPCを開いて仕事の資料に目を落としていたが、文字は全く頭に入ってこなかった。視線の先では、美穂が熱心にスマートフォンを操作している。その表情は真剣そのもので、時折、痛切に眉をひそめては画面を凝視していた。
(……やはり、おかしい。絶対に何かを隠している。あの画面の向こうに、一体何があるんだ)
その時、美穂のスマートフォンが短く震え、着信音が鳴った。画面を見た美穂は一瞬だけハッとした表情を浮かべると、翔太の視線を遮るように素早く立ち上がり、通話ボタンを押しながらベランダへと出て行ってしまった。カーテンの向こうで、美穂が早口で何かを熱心に捲し立てている後ろ姿が見える。
胸を突くような焦燥感に駆られ、翔太は無意識のうちに美穂がテーブルの上に残していった「スケジュール帳」へと目を向けた。いつもなら決して覗かない、妻のプライベート。しかし、今朝からの異常な態度が、翔太の理性を狂わせていた。
引き寄せられるように手帳をめくる。直近のページの余白に、美穂の直筆で、殴り書きのようなメモが残されているのが目に飛び込んできた。
『来週こそ、マークさんに会う。今度こそ、ちゃんと本音を全部ぶつける。今のままじゃ、私、もう耐えられない』
翔太の思考が、一瞬で完全に停止した。
心臓が、まるで冷たい氷の塊を埋め込まれたかのように、激しく、重く脈打つ。
(マークさん……? 誰だ、それは。男、なのか……?)
メモに記された、あまりにも生々しい決意の言葉。会う。本音を全部ぶつける。今のままじゃ耐えられない――。
翔太の脳内で、パズルのピースが最悪の形で噛み合っていく。今朝、美穂の目が赤く腫れていたのは、俺への不満ではなく、この「マークさん」という男との関係に悩んでいたからではないのか。ベランダで必死に電話をかけている相手も、この男なのではないか。
(嘘だろ、美穂。お前、浮気をしてるのか……? 俺に隠れて、そんな男と……)
激しい怒りよりも先に、内臓を素手で掴まれたような、悍ましい絶望が翔太を襲った。事なかれ主義の歪んだ平穏の裏で、妻の心はとうの昔に自分から離れ、別の男へと向かっていたのだ。しかも、自分が「ぽんちゃん」にしか吐き出せないような切実な本音を、美穂はこの「マークさん」という男にぶつけようとしている。
ベランダのサッシが開く音がした。美穂がスマートフォンを握りしめ、冷徹な表情のままリビングへと戻ってくる。
翔太は慌てて手帳を閉じ、何事もなかったかのようにPCの画面に目を戻したが、その指先は小刻みに震えていた。
「……どうかした?」
不審そうにこちらを覗き込む美穂の声に、翔太は顔を上げることもできず、ただ声を絞り出した。
「いや……何でもないよ」
お互いが、相手の完璧な「裏切りの証拠」を握りしめた。
リビングを満たすのは、もはやただの無風ではない。いつでも互いを引き裂く準備が整った、極限まで張り詰めた暴風前夜の静寂。
金綿夫妻の間に、取り返しのつかない決定的な冷戦の幕が、静かに、しかし重々しく下ろされた。




