すれ違う夜、見つかった「証拠」
夫婦というものは、時に「知らなくていい真実」に直面することがある。いや、正確に言うならば、現実の一片だけを切り取った結果、恐るべき誤解の迷宮へと自ら足を踏み入れてしまうことがあるのだ。
土曜日の午後十時。金綿家の廊下は、いつも通り静まり返っていた。
妻・美穂は、キッチンで淹れたハーブティーを手に、リビングへ戻ろうと夫・翔太の書斎の前を通りかかった。普段ならそのまま通り過ぎるはずの、何の変哲もない木のドア。しかし、その向こうから微かに漏れ聞こえてきた「夫の話し声」に、美穂の足はピタリと止まった。
いつも家では、感情を押し殺したような平坦な声でしか喋らない夫が、驚くほど優しく、どこか甘えるような、脆い声を漏らしていたのだ。
『……うん、そうだよね。やっぱり、俺の気持ちを分かってくれるのはお前だけだよ、ぽんちゃん』
美穂の心臓が、ドクンと嫌な跳ね方をした。ぽんちゃん。その、およそ成人男性の口から発せられるべきではない、悍ましいほどに愛らしい響きが、ドアの隙間から滑り落ちてくる。
『美穂にはさ、面と向かってはなかなか言えないんだよ。……だから, いつもこうして、お前にだけは全部話しちゃうんだな。あはは、お前って本当に聞き上手だよね、ぽんちゃん。いつもそこにいてくれてありがとう。愛してるよ』
かすかな衣擦れの音と、夫の満足そうなため息。
ドアの一枚隔てた向こう側で、美穂の全身の血液が、一瞬で凍りついた。
(ぽんちゃん……? ぽんちゃんって、誰……?)
頭の奥が、カッと熱くなる。激しい怒りよりも先に、目の前が真っ暗になるような絶望が押し寄せた。
面と向かっては言えない。お前にだけは全部話してしまう。いつもそこにいてくれて、ありがとう。愛している――。
それは、どれも美穂が翔太から一番に言われたかった、そして自分自身が翔太に対してずっと抱いていた切実な願いそのものだった。それを、自分ではない「別の誰か」に捧げている。
(信じられない……。嘘でしょう、翔太。私との生活に不満があるなら、どうして言ってくれなかったの。どうして他の女に、そんなに優しい声を向けているの……。私を裏切っていたのね。そんなふうに、私の知らないところで……)
美穂の脳内では今、浮気相手「ぽんちゃん」という存在が、冷酷な現実として肉付けされていた。夫の心を完全に奪い去り、自分の知らない夫の素顔を引き出している、決定的な裏切りの象徴。
怒りと悲しみで視界が歪み、ハーブティーのカップを握る指先が白く震える。今すぐドアを蹴破って問い詰めたい衝動が脳裏をよぎるが、美穂は辛うじてそれを踏みとどまった。今ここで感情的に泣き叫べば、夫は心を閉ざし、本当の真実を隠してしまうかもしれない。
(落ち着くのよ……。泣いたら負け。私はまだ、あの人の妻なんだから。ちゃんと、すべてを暴いてやるわ……)
美穂は奥歯を噛み締め、静かに足音を忍ばせてリビングへと引き返した。
静まり返る暗いリビングで、妻は、夫の完璧な「裏切りの証拠」を胸に刻み、深く、静かな決意の炎を燃え上がらせるのだった。




