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歪んだ輪舞曲(ロンド)〜鉄の処女と白銀の駿馬〜 ――私の婚約者(馬車)が、元婚約者の婚約者(馬)と不倫していました。※乗れません  作者: 山田りく
3章 金綿(かなわた)夫妻の、愛しの浮気相手

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静かな食卓と、それぞれの秘密

 世間一般において「冷え切った夫婦」と形容される関係性には、いくつかの明確な兆候が存在する。激しい罵り合い、皿の飛ぶ音、あるいは徹底的な無視。しかし、ここ金綿かなわた家のリビングに漂う空気は、そのどれにも該当しない。ただひたすらに、不気味なほど「無風」なのだ。


 時計の針が刻むカチカチという規則正しい音だけが、やけに重く響く午後八時の食卓。


 夫・金綿翔太かなわた しょうたと、妻・美穂みほは、一見すると極めて平穏に、しかしその実、完全に心のシャッターを下ろしきった状態で向かい合っていた。


 今日のメニューは肉じゃがである。彩りは完璧、栄養バランスも文句なし。だが、翔太の胸の内には、言葉にできない重苦しい違和感が広がっていた。


(薄い……。味付けが、あまりにも薄すぎる。これでは素材の味というより、ただお湯に通しただけではないか。一体、我が家の食卓からいつの間に醤油や出汁の風味が消えてしまったのだろう。美穂は一体、何を考えてこの料理を作っているんだ。俺の好みなんて、もうどうでもよくなってしまったのだろうか……)


 しかし、翔太の口から出たのは、そんな胸の痛みを覆い隠すような、ひどく平坦で、義務的なセリフだった。


「……うん、美味しいよ」

「そう? 良かった」


 美穂の返しもまた、冷ややかな定型文のようだった。

 だが当然、美穂の胸の中にもまた、翔太とは全く別方向の切実な感情が渦巻いていた。


(美味しいよ、だなんて、そんな死にかけたような声で言わないでほしい。味が薄くて不満なのだと、顔を見ればすぐに分かる。けれど、これはあなたの健康を思ってのことなのに。毎年の健康診断の結果を見て、少しでも長く一緒に元気でいたいから、必死で塩分を計算して作っているのに。どうしてそんな、義務を果たしただけのような顔をするの。まともに私の顔も見ようとしないの……)


 お互いに、相手に対する小さな不満や、割り切れない思いは山ほどある。


 しかし、この金綿夫妻は致命的なまでに「平和主義という名の事なかれ主義」に染まりきっていた。面と向かって本音をぶつけ合い、この静寂な空間に波風を立てて、相手に嫌われるくらいなら、自分が一歩引いて、胸の中で言葉を飲み込んでいる方がマシ。そうして彼らは、数年間、絶妙に噛み合わない歯車を回し続けてきたのだ。


 だからこそ、彼らには必要だった。

 現実に吐き出せば、大切な関係にひびを入れてしまうかもしれないと恐れるほどの重い感情を、一滴残らず受け止めてくれる「絶対的な安全地帯」が。


「ごちそうさま。ちょっと書斎で、明日の資料をまとめてくるよ」

「はーい、お疲れ様。私はリビングで少し片付けするね」


 業務連絡のような会話を最後に、二人はそれぞれの聖域へと退散する。


 翔太は自室のドアを閉め、鍵をかけた瞬間、大きく溜め息をついてクローゼットへ向かった。服の隙間から、まるで壊れ物を扱うようにそっと引き出したのは、長年の愛玩により、綿が限界まで偏って首が妙な角度に傾いた、古びたくまのぬいぐるみ――「ぽんちゃん」である。


 翔太はぽんちゃんをラグの上に座らせると、そのプラスチックの瞳に顔を近づけ、胸に溜まった澱を吐き出すように、静かに、しかし切実に語りかけた。


「聞いてくれよぽんちゃん……。美穂のやつ、今日も肉じゃがの味を極端に薄くしてきたんだ。まるで俺の体調なんて、俺の好みなんてどうでもいいみたいにさ。それに、何だか最近ずっと態度も冷たいんだ。せっかく美味しいって言ってるのに、目を合わせてくれない。……本当に、俺の寂しさを分かってくれるのはお前だけだよ、ぽんちゃん……」


 翔太は、ぽんちゃんのボロボロの耳元に、日々の孤独と、妻に拒絶されているのではないかという恐怖をすべて叩きつける。それこそが彼の、唯一の精神安定剤だった。


 一方その頃、リビングに取り残された美穂もまた、祈るような痛切な面持ちで棚の奥から「それ」を取り出していた。


 小学生の頃に組み立てて以来、幾度もの引っ越しを共に乗り越え、関節のポリキャップがパカパカに緩みきった、全身を藍色のプラスチック装甲で固めたロボットのプラモデル――「マーク3」である。


 美穂はマーク3をテーブルの特等席に置くと、シールの剥げかかった無機質なモノアイをじっと見つめ、堰を切ったように本音を零し始めた。


「ちょっとマークさん、聞いて。翔太のあの態度、どうしても悲しくなっちゃうの。せっかく彼の血圧を気にして、長生きしてほしくて減塩してるのに、あんな不満そうな顔で『美味しいよ』なんて。まるで私が嫌がらせをしてるみたい。本当に男の人って、どうして自分の健康にも、私の気遣いにも気づいてくれないのかしら……。ああ、マークさん、あんたみたいにどっしり構えて、私の言うことを全部黙って受け止めてくれる存在が、今の私には一番必要なのよ……」


 夜の金綿邸。

 厚い壁を隔てた二つの部屋で、夫と妻は、それぞれが子供の頃から大切にしている「相棒パートナー」に向かって、今日も言葉を吐き出していた。

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