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【Season2】白い羽根の彼女を守るため、ただの高校生だった俺は勇者になる  作者: 東雲 明
第11章 アルカヌム島編

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第154話 斬れなかった影•前編

 黒い樹皮の奥で、俺の顔が笑った。


 濡れた石のような幹に映ったそいつは、俺と同じ黒髪で、俺と同じ目をしているのに、口元だけがひどく歪んでいた。


 足元では俺の影が、踏みつけたはずの地面から剥がれ、黒い樹液みたいに根へ流れ込み、足首からふくらはぎへ、冷えた泥を巻きつけてくる。


 俺はアストラルフレイムの柄を握り直したが、指の腹が滑り、掌の汗を吸った革の感触だけがやけに生々しく残った。


「……ふざけんな」


 声は喉の奥で割れた。


 目の前の巨木は、森の中心に一本だけ立っていた。高すぎる枝は霧の上へ消え、葉の一枚一枚が黒い硝子みたいに光を弾き、根は大地を割って、鏡面の水を吸い上げている。 


挿絵(By みてみん)


 禍々しい。


 なのに、踏み込んだ足裏に伝わる震えは、神殿で剣を握った時に似ていた。


 穢れたものを前にしているはずなのに、膝をつけと言われているような圧がある。祈りの場に立たされたみたいに、呼吸の仕方まで奪われる。


 幹を覆う黒い樹脂は、ただの樹液じゃなかった。夜を煮詰めて磨いた鏡みたいに、俺の顔も、肩も、剣の先も、歪ませながら映し返してくる。


 その奥に、もう一人の俺がいた。


 俺が瞬きをするより先に、そいつが笑う。


 俺が息を吸うより先に、そいつの肩が揺れる。


 俺の体から剥がれた影が、足元でぬるりと首をもたげた。輪郭のない黒いものが、地面に貼りついたまま背を伸ばし、俺と同じ形になっていく。


「パパ……?」


 ジュリアの声が、背中の遠いところで震えた。


 振り返ろうとした。


 首が動かなかった。


 肩の骨に、根が食い込んだみたいだった。腕を上げようとしても、肘から先が水の中に沈められたように重い。アストラルフレイムの切っ先が黒い地面を引っかき、甲高い音を立てた。


「パパ、うごかないで! ぼくがいく!」


「アイン、だめ!」


 ミユウの声が、風を切って近づいた。


 白い羽の気配が背後で膨らみ、次の瞬間、黒い幹が低く鳴った。鐘の音ではない。獣の喉でもない。大地の底で巨大な扉が開くような、腹の奥に響く音だった。


「あなた!」


 ミユウの手が俺の肩に触れる寸前、幹から細い黒枝が何本も走った。


「っ……!」


 振り返れないまま、白い羽が視界の端を横切った。


 弾かれた音がした。


 柔らかいものが石を転がる音。羽が地面を擦る音。ジュリアの息を呑む音。


「ママ!」


「ママ、だいじょうぶ!?」


 俺は奥歯を噛んだ。


 首の後ろに熱が走る。剣を持つ手に力を込める。なのに、足元の影が俺の意思を吸い取るみたいに根へ溶けていく。


 幹の中の俺が、口を開いた。


 声は聞こえない。


 それでも、何を言ったのか分かった。


 ――斬ればいい。


 黒い鏡面に映る俺は、血のついていない顔で笑っていた。


 その足元には、折れた枝でも、砕けた石でもないものが散らばっている。俺がこれまで剣を向けてきた敵の影。守るために斬ったもの。迷わず踏み越えたもの。


 それだけじゃない。


 映った俺の背後で、白い羽が黒く濡れていた。


「……やめろ」


 喉から出た声は、自分のものとは思えないほど低かった。


 黒い俺は、白い羽へ手を伸ばす。


 俺は剣を振り上げようとした。


 腕が動かない。


 黒い樹液が手首に絡み、皮膚の上を這い、袖の内側へ入り込んでくる。冷たい。ぬるい。どちらともつかない感触が、血管に沿って上がってくる。


「あなた、聞こえる!?」


 ミユウの声がした。


 今度は少し離れている。息が乱れて、羽を畳む音が地面に擦れている。


「こっちを見て。あなたは、そこにいるものじゃない」


 俺は唇を開いた。


 返事をしようとした。


 舌が重い。


 幹の中の俺が、俺より先に口を動かした。


 ――本当に?


 黒い鏡面に、別の景色が滲んだ。


 アルカヌム島の森が消え、足元に赤黒い光が広がる。剣の刃が焼け、腕が震え、俺の前に倒れている影があった。


 顔は見えない。見えないのに、俺の手が斬ったものだと、掌だけが覚えていた。


 守るために振った剣。


 それでも、刃は刃だ。


 アストラルフレイムは俺の手の中で小さく軋み、青白い光を放った。いつもなら背中を押してくれる熱が、今は指の骨を責めるみたいに食い込む。


 俺の影が、足元から完全に立ち上がった。


 真っ黒な俺。


 顔のない俺。


 輪郭だけが同じで、剣を持たない手がゆっくりと胸に伸びる。


 その指が、俺の心臓の位置に触れた。


 息が止まる。


 冷たい手ではなかった。


 そこにあったのは、俺自身の体温だった。


「……っ」


 膝が折れかける。


 地面に剣を突き立て、肩で息をした。黒い根が剣身を舐め、アストラルフレイムの光を飲もうとする。火のような刃が、一瞬だけ細く震えた。


「パパ!」


 ジュリアの声が近づいた。


 小さな足音が、濡れた鏡面を叩く。


「ジュリア、まって! パパのところ、くろいのがある!」


「でも、パパが……!」


「ふたりとも、来ないで!」


 ミユウの声が鋭く飛んだ。


 その声に、子どもたちの足音が止まる。


 俺はそこでようやく、ほんの少しだけ首を動かせた。


 視界の端に、ミユウが膝をついていた。片方の羽が地面に触れ、白い羽根の先が黒い水に濡れている。立ち上がろうとして、腕で体を支え、唇を噛んでいる。


 アインはジュリアの前に立ち、小さな腕を横に広げていた。


 ジュリアはその服を両手で握りしめ、俺を見ていた。


 その目を見た瞬間、胸の奥で何かが裂けた。


 黒い影の手が、俺の胸に沈む。


 幹の中の俺が笑う。


 ――守りたいなら、これも持っていけ。


 黒い鏡に、俺の手が映った。


 ミユウの手を引く手。


 アインの頭を撫でる手。


 ジュリアを抱き上げる手。


 それから、敵の喉元へ刃を突きつける手。


 全部、俺の手だった。


 どれか一つだけを選び、残りを捨てることはできない。そんなことは、頭では分かっている。分かっているはずなのに、黒い鏡面に映る刃の角度が、俺の喉を内側から締めつけた。


 俺の中に、こんなものがある。


 守るためなら斬る。


 奪われる前に奪う。


 失うくらいなら、先に壊す。


 考えたこともないはずの形が、幹の中で俺の顔をして立っている。


「違う……」


 呟いた瞬間、黒い根が足首を締めた。


「俺は、そんな……」


 言い切れなかった。


 黒い俺が、俺と同じ形の口で笑う。


 ――違わない。


 幹の奥で、白い羽がまた黒く濡れた。


 ミユウがこちらへ手を伸ばす。


「あなた、違うと言わなくていい」


 俺の喉が詰まった。


 ミユウの声は、強くも弱くもない。ただ、俺の体に届く場所を探すみたいに、ひとつずつ言葉を置いてくる。


「見えているものから逃げないで。あなたが斬ってきたものも、抱えてきたものも、あなたの手に残ってる」


 俺は剣を握った指に力を入れた。


 柄の革が軋む。


「そんなものまで、受け入れろっていうのか」


 声が掠れた。


「俺が……あんな顔で笑うやつだって?」


 黒い巨木の葉が一斉に揺れた。


 風はない。


 なのに、森全体が俺の返事を待つみたいに、黒い葉を鳴らしている。


 ミユウが立ち上がる音がした。衣擦れ。羽根が地面を払う音。足を引きずるわずかな響き。


「あなたが笑ったんじゃない。木が、あなたの一部だけを大きく映している」


「一部なら、あるってことだろ」


 言葉が刃みたいに出た。


 出した瞬間、舌の根に苦いものが残った。


 ミユウは止まらなかった。


 黒い枝がまた幹から伸びる。今度はさっきより太い。蛇のように地面を走り、ミユウの足元へ向かう。


「来るな!」


 俺は叫び、動かない腕を無理やり引き上げた。


 肩の中で何かが裂ける感触がした。剣が半分だけ持ち上がり、アストラルフレイムの刃が黒枝をかすめる。青白い火花が散り、枝の先が焦げた。


 けれど、次の枝がミユウの前に立ちはだかった。


「あなた!」


 ミユウが両手を広げた。


 白い光が羽からこぼれる。神殿で何度も見た癒しの光。傷口を塞ぎ、熱を引き、命をつなぎ止める光。


 その光が、黒い幹に触れた。


 巨木が低く唸った。


 白い光は樹脂の鏡面を伝い、少しだけ奥へ染み込んだ。幹の中の黒い俺が、その光へ顔を向ける。


 次の瞬間、鏡面が割れたように黒が跳ねた。


「きゃっ……!」


 ミユウの体が後ろへ弾かれた。


 羽が大きく開き、白い羽根が数枚、空中で裂けるように舞う。ミユウは背中から倒れかけ、片膝をつき、地面を掌で受け止めた。黒い水が跳ね、白い袖を汚す。


「ママ!」


 ジュリアが泣きそうな声で叫び、アインが歯を食いしばって前に出た。


「ぼくが、パパをたすける!」


「アイン、だめ! 根に触れないで!」


「でも!」


「お願い、そこでジュリアを守って!」


 ミユウの声に、アインの足が止まった。


 小さな背中が震えている。


 ジュリアはアインの後ろで両手を握り、俺に向かって口を開いた。


「パパ、かえってきて……」


 その声が、黒い樹液より深く胸に落ちた。


 俺は息を吸った。


 肺に入った空気は冷たく、喉の内側を削った。


 戻りたい。


 今すぐ、あの子たちのところへ戻りたい。


 ミユウの腕を掴み、アインとジュリアを抱えて、この気味の悪い木から離れたい。


 それなのに、足元の影は根の中へ流れ続け、俺の体は幹へ引き寄せられていた。背中に硬いものが触れる。黒い樹脂の冷たい面が、肩甲骨に貼りつく。


「くそっ……!」


 剣を突き立てて踏ん張る。


 刃が地面に食い込み、黒い鏡面に亀裂が走った。亀裂の中から黒い光が漏れ、そこにまた俺の顔が映る。


 黒い俺は、もう笑っていなかった。


 ただ、俺を見ていた。


 剣を持つ俺。


 守るものを背にした俺。


 受け入れられず、拒みきれず、立ち尽くす俺。


 幹の内側から、声にならない声が這ってくる。


 ――斬ったことがある。


 ――憎んだことがある。


 ――消えろと思ったことがある。


 俺は歯を食いしばった。


 頭の奥に、誰かの悲鳴が残っている。剣を振った後の骨の響き。血の匂い。ミユウの羽を守るために踏み込んだ足の熱。アインとジュリアを守るため、迷う暇もなく前に出た瞬間の視界。


 どれも、俺の中にある。


 でも、認めたら。


 その瞬間、俺はあの黒い俺と同じになる気がした。


「あなた!」


 ミユウがまた立ち上がった。


「もう来るな!」


 俺は叫んだ。


 声が森にぶつかり、黒い葉が震える。


 ミユウの足が止まった。


 俺は振り返れないまま、言葉を絞った。


「俺がこれを受け入れたら……俺は、あいつになる」


 黒い幹の奥で、俺の顔がまた歪む。


「ミユウを守るためって言いながら、いつか、何でも斬る」


 アストラルフレイムの光が弱まった。


 青白い火が、黒い樹液に舐められて細くなる。


「アインとジュリアの前で、俺は……」


 そこから先が出なかった。


 ジュリアの小さな手。アインのまっすぐな目。俺を「パパ」と呼ぶ声。


 その前に、黒い俺を置けない。


 置きたくない。


 ミユウが息を呑む音がした。


「あなたは、そうならない」


「分からないだろ」


「分かる」


 短い言葉だった。


 でも、その一言が、黒い根の締めつけより強く胸を打った。


「あなたは、剣を抜く前に必ず見る。誰が後ろにいるのか、誰を守るのか、必ず見る。だから、あなたは剣を持てる」


 俺は目を閉じかけた。


 閉じたら、根が一気に飲み込む気がして、瞼をこじ開ける。


 黒い樹脂の中の俺が、こちらへ手を伸ばした。


 影の分身も、同じ動きをした。


 黒い手が、俺の胸の奥を掴む。


 痛みはない。


 ただ、体の中心から重さが抜けていく。


 影がない。


 足元を見れば、俺の影はもうほとんど残っていなかった。黒い根の中へ吸い込まれ、幹の奥で濃くなり、鏡面の向こうの俺を形作っている。


「返せ……」


 俺は剣を握り、幹へ向けて振ろうとした。


 腕が動かない。


 黒い樹脂が背中から肩を包み、肘を飲み、手首まで固める。冷たく硬いはずなのに、皮膚に貼りついた部分だけは、脈を打つ肉みたいにぬるかった。


「パパ!」


 アインの声が割れた。


「パパ、まけないで!」


 ジュリアも叫んだ。


「パパ、ここにいるよ! ジュリア、ここにいるよ!」


 俺の喉が震えた。


「……分かってる」


 声はかすれ、風に削られた。


「そこに、いろ」


 アインが一歩出そうとして、ミユウの羽が前に伸びた。


「だめ。今、近づいたら根に捕まる」


「でも、パパが!」


「アイン」


 ミユウの声が低くなった。


「ジュリアを守って」


 アインの肩が跳ねた。


 小さな手が、ジュリアの前で握られる。


「……うん」


 その返事を聞いて、俺は一瞬だけ息を吐いた。


 その隙を、巨木は待っていた。


 背中の樹脂が一気に広がった。


 肩を飲み、胸を締め、腹へ回り、両足を地面ごと幹へ縫いつける。黒い根がアストラルフレイムの刃へ絡み、俺の手から剣を引き剥がそうとした。


「ぐっ……!」


 掌の皮が裂れる感触がした。


 それでも離さない。


 剣だけは離さない。


 アストラルフレイムの柄を握る指に、黒い樹液が入り込む。爪の隙間、指の関節、手首の骨の周り。冷たいのに、火傷みたいに疼く。


 幹の中の黒い俺が、目の前まで近づいていた。


 鏡の向こうにいたはずの顔が、樹脂一枚を隔てて俺と重なる。


 同じ目。


 同じ傷。


 同じ剣を持とうとした手。


 俺はそいつを睨みつけた。


「俺は、お前じゃない」


 黒い俺の口が動く。


 ――じゃあ、何を捨てる?


 足元の根が、さらに締まる。


 視界の端で、ミユウが羽を広げた。


「あなた!」


 白い光が、もう一度溢れた。


 さっきより弱い。羽の先が震え、地面に落ちた羽根が黒い水に沈む。それでもミユウは手を伸ばし、俺へ向かって歩いた。


 一歩。


 黒枝が走る。


 二歩。


 白い光が裂ける。


 三歩。


 ミユウの膝が沈む。


「来るなって言ってるだろ!」


 俺の叫びと同時に、幹から伸びた黒枝がミユウの胸元を打った。


 鈍い音。


 ミユウの体が後ろへ跳ね、羽が大きく乱れた。


「ママ!」


 ジュリアが泣き声を上げる。


 アインが飛び出そうとした。


「アイン!」


 ミユウが倒れたまま叫ぶ。


 その声に、アインの足が止まる。


 俺の中で、何かが燃えた。


 黒い樹脂が胸まで上がっている。


 呼吸が浅くなる。


 なのに、指先だけが熱い。


 アストラルフレイムが、握った掌の中で細く脈を打った。


「……ミユウに」


 俺は歯の間から声を押し出した。


「触るな」


 黒い幹が笑った。


 音ではない。


 根が震え、葉が鳴り、鏡面の樹脂が波打った。


 俺の胸元から、黒い俺の腕が突き出した。


 鏡の向こうにいたはずの影が、樹脂を破るようにこちらへ伸び、俺の手ごとアストラルフレイムの柄を握る。


 重なる。


 黒い手と俺の手が重なり、刃の向きが変わる。


 剣先が、幹ではなく、俺自身の影へ向いた。


 ――斬れ。


 声は、俺の内側でした。


 黒い影を斬れば、楽になる。


 見たくないものを切り離せる。


 あの顔を消せる。


 俺は剣を握り締めた。


 刃が震える。


 影の分身は、俺の胸に手を沈めたまま、逃げない。顔もない。目もない。ただ、俺の形をして、俺の体温で、そこにいる。


「斬れば……」


 言葉が漏れた。


 ミユウが地面に手をつき、顔を上げた。


「あなた、斬らないで!」


 俺の腕が止まった。


 黒い根が一斉に軋む。


「それを斬ったら、あなたが戻れなくなる!」


 アストラルフレイムの光が、刃の根元で震えた。


 俺は黒い影を見た。


 剣を向けられても、影は動かない。


 抵抗もしない。


 ただ、俺の胸に触れ、俺の中にあるものを、俺に返そうとしている。


 黒い巨木は、神聖なほどまっすぐに立っていた。


 俺を裁くためでも、壊すためでもなく、俺が目を逸らしたものを、ただそこに映している。


 そんな考えが、喉元まで上がった。


 けれど、目の前でミユウの羽が黒く濡れている。


 アインとジュリアが俺を呼んでいる。


 俺は今、ここから戻らなければならない。


 それ以外を考える余地なんてない。


「……俺は」


 黒い樹脂が鎖骨まで上がった。


 声が出にくい。


「俺は、お前を受け入れたくない」


 幹の奥の俺が、わずかに目を細めた。


「お前が俺の中にあるなんて、認めたくない」


 影の分身の指が、俺の胸の奥を掴む。


 温かい。


 俺の手と同じ温度。


 その感触に、吐き気に似たものが込み上げた。


「でも」


 ミユウの息が止まる音がした。


 アインとジュリアの声が途切れる。


 俺は剣を下ろそうとした。


 下ろす。


 ただ、それだけの動きが、山を押すみたいに重い。


 黒い根が剣を引き上げようとする。斬れと命じるみたいに、俺の腕を操る。影を切り離せと、見たくないものを消せと、幹の奥の俺が笑う。


「俺は……」


 掌の裂けたところから血が滲み、柄の革に染みた。


 その熱が、指先を戻してくる。


「お前を、なかったことにはしない」


 言った瞬間、黒い巨木が震えた。


 森全体の空気が重く沈み、足元の鏡面に無数の亀裂が走る。黒い葉が散り、空を覆う枝の間から、白とも青ともつかない光が落ちた。


 影の分身が、初めて顔を上げた。


 顔はない。


 なのに、俺を見た。


 俺は剣を離さず、刃を自分の影から外した。


「けど、俺の全部を、お前に渡す気もない」


 黒い樹脂が喉元まで来た。


 息を吸うたび、樹脂の冷たさが皮膚の下へ入ってくる。


 幹の奥の俺が、口を開いた。


 ――遅い。


 背中が幹に沈んだ。


「あなた!」


 ミユウの叫びが、黒い膜の向こうで歪む。


 アインとジュリアの声も重なった。


「パパ!」


「パパ、やだ!」


 俺は足を踏ん張ろうとした。


 足がない。


 膝の感覚が消えている。


 腰から下が黒い樹脂に溶け、幹の中へ引き込まれていた。アストラルフレイムを握る右手だけが外に残り、左腕は肩まで黒に沈んでいる。


 視界の半分が黒い鏡面に覆われた。


 その内側には、俺の顔がいくつも映っていた。


 ミユウを守る俺。


 子どもたちを抱く俺。


 剣を振る俺。


 歯を食いしばる俺。


 笑う俺。


 泣かない俺。


 認めたくない俺。


 全部が、黒い樹脂の奥で重なっていく。


「……くそ」


 声が潰れた。


 ミユウが這うように近づいてくる。


 白い羽が地面を擦り、羽根の先が裂けても止まらない。黒枝が彼女の前に壁を作る。ミユウはその枝に手を伸ばし、白い光を灯した。


「返して」


 黒枝が焦げる。


「その人を、返して」


 黒い巨木が鳴った。


 白い光が枝を少しだけ溶かす。


 ミユウの手が、その隙間から俺へ伸びた。


 あと少し。


 指先が届きそうだった。


 俺も右手を伸ばそうとした。


 アストラルフレイムを握ったまま、指を開く。


 でも、黒い樹脂が手首を包み、腕を引いた。


「ミユウ……!」


 俺の声はそこで千切れた。


 ミユウの指先が空を掴む。


 次の瞬間、幹の内側から伸びた黒い腕が、俺の胸を背中から貫くように抱き込んだ。


 痛みはない。


 ただ、息が完全に奪われた。


 視界が黒く閉じる。


 最後に見えたのは、アインがジュリアを抱きしめる小さな背中と、ミユウの白い羽が黒い枝の前で震える姿だった。


 俺はアストラルフレイムを握ったまま、闇の巨木の中へ沈んだ。

今回もお読み頂きvery very thanks‼︎です。少しでもおもしろいと思われましたら、評価、ブクマ、感想くださると泣いて喜びます

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