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【Season2】白い羽根の彼女を守るため、ただの高校生だった俺は勇者になる  作者: 東雲 明
第11章 アルカヌム島編

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第153話 恋人たちの試練

 鏡の森の入口で、俺と同じ顔をした男が、剣先をこちらへ向けて立っていた。足元の鏡面には俺の靴底と、逆さに伸びた銀色の枝と、肩の向こうで揺れるミユウの白い羽が映り込んでいるはずなのに、目の前の男の背後には何も映っていなかった。


 風がない。けれど、鏡の樹々は高いところで薄く鳴り、枝の先から削れた光が落ちてくるたび、森全体がひと呼吸ずつ形を変えた。空は頭上にあるのに、地面にも同じ空があり、踏み出す前から、俺の足は底のない青へ沈みかけているように見えた。


 俺はアストラルフレイムの柄を握り直した。掌に残っていたミユウの指の温度が、革巻きの感触に押し潰され、背後から聞こえるアインとジュリアの小さな息づかいが、鏡の幹に当たって何重にも返ってくる。目の前の俺は、同じ角度で剣を構え、同じ顔のまま、俺より先に唇だけを動かした。


「まだ進むのか」


 声まで俺と同じだった。


 喉の奥にひっかかった息を飲み込み、俺は一歩踏み出した。靴底の下で鏡の地面が薄く軋み、そこに映る俺の顔が、ほんの一瞬だけ知らない男のように歪む。目の前の俺は後ろへ下がらず、剣先をわずかに持ち上げた。


「ここで戻れば、何も失わない」


 俺は答えず、剣の刃を斜めに落とした。


 鏡の男の剣が重なり、金属の音が森の奥まで跳ねた。一本の音が、何十本もの鏡の幹で割れ、右から左から頭の上から、違う間で返ってくる。腕に痺れが走り、肩の奥に重さが沈む。俺と同じ力。同じ癖。同じ踏み込み。同じ呼吸。


 同じなら、倒せるはずがない。


 そう思った瞬間、鏡の男の刃が俺の首筋をかすめた。熱い線が走り、襟の内側へ血が一滴落ちる。ミユウが息を呑む気配が背中に触れたが、俺は振り返らなかった。ここで振り返れば、次の一撃を受ける。


「あなた!」


 ミユウの声が、鏡の森に細く伸びた。


「パパ!」


 アインの足音が一歩分だけ近づき、すぐに小さな布擦れが止まった。ミユウが止めたのだろう。ジュリアの息は、泣き声になる寸前で、唇の中に押し込まれている。


 俺は左足を引き、鏡の男の剣を滑らせた。刃が肩の横を抜け、銀の枝を映した空間を裂く。返す刃で相手の胴を狙うと、同じ角度で受け止められ、火花が散った。散った火花は地面と空に同時に落ち、星のように増え、森の奥へ流れた。


「俺の形をして、俺の声で喋るな」


 鏡の男は口角だけを上げた。


「なら、お前は何だ」


 刃が押し込まれる。俺は膝を曲げ、体重を下げた。腕だけで受けるな。足で受けろ。背中で支えろ。そうやって身体に染みついた言葉が、誰の声でもなく骨の中から響く。


 俺は剣を外側へ弾き、肩からぶつかった。


 鏡の男の身体が揺れ、足元の鏡面に亀裂が入った。亀裂は蜘蛛の巣のように広がり、そのひと筋ひと筋に、別の景色が浮かんだ。


 白い天井。


 木の机。


 朝日に照らされた窓。


 制服の袖。


 俺の手には剣がなく、指の隙間にはインクの匂いが残っていた。どこかで鐘が鳴り、誰かが廊下を走る音がする。目の前の鏡の奥で、若い俺が肩に鞄をかけ、何も背負わない顔で歩いていく。傷もない。剣の重みもない。羽を持つ彼女のために血を流す日々もない。


 足元の亀裂が広がるたび、その景色は深くなる。


 夕暮れの道。買い物袋。湯気の立つ食卓。名前を呼べば返事がある部屋。眠る前に剣を置く場所を探さなくていい夜。


 鏡の中の若い俺は、誰かの手を取ろうとしていた。白い羽はない。アストリアの空もない。アインの跳ねる声も、ジュリアの小さな手もない。ミユウの背中の羽が、朝の光を受けて透ける景色もない。


 俺の足が止まった。


 剣を握る指がわずかに緩み、鏡の男の刃がそこへ食い込んでくる。金属が擦れ、奥歯が鳴った。鏡の中の普通の生活は、あまりにも軽かった。肩に乗るものがなく、息を吸うたびに胸が広がるように見えた。


「そちらを選べばいい」


 鏡の男が、俺の顔で言う。


「ただの人間として生きればいい。剣も、試練も、別れも、お前の身体を削らない」


 俺の背後で、ジュリアが布を握る音がした。


「パパ……」


 その声は、鏡に映るどの景色よりも近かった。


 俺は目を閉じなかった。閉じれば、楽な方の光が瞼の裏に残る。だから見た。鏡の中の俺が、何も知らないまま歩いていく背中を。ミユウと出会わず、アインとジュリアを抱き上げることもなく、アストリアの土を踏まない足を。


 指に力を戻す。


 革巻きが掌に食い込み、血で滑りかけた部分が止まった。


「悪いな」


 俺は剣を押し返した。


「俺はもう、ただの高校生だった場所には戻れない」


 鏡の中の景色が、細い音を立てて割れた。


 白い天井が砕け、机が砕け、夕暮れの道が銀の破片になって落ちる。破片は地面に触れる前に枝へ吸い込まれ、森の幹が一斉に淡い青を帯びた。鏡の男の顔から、わずかに表情が抜ける。


 俺は踏み込んだ。


 刃と刃がぶつかり、今度は押し負けなかった。足裏が鏡面に沈む感触を噛みしめ、腰を回し、相手の剣を横へ流す。鏡の男の胸が空いた。だが、そこへ刃を入れる寸前、森がまた姿を変えた。


 巨木の鏡が左右へ開き、道の奥に黒い階段が現れた。階段の一段一段には、俺がこれまで振るった剣の軌跡が刻まれている。血を弾いた跡。火花を散らした跡。折れかけた刃を無理に押し込んだ跡。それらが青く浮かび、階段の上へ続いていた。


 鏡の男は剣を下げ、俺の横に立った。


「次だ」


 俺はそいつを見た。倒したはずがない。斬ってもいない。だが、男はもう敵の距離にはいなかった。俺の隣に並び、階段の上を見ている。


 俺は眉をひそめたまま、階段へ足をかけた。


 一段目に乗った瞬間、身体が重くなった。鎧を着ているわけでもないのに、肩から背骨へ鉄を流し込まれたような重さが落ちてくる。二段目で腕が熱を持ち、三段目で膝が鳴った。鏡の樹々が階段の両側で高く伸び、幹の中に別の俺がいくつも映る。


 もっと速い俺。


 もっと強い俺。


 傷ひとつ負わず敵を退ける俺。


 倒れる前にすべてを断ち、守る者の前に血を見せない俺。


 鏡の中の俺たちは、一斉にこちらを見た。どれも俺より背筋が伸び、俺より剣が軽そうに見えた。息も乱れていない。額に汗もない。指の震えもない。


「それを手に取れ」


 鏡の男が、階段の先を示した。


 そこには、アストラルフレイムによく似た剣が浮いていた。けれど刃の色が違う。青ではなく、底のない白。炎の揺らぎもなく、温度を持たない光だけが刃の形を作っている。あれを握れば、今より速く斬れる。今より遠くへ届く。今より多くを守れる。


 喉が渇いた。


 強さが欲しくなかったわけじゃない。これまで何度も、あと少し力があればと思った。届かなかった手。遅れた足。守れたものの影で、ぎりぎり届いたからこそ残った傷。ミユウの羽に残る跡。アインとジュリアが眠ったあと、灯りの下で見つけた自分の掌の震え。


 もう少し強ければ。


 その言葉が、階段の上から降ってくる。


「パパ、いかないで」


 ジュリアの声が、背中に小さく刺さった。


 俺は振り返った。


 鏡の道の入口に、ミユウが立っていた。大きな羽でアインとジュリアを包むようにして、片手だけを俺へ伸ばしている。アインはミユウの腕の中から身を乗り出し、唇を噛んだまま俺を見ていた。ジュリアはミユウの服を握り、でも顔だけは隠していない。


「パパ、もうつよいよ」


 アインの声が、鏡にぶつかって何度も返った。


「パパは、じゅうぶんつよい」


 ジュリアが続けた。


「ジュリア、パパがそばにいるのがいい」


 階段の先の白い剣が、わずかに脈打った。


 俺はその光を見上げた。手を伸ばせば届く。届けば、何かが変わる。もっと遠い場所へ行ける。もっと高い敵へ届く。誰にも膝をつかずに済むかもしれない。


 その代わり、俺は何段先まで登る。


 子供たちの声が小さくなるところまで。


 ミユウの手が届かないところまで。


 帰るたびに、ただいまと言う前に次の戦いを見る場所まで。


 俺は足を下ろした。


 階段の一段が砕け、銀の粉が靴の周りに舞った。鏡の男が横目で俺を見る。


「上を選ばないのか」


「選ばない」


「現状のまま、届かない日が来る」


 俺はアストラルフレイムを持ち替えた。掌の傷口が柄に触れ、鋭い痛みが走る。その痛みが、俺の立つ場所を確かめさせた。


「届くために、家族の声が聞こえない場所へ行くなら、それは俺の強さじゃない」


 白い剣に亀裂が入った。


 鏡の中の強い俺たちが、一斉に剣を抜く。何十人もの俺が、階段の左右から飛び出してくる。刃が光り、足音が重なり、空と地面に同じ数だけ影が走った。


 俺は逃げなかった。


 最初の一人の剣を受け、押し返す。二人目の刃を肩の横で弾き、三人目の足元を踏み抜く。強い俺たちは速かった。軽かった。迷いがなかった。だからこそ、俺の間合いの中へ真っすぐ入ってきた。


 俺は傷を抱えた身体で、ほんの半歩だけずらした。


 強さだけを見ている刃は、その半歩の重さを知らない。背中に守る者がいる時、足はただ前へ出るだけじゃない。止まる。沈む。耐える。振り返らずに、後ろの息の数を測る。


 一人を斬り、二人目を砕き、三人目の剣をアストラルフレイムで受け止めた瞬間、白い剣が階段の上で粉々になった。


 光の破片が落ちてくる。


 それは雪のように見えたが、頬に触れると冷たくなかった。薄い硝子の欠片のように肌を撫で、すぐ消える。階段は跡形もなくなり、俺は鏡の森の地面に立っていた。


 ミユウが近づいてくる。羽の先が鏡の枝に触れ、白い輪郭が銀色に揺れた。アインとジュリアも走ってきそうになったが、ミユウの腕がそっと前に出て、二人の歩幅を抑えた。


「あなた」


 ミユウは俺の肩の傷に目を落とし、すぐに顔を上げた。


「まだ、進むのね」


「ああ」


 俺は頷いた。


 ミユウの目は揺れなかった。俺がどれだけ鏡に削られても、俺が戻る場所を間違えないと、最初からそこに置いてある灯りのように俺を見ていた。


「わたしは、ここにいます」


 その一言で、足の裏に力が戻った。


 俺は再び森の奥へ向かった。鏡の樹々はますます高くなり、枝は空を縫い合わせるように絡み、地面の鏡には俺たちの影が長く伸びた。進むほど、映るものが増える。俺の横顔。ミユウの羽。アインの握った拳。ジュリアの小さな靴。


 そして、映ってはいけないものまで混じり始めた。


 鏡の幹の奥に、赤い夕陽の部屋が浮かぶ。見たことのない寝台。金色の布。甘い匂いが風もないのに流れ、喉の奥へ絡みついた。俺は立ち止まりかけ、すぐに剣を上げた。


 鏡の中だけに、女の影が立っていた。


 顔ははっきり見えない。見えないのに、こちらの望む形に変わり続ける。髪の長さも、唇の色も、指の細さも、瞬きの間に違うものへ移り、鏡の中の赤い光をまとって俺へ手を伸ばしてくる。


 実体はない。


 鏡の表面に貼りついた、揺れる影だ。


 それでも、指先がこちらの頬に触れそうな位置まで近づいた時、首の後ろに薄い汗が浮いた。刃を上げる腕が重くなる。甘い匂いが濃くなり、耳元で誰かの声が溶けた。


「こちらを選べば、新しい暮らしをあげる」


 声は、鏡の中からだけ聞こえた。


「傷も、誓いも、父である重さも置いていけばいい。あなたは、まだ別の道を歩ける」


 俺は奥歯を噛んだ。


 鏡の中の影は、ミユウではなかった。ミユウに似せようとして、似せきれない。白い羽を映そうとして、羽の根元がない。俺を呼ぶ口の形を作っても、「あなた」の一言に残る温度までは作れない。


 それなのに、鏡はしつこく俺の目を捕まえた。


 赤い部屋の奥に、剣を置いた俺がいる。隣に、影が寄り添う。窓の外には知らない国の灯りがあり、そこにはアストリアの空も、子供たちの声もない。責める者もいない。待つ者もいない。守るために立ち続ける必要もない。


「あなたが選べば、それが本物になる」


 鏡の影の声が、足元の鏡面からも響いた。


「わたしを選びなさい」


 背後でアインが息を吸った。


「パパ……?」


 ジュリアの指が、ミユウの服を握る音がした。


 ミユウは何も言わなかった。


 何も言わないまま、俺を見ている。その沈黙が、俺の胸に刃より深く届いた。疑っていない。縛ってもいない。俺が斬ると、ただ知っている。


 鏡の中の影が笑ったように見えた。


「その女は、あなたを戦いへ縛る。子供たちは、あなたを地面へ縛る。こちらへ来れば、あなたは自由になれる」


 俺は一歩、鏡へ近づいた。


 足元の鏡に映った俺の顔は、赤い光で半分染まっていた。刃先を下げれば、鏡の影はさらに近づく。指先が鏡の内側から表面へ触れ、薄い波紋が広がった。


 自由。


 その言葉だけが、鏡の幹を伝って何度も返る。


 俺は左手を胸元へ当てた。そこには、ミユウと生きてきた時間が見えるわけじゃない。ただ布と汗と、戦いで擦れた肌の感触があるだけだ。けれど、その奥に何度も聞いた声が残っている。あなた。パパ。おとうさん。行ってらっしゃい。帰ってきて。


 自由が、誰の声も連れてこないなら。


 そんなものを、俺は欲しいとは呼ばない。


 俺はアストラルフレイムを持ち上げた。


 鏡の影が、初めて形を乱した。顔がミユウに寄りかけ、すぐに別の女の輪郭へ逃げる。白い羽を真似たものが背中に生えかけ、根元から硝子の屑になって落ちる。


「俺は」


 喉が焼けるように熱かった。


 俺は鏡へ向かって、刃を構えた。


「最初からミユウの物だ」


 森が鳴った。


 鏡の樹々の幹が震え、地面と空の境目が揺らぐ。アインとジュリアの息が背中で止まり、ミユウの羽が風もないのに大きく広がる気配がした。


「俺の帰る場所も、剣を置く場所も、隣で名前を呼ぶ人も、もう決まってる」


 鏡の影が手を伸ばした。


 俺の頬へ届く前に、俺は踏み込んだ。


 アストラルフレイムの刃が、鏡の表面へ食い込む。硬いはずの鏡は、水面のようにたわみ、その奥で赤い部屋が裂けた。影の唇が何かを叫ぶ形になったが、声は出なかった。刃を振り抜く。白い火の筋が、鏡の中だけを走り、影の輪郭を肩から腰へ断った。


 鏡が砕けた。


 赤い光が砂のように崩れ、甘い匂いが一瞬で消えた。硝子の破片が雨のように降り注ぐ。俺は剣を引き戻し、ミユウたちの前に立った。破片はアストラルフレイムの青い光に触れ、空中で細かく砕けて消えていく。


 最後の破片が俺の頬をかすめた。


 薄く切れた皮膚に、冷たい痛みが走る。


「あなた」


 ミユウが近づいた。


 俺は振り返った。ミユウの羽には傷ひとつ増えていない。アインは目を大きく開けたまま、俺の剣と砕けた鏡を交互に見ている。ジュリアは唇を震わせ、それでも泣かずに俺へ両手を伸ばした。


「パパ、こわくなかった?」


 ジュリアの声は小さかった。


 俺は膝をつき、剣を横へ置いた。鏡の地面に膝が触れると、冷たさが布越しに染みてくる。ジュリアが胸元へ飛び込み、アインも少し遅れて俺の腕にしがみついた。


「こわいものは、あった」


 俺は二人の背中に腕を回した。


「でも、パパはここにいる」


「パパ、あのぴかぴかのけん、とらなかった」


 アインが俺の服を握ったまま言う。


「ああ」


「もっとつよくなれるのに?」


「お前たちの声が聞こえないところまで行くなら、いらない」


 アインは眉を寄せ、少しだけ口を尖らせた。五歳の顔で、それでも何かを呑み込もうとしている。ジュリアは俺の胸に額を押しつけ、息を細く吐いた。


「パパは、もうつよいよ」


 ジュリアの声が、服の中でくぐもった。


「パパ、ジュリアたちのところにかえってくるもん」


 アインが頷いた。


「うん。パパは、ちゃんとかえってくる。だから、つよい」


 言葉が喉で詰まりかけた。


 俺は二人を抱き寄せた。小さな身体の重みが腕にかかる。戦いの疲れで痺れていた指が、その重さを受け止めるためだけに動いた。


 ミユウが俺の前に膝をついた。


 白い羽が俺たちを包むように広がり、銀の森に柔らかな影を落とす。ミユウの指先が、俺の頬の傷に触れた。ほんの少し痛む。その痛みを、俺は逃がさずに受けた。


「信じていたわ」


 ミユウはそう言った。


 俺はミユウを見た。鏡の森の光が、彼女の銀髪を枝の影ごと揺らしている。赤い部屋の甘い匂いも、白い剣の冷たい光も、普通の生活の軽さも、ここには残っていなかった。


 残ったのは、ミユウの指の温度と、腕の中の二つの重みだけだった。


「ミユウ」


「はい」


「俺は、お前を選ぶんじゃない」


 ミユウの指が、頬の上で止まった。


 俺はアインとジュリアを抱いたまま、彼女から目を逸らさなかった。


「選び直すまでもない。最初から、お前の隣にいるって決めてる」


 ミユウの唇がわずかに開いた。言葉は出ない。代わりに、彼女の羽が俺の肩に触れた。羽根の一枚一枚が、切れた頬の近くでかすかに震える。


「あなた」


 その呼び方だけで、胸の奥に残っていた鏡の欠片が砕けた。


 俺はアストラルフレイムを拾い、立ち上がった。アインとジュリアをミユウのそばへ戻し、もう一度、森の奥を見る。砕けた鏡の向こうに、細い道が生まれていた。地面も空も鏡のままだが、そこに映る俺の顔は、もう何重にも分かれていない。


 ただ、疲れた顔をした二十六歳の男が、剣を持って立っている。


 父親で、夫で、勇者で。


 それ以外の何かになれと言われても、もう足が向かない男が。


「行こう」


 俺が言うと、ミユウが頷いた。アインは自分の足で立ち直し、ジュリアはミユウの手を握ったまま、俺の服の端にも指を伸ばした。


「パパ、て、つないで」


 俺は空いている左手を差し出した。ジュリアの小さな手が、俺の指をぎゅっと掴む。アインは反対側から俺の袖を掴み、少しだけ胸を張った。


「ぼくは、じぶんであるく」


「転ぶなよ」


「ころばない」


 言った直後、アインの足元で鏡の小さな段差が光り、彼は慌てて踏みとどまった。ミユウがふっと息を漏らし、ジュリアが俺の指を握る力を強める。俺は笑わなかった。ただ、袖を掴むアインの指が離れないよう、歩幅を少しだけ狭くした。


 森の奥へ進む。


 鏡の樹々は、もう誘惑の景色を映さない。代わりに、俺たちの歩く姿だけを何度も映した。ミユウの羽が揺れる。ジュリアの髪が頬にかかる。アインの靴が鏡面を叩く。俺の剣が青い光をこぼし、その光が空にも地面にも流れていく。


 道の先で、一本だけ黒い鏡の樹が立っていた。


 他の樹々と違い、その幹は何も映していない。光も、影も、俺たちの姿も飲み込んで、ただ深い黒だけを抱えている。近づくほど、足元の鏡が冷えていく。ジュリアの手が、俺の指に食い込んだ。


「パパ、あそこ、いや」


「俺の後ろにいろ」


 アインが息を吸い、ミユウが二人を引き寄せる。俺はアストラルフレイムを前に出した。青い光が黒い幹に触れる寸前、幹の表面に細い亀裂が走った。


 中から、俺たちの声ではない音が漏れた。


 水の底で金属を擦るような、低い音。


 俺は剣の柄を握り締め、踏み出した足裏に、鏡の冷たさが刺さった。

お読み頂きvery very thanks‼︎です。少しでもおもしろいと思われましたら、評価、ポイント、ブクマ入れてくださると泣いて喜びます!

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