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【Season2】白い羽根の彼女を守るため、ただの高校生だった俺は勇者になる  作者: 東雲 明
第10章 エクリプシス島編

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第148話 霧の島へ 父は剣を握る

 船室の天井が、波に合わせてゆっくり歪んで見えた。吊り下げられた小さな灯りが、木の壁に金色の輪を揺らし、濡れた甲板を踏む音が頭の奥でこすれた。背中を預けた寝台は硬く、布越しに伝わる板の角が肩甲骨を押していたのに、指先は剣の柄を探したまま力が抜け、アストラルフレイムの鞘に触れたところで止まっていた。


 胸の奥が、錆びた鎖で引かれるみたいに重かった。息を吸うたびに、肋骨の内側へ薄い刃が滑り込む感触が残り、喉の奥に血の味ではない鉄の匂いが絡みつく。目を閉じたつもりはなかったのに、灯りの輪郭がにじみ、ミユウの白い羽が視界の端で揺れ、アインの小さな足音とジュリアの袖をつまむ音が、遠い水底から浮かぶ泡みたいに途切れていった。


 「あなた」ミユウの声が、帆布を撫でる風より近くで落ちた。返事をしようとして舌を動かしたが、唇の間を通ったのはかすれた息だけだった。アインが寝台の横へ身を乗り出し、俺の腕に小さな手を置く。ジュリアはミユウの衣の端を握ったまま、俺の胸元をじっと見ていた。灯りが一度大きく揺れ、子どもたちの影が壁に伸びたところで、俺のまぶたは波の重さに沈んだ。



 龍夜の指が、鞘から離れなかった。


 ミユウは寝台のそばに膝をつき、龍夜の手の甲にそっと自分の指を重ねた。硬くなっていた指先は、戦いの熱を残したまま冷えはじめていて、爪の際には石壁を削った粉が白く入り込んでいた。拭き取ろうと布を伸ばすと、龍夜の眉間がわずかに寄り、ミユウは手を止めて、羽の先だけを灯りの影へ引いた。


 船は波を越えるたび、低く軋んだ。壁の隙間から潮の匂いが入り、机の上に置いた水差しの水面が細かく震える。アインは椅子の脚に片足を引っかけ、背伸びをして龍夜の顔をのぞき込んでいたが、ミユウが人差し指を唇に当てると、慌てて自分の口を両手で押さえた。


 ジュリアはそれを見て、同じように小さな両手で口をふさいだ。けれど指の隙間から息が漏れ、くすぐったそうに肩が揺れる。銀の髪が頬にかかり、小さな羽が背中で一度だけ跳ねた。


 「パパ、ねちゃった?」


 ジュリアの声は、灯りの芯が燃える音に混ざるくらい細かった。ミユウは龍夜の胸の上下を見てから、うなずいた。


 「たくさん剣を振ったから、少しだけ目を閉じているの」


 「すこしだけ?」


 アインが椅子から降り、床に足をつけた途端、船が斜めに揺れて、両腕を大きく広げた。踏ん張った靴の底が木床をきゅっと鳴らし、すぐに自分で頷く。


 「パパ、つよいから、すぐおきるよ。ぼくがみはりする」


 「みはり?」


 ジュリアが首をかしげると、アインは胸を張って寝台の横に立った。小さな背中の羽が力んだみたいに持ち上がり、腰には剣もないのに、手だけが勇者の形を作っていた。


 「まおうがきたら、ぼくが、こうやって、ずばってする」


 アインは小さな手刀を空中へ振った。風を切る音の代わりに、袖がぱたんと鳴っただけだったが、その目は灯りを受けて丸く光っていた。ジュリアは一歩下がり、ミユウの膝に体を寄せながらも、アインの手の動きを追っていた。


 「まおう、ここにくるの?」


 「こないよ。だって、パパがいるから」


 アインは即答してから、寝台の上の龍夜を見た。龍夜の胸が浅く上下し、額にかかった黒髪が汗で貼りついている。アインの肩が少し下がり、小さな手が胸の前で握られた。


 「でも、パパのおむね、またいたくなった」


 ジュリアがミユウの衣をつまむ手に力を入れた。白い布に、小さな指の跡が寄る。ミユウはその指を包み、冷えた指先を掌の中にしまった。


 「あなたのそばにいるとき、パパは何度でも立ってくれる。けれど、立った分だけ、体に重さが残るの」


 「おもさ、ぼくがもつ」


 アインは寝台の端に両手をつき、体を乗り出した。龍夜の胸のあたりへ触れようとして、途中で指を止める。起こしてはいけないと思い出したのか、手を引っ込め、代わりに毛布の端をそっと直した。


 ジュリアもミユウの膝から離れ、反対側から毛布を小さく引いた。左右で力の強さが違い、毛布の端が少し斜めになる。アインが自分の方を見比べ、眉を寄せた。


 「ジュリア、そっち、ひっぱりすぎ」


 「おにぃちゃんのほうが、ぐちゃってした」


 「ちがうよ。ぼくは、パパがさむくないようにした」


 「ジュリアもした」


 二人の声が少しだけ重なり、龍夜の眉が動いた。ミユウがすぐに手を伸ばすと、アインとジュリアは同時に口を閉じた。見つめ合ったまま、今度は息だけで笑い、肩を揺らす。船室の灯りが二人の銀髪を淡く照らし、壁に並んだ小さな影が、波に合わせて伸びたり縮んだりした。


 ミユウは毛布の斜めになった端を直し、龍夜の胸元に布が触れすぎないよう隙間を作った。指先が衣越しに硬い呼吸を感じ取り、胸の奥で冷えたものが沈んだが、ミユウは龍夜の額にかかった髪だけを払った。


 「ママ」


 ジュリアがミユウの袖を引いた。


 「ジュリア、ママみたいになれる?」


 ミユウの羽が、灯りの光を受けて白く揺れた。答えを急がず、ジュリアの目の高さまで身をかがめる。ジュリアは自分の背中の小さな羽へ手を伸ばし、指先で羽の端を撫でた。まだ短い羽毛が、触れられてふわりと広がる。


 「ママみたいに、パパをまもるの。まおうをやっつけて、パパのおむねがいたいのがなおったら、ジュリア、ママみたいな、さいこうてんしになる」


 最後の言葉だけ、ジュリアは両手を胸の前で握りしめた。声は小さいのに、指先の白さが変わるほど力が入っていた。アインが横から顔を出し、負けないように片手を上げる。


 「ぼくもなる!」


 「おにぃちゃんは、てんしなの?」


 ジュリアが目を丸くすると、アインは一瞬だけ口を開けたまま固まった。けれどすぐに胸を張り直す。


 「ぼくは、てんしじゃなくても、パパみたいになる。けんをもって、まおうを、どーんってする。そしたら、パパのおむね、いたくなくなる」


 「じゃあ、ジュリアは、はねでパパをつつむ」


 ジュリアは両腕を広げ、自分の羽まで大きく広がったつもりで龍夜のほうへ体を傾けた。実際には寝台の縁にも届かず、羽の先がミユウの腕をくすぐっただけだった。ミユウがそっと支えると、ジュリアは唇を結び、もう一度腕を広げる。


 「こうやって、ぎゅってするの。ママみたいに」


 「じゃあ、ぼくはまえにたつ」


 アインが龍夜の足元へ回り込み、船室の扉を睨む。扉の向こうでは、船員の足音が遠く通り、ロープが柱に当たる乾いた音が響いた。アインはその音にも反応して肩を跳ねさせたが、すぐに顎を上げた。


 「だれがきても、ぼくがとめる」


 「おにぃちゃん、ころばないでね」


 「ころばない。さっき、ふねがゆれただけ」


 「さっき、ちょっと、わあってなってた」


 「なってない」


 アインは頬を膨らませ、ジュリアはミユウの陰に半分隠れながら目だけで笑った。ミユウは二人の間に手を置き、龍夜の方へ視線を戻した。眠る横顔は、戦場で剣を振るうときより幼く見えた。黒髪の間に残る砂粒、唇の端に乾いた白い筋、指の節に刻まれた傷。アインとジュリアの言葉が、そこへそっと積もっていく。


 「パパ、きこえてるかな」


 ジュリアが龍夜の手の近くへ顔を寄せた。触れたいのに触れない距離で止まり、小さく息を吸う。


 「ジュリア、さいこうてんしになるよ。だから、パパ、いっぱいねてね」


 アインも膝を折り、龍夜の手元へ視線を合わせた。


 「ぼく、けんのれんしゅうする。ママにおこられないくらい、ちゃんとする。あと、ジュリアをなかせない」


 「なかないもん」


 「でも、このまえ、スープがあつくて」


 「それは、おくちがびっくりしただけ」


 ジュリアが頬を押さえると、アインは言葉を飲み込んだように口を閉じた。ミユウは水差しのそばに置いた小さな杯を取り、二人へ差し出す。アインは先に受け取り、ひと口飲んでからジュリアへ渡した。ジュリアは両手で杯を抱え、ちびちびと水を飲む。喉が動くたび、小さな羽が背中で上下した。


 船がまた大きく揺れ、棚の上の木箱がこつんと壁に当たった。アインはすぐに龍夜の毛布を押さえ、ジュリアは杯を胸に抱えたままミユウの膝へ戻る。ミユウは龍夜の胸に手をかざし、光を出さないまま、息の乱れだけを指先で追った。


 「ママ、パパのおむね、なおせないの?」


 ジュリアの問いが、木壁に当たって沈んだ。ミユウは龍夜の胸元から手を離し、ジュリアの髪を耳の後ろへかけた。


 「パパの中にあるものは、パパが剣を握って進むたびに形を変えるの。ママは、その剣が折れないようにそばで支える」


 「じゃあ、ジュリアもそばにいる」


 「ぼくも」


 アインは当然みたいに言い、寝台の脚に背中を預けた。小さな膝を抱え、扉と龍夜の顔を交互に見る。見張りをすると言った姿勢のまま、まぶたが少しずつ下がり、慌てて目を開く。その動きに気づいたジュリアが、自分の袖で口元を隠した。


 「おにぃちゃん、ねむい?」


 「ねむくない。みはりだから」


 「おめめ、とじた」


 「まばたき」


 「ながいまばたき」


 アインは返す言葉を探し、口を尖らせた。ミユウが寝台の下から小さな毛布を出すと、アインはすぐに首を振った。


 「いらない。ぼく、みはり」


 「座っている足にだけかけましょう」


 ミユウが足元へ毛布をかけると、アインは不満そうにしながらも払わなかった。ジュリアは自分も同じものを欲しがるようにミユウを見上げたので、ミユウは羽の端でそっと包んだ。ジュリアは羽の白い陰に頬を寄せ、龍夜を見つめた。


 「パパ、アルカヌムしまについたら、またがんばるの?」


 「あなたは、きっと剣を取るわ」


 ミユウは答えながら、龍夜の手を見た。鞘から離れた指が、今は毛布の上でわずかに曲がっている。その掌には、アインとジュリアの小さな言葉を受け止めるだけの余白が残っていた。


 「じゃあ、ジュリアもがんばる」


 「ぼくも。まおうをやっつける」


 「おにぃちゃん、まおうにあったことある?」


 「ない。でも、パパがたたかうなら、わるいやつ」


 「じゃあ、ジュリア、パパにおくすりのおはな、さがす」


 「ぼくがまもるから、ジュリアがさがして」


 「うん」


 二人は小さな声で役目を分け合い、互いの指を少しだけ触れ合わせた。約束の形を知らないまま、そこにあるものを掴むように。ミユウはその手を見て、胸の前で重ねた自分の指に力を込めた。


 龍夜の呼吸が、ほんの少し深くなった。ミユウはすぐに身を乗り出し、額に触れる。熱はまだ残っている。けれど、眉間に刻まれていた皺がわずかにほどけ、閉じたまぶたの下で目が動いた。


 「あなた」


 呼びかけは、船室の灯りよりも低く落ちた。



 水の音が耳の奥で割れた。


 まぶたを開けると、最初に見えたのは木の天井でも灯りでもなく、俺の手に重なった小さな指だった。アインの指が毛布の端を握ったまま止まり、その横でジュリアの手が、俺の袖をほんの少しだけつまんでいる。二人とも起きているのか眠っているのか分からない顔で、俺のそばにいた。


 胸の奥がまだ重い。息を吸い込むと、肋骨の裏で古い傷が擦れる。喉の乾きに舌を動かすと、ミユウが杯を差し出した。体を起こそうとした瞬間、肩から背中にかけて硬い痛みが走り、思わず寝台の縁を掴む。


 「あなた、急に起きないで」


 ミユウの手が背中に回り、羽の影が視界の端に白く入った。杯の水を口に含むと、冷たさが舌から喉へ落ち、胸の奥の熱を少しだけ押し下げる。アインが膝を立てて身を起こし、寝ぼけた目をこすった。


 「パパ、おきた?」


 「ああ。見張り、してくれてたのか」


 アインは一瞬だけ目を丸くし、すぐに背筋を伸ばした。足にかかった毛布がずり落ち、慌てて手で押さえる。


 「うん。ぼく、ずっとみてた」


 ジュリアがミユウの羽の中から顔を出し、アインの横顔を見上げた。


 「おにぃちゃん、ながいまばたきしてた」


 「してない」


 「してた」


 「……ちょっとだけ」


 アインが小さく認めると、ジュリアは満足したみたいに俺の袖を離し、両手を胸の前で握った。寝癖のついた銀髪が頬に貼りつき、羽の先がまだ眠気を残して下がっている。


 「パパ、ジュリア、ママみたいな、さいこうてんしになる」


 声は小さかったのに、言葉の最後で俺の胸の奥が別の形に押された。痛みとは違う。けれど、そこにも刃のような重さがあった。俺は手を伸ばし、ジュリアの髪に触れた。細い髪が指の間をすり抜け、灯りを受けて銀色に揺れた。


 「そうか」


 それだけで喉が詰まった。ジュリアは俺の指に自分の頬を少し寄せ、すぐに照れたようにミユウの方へ隠れる。アインが横から前に出て、俺の手首をそっと掴んだ。


 「ぼくは、パパみたいになる。けんをもって、まおうをやっつける。そしたら、パパのおむね、いたくなくなる」


 俺の手首を掴む指は、小さくて温かかった。力を入れすぎないようにしているのが伝わる。俺はその指を包み返し、アインの目を見た。そこには、まだ剣の重さを知らない光があった。だからこそ、簡単に触れてはいけないものがあった。


 「剣は、誰かを泣かせないために握れ」


 アインは意味を全部飲み込めないまま、それでも真剣に頷いた。ジュリアがミユウの羽の陰から小さく手を上げる。


 「ジュリアは、おはな、さがす。パパのおむねに、ぺたってする」


 「花か」


 「おくすりのおはな。ママとさがす」


 ミユウが俺を見る。その瞳に灯りの金色が揺れ、白い羽の奥に影が落ちていた。俺が眠っている間、この船室でどんな声が交わされたのか、全部は分からない。けれど、毛布の直された端、杯の位置、子どもたちの眠気を残した目、ミユウの指先の冷え方が、俺の知らない時間を並べていた。


 船体が大きく傾いた。壁の丸窓に、灰色のものが流れた。雲ではない。海から立ち上がる霧が、窓の外を濡れた布みたいに覆っていた。灯りの輪が薄まり、船室の木目が青白く変わる。


 俺は寝台から足を下ろした。床板の冷たさが足裏に刺さり、ふらついた膝をアストラルフレイムの鞘で支える。ミユウの手がすぐに肘へ添えられたが、俺は首を振らず、そのまま窓へ近づいた。子どもたちも毛布を引きずりながらついてくる。


 「パパ?」


 アインが俺の横に立ち、窓の外を見ようとして背伸びをした。俺は片腕で支え、ジュリアはミユウの袖を握ったまま、丸窓の下から顔を上げる。


 霧の向こうに、黒い輪郭が浮かんでいた。


 海面から突き出した岩が、獣の背骨みたいに並び、その奥で島の影がじっとこちらを待っている。白く濁った霧の中に、尖った塔の残骸らしきものがいくつも突き出し、崖の縁には枯れた木々が腕を伸ばすように傾いていた。波が岩に当たるたび、砕けた泡が白い牙みたいに跳ね、船底へ鈍い衝撃が伝わる。


 アルカヌム島。


 名前を胸の中で転がしただけで、さっきまで眠りに沈んでいた体の奥が冷えた。崩れる塔の感触が掌に戻る。石が指を削り、足場が抜け、下で海が黒く開いていた。次の試練が何を差し出すのか、霧は何も見せないまま、ただ近づいてくる。


 「アルカヌム島は、もうすぐだ」


 声に出すと、アインが息を止めた。ジュリアの手がミユウの衣をさらに強く握り、ミユウの羽が二人の背中を包むように動いた。俺は窓枠に手を置き、濡れた木の冷たさを掌で受ける。


 島の崖の上で、青白い光が一瞬だけ点いた。


 ルーン文字か、灯りか、それとも罠か。霧がすぐに飲み込み、何もなかったみたいに海だけが鳴った。俺の胸の奥で、眠っていた痛みが爪を立てる。アストラルフレイムの柄に指をかけると、鞘の金具が小さく鳴った。


 アインが俺の服の端を掴む。


 「パパ、ぼくもいく」


 ジュリアも、ミユウの羽の陰から顔を出した。


 「ジュリアも、そばにいる」


 俺は二人の頭に片方ずつ手を置いた。柔らかい髪と、小さな体温。霧の冷たさが窓から入り込み、俺の指先を濡らしていく。


 「離れるな」


 船がまた岩の間を抜け、底から突き上げるように揺れた。遠くで鐘のような音が一度だけ響き、霧の奥の島が、ゆっくり口を開けた。

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