第149話 愚者の試練ーー落ちずに守るために
新章、タロットカードを元にした試練や選択の章です。大アルカナの、7つの試練で構成されます。占い、タロット好きさんには特におすすめです。
岩肌を削る音が、耳の奥で砕けた。
右手の指先に食い込んだ石の縁が、爪の下をめくるように冷たく裂き、湿った霧が袖の中へ忍び込んでくる。足の下には何もなかった。
踏みしめていたはずの崖道は、俺のかかとの先でぽっかり途切れ、霧に沈んだ底から、波とも風ともつかない低い唸りだけが這い上がってくる。
左手は空を切り、右手一本で崖の角にぶら下がったまま、俺は顎を岩にぶつけ、歯の奥に鉄の味を広げながら、眼下の白い闇を睨みつけた。
アルカヌム島の霧は、ただ視界を奪うだけじゃなかった。
肌に触れた途端、薄い布を何枚も顔に押し当てられるように息が重くなり、遠くの樹々は濡れた墨を引きずった影になって揺れ、黒い石柱には青白いルーンが脈打つたび、霧の粒が細かな光を含んで震えた。
崖の上に残ったミユウの羽音が、一度だけ掠れて聞こえた気がした。
アインの小さな靴が石を蹴る音も、ジュリアの飲み込んだ息も、すぐそばにあるはずなのに、厚い霧の向こうで水に沈められたみたいに歪んでいる。
「パパ!」
アインの声が、霧の壁を破って落ちてきた。
その声に反射して、右腕が勝手に跳ねた。石の角が掌の皮を削り、熱い痛みが肘まで走る。
落ちるわけにはいかない。俺が落ちれば、あの小さな足が前へ出る。
ミユウが止めても、アインは身を乗り出す。ジュリアは泣く前に手を伸ばす。そんな光景が、胸の内側を爪で引っかいた。
「こっちに来るな!」
喉から出た声は、霧に吸われてすぐ細くなった。
崖の縁に、白い小さな手が見えた。ジュリアの指だった。
濡れた石の上を必死に掴み、袖口の白が灰色に汚れている。すぐ隣で、アインの影が膝をついた。ミユウの羽が霧を裂き、淡い光をまとってふたりの前に広がる。
「アイン、ジュリア、下がって」
ミユウの声は低く、けれど羽の根元から震えが伝わるほど鋭かった。
「でも、パパが」
「下がって。あなたを助ける手を、ふたりで塞がないで」
石の縁から、アインの靴音が一歩だけ離れた。ジュリアの指はまだそこに残っていた。小さな爪が石に立ち、濡れた霧を払うように震えている。
「ジュリア」
俺は岩に顎を押しつけ、息を細く吐いた。
「パパは、まだ落ちてない」
白い指がぴくりと止まった。霧の向こうで、ジュリアが唇を噛んだ気配がした。
「……パパ、て、はなさないで」
「ああ」
返事をした瞬間、崖の底から風が巻き上がった。
白い霧が渦を巻き、俺の足元に黒い穴が開いた。落ちれば終わりだと、体が先に知った。
腹の奥が縮み、肩が硬くなり、右手の指が岩の角をさらに深く噛む。足を上げようにも、靴底は空を蹴るだけで、岩壁にはわずかな出っ張りもない。湿った苔が膝に触れ、すぐに千切れて落ちた。
だが、落ちたはずの苔の音が聞こえなかった。
俺は目を細めた。
波の唸りはする。底の闇もある。霧は冷たい。指の痛みは本物だ。肩の筋が焼けるように突っ張り、息を吸うたびに肋骨が岩に擦れる。全部、本物みたいに俺へ噛みついてくる。
それでも、落ちた苔の音だけがない。
アルカヌム島の崖は、最初から異様だった。霧に包まれた道は、見える距離が腕一本分しかなく、足を置くたびに石畳の継ぎ目が少しずつ形を変えた。
背後にあったはずの黒い門は、振り返ったときには斜めに傾いた石柱へ変わり、前方の樹は幹をねじりながら、俺たちを覗き込む人影みたいに伸びていた。
ルーンは壁にも地面にも刻まれているのに、どこにも同じ文字列がない。読むほどにずれ、見つめるほどに沈む。島全体が、目を開けたまま見る夢の中にあった。
俺の右手の上、崖の縁でミユウが膝をついた。
白い羽が霧を押し返し、その羽先に小さな水滴がいくつも光った。
銀髪が頬に張りつき、青白いルーンの明滅に合わせて、ミユウの瞳の奥が薄く揺れる。差し出された手は、俺の手首まで届きそうで届かない。
「あなた、左手を」
俺は左腕を上げようとした。
その瞬間、崖の底から別の声がした。
「パパ」
胸の真下で、空気が止まった。
聞こえたのはジュリアの声だった。上からじゃない。下からだ。霧の底、黒い穴の中から、細く湿った声が俺を呼んでいる。
「パパ、こっち」
ありえない。
ジュリアは上にいる。さっき指が見えた。声も上から聞こえた。
俺は顎を岩に押しつけたまま、目だけを下へ向けた。霧が裂ける。白い底に、小さな影が立っていた。
白いナイトガウンみたいな衣が風で揺れ、小さな羽が濡れて垂れ、こちらへ両手を伸ばしている。
「ジュリア?」
名前が喉の奥で擦れた。
上で本物のジュリアが息を飲む音がした。
「パパ、わたし、ここ」
今度は上から聞こえた。
下の影は、同じ声で笑った。
「パパ、はやく」
右手の指先から力が抜けかけた。
落ちれば助けられる。そんな形に、霧が世界を組み替えてくる。
頭では違うとわかるのに、体が揺れる。崖の底にジュリアがいるなら、俺は迷わず手を離す。考えるより先に落ちる。親になってから、俺の体にはそういう癖が刻まれてしまった。
ミユウの手が、空中で止まった。
「あなた、見ないで」
声に、羽を広げたときの風圧が混じった。
「愚者の試練は、足場を奪う試練じゃない。見たいものを見せて、守りたいものの形で落とす試練です」
愚者。
その言葉が、濡れた石の上で硬く転がった。
俺は唇の内側を噛んだ。血の味が濃くなる。下のジュリアの影が、俺へ小さな手を伸ばす。手首は細く、指は冷たそうで、少しでも遅れれば霧に飲まれて消えそうだった。
「パパ、たすけて」
上のジュリアが、短く息を震わせた。
「わたし、そんなこと、いってない」
その一言が、霧の底に落ちた。
俺は歯を食いしばった。
そうだ。
本物のジュリアは、いま上にいる。俺の左上、ミユウの羽の後ろ。声の高さも、息の切り方も、袖を掴む癖も、俺は知っている。下の影は泣いていない。
助けを求めるくせに、靴の爪先が濡れていない。霧の底に立っているのに、衣の裾が揺れるだけで、水の重みがない。羽も濡れて垂れているように見えるだけで、一枚一枚の羽根が息をしていない。
俺は下の影から目を離さなかった。
怖いからじゃない。
そいつがどこで嘘をつくのか、見届けるためだ。
「ジュリアは」
右腕の筋が、限界を越えて震えた。
「俺を落とすために、そんな顔をしない」
下の影の目が、黒く広がった。
霧が一瞬、笑うように歪む。小さな口が裂け、ジュリアの声の奥から、濡れた木を踏み潰すような音が混じった。
手を伸ばしていた腕が細長く伸び、指が岩壁に触れるほど近づく。俺の靴先に、冷たいものが絡みついた。
上でアインが叫んだ。
「パパのあしに、なんかいる!」
足首を掴む感触があった。人の手じゃない。藻を束ねたようなぬめりが靴の革を締めつけ、下へ引く。
俺の右肩が外れそうになり、視界の端が白く弾ける。ミユウの羽が大きく広がり、霧の中で黄金の粒が散った。
「あなた、アストラルフレイムを」
剣。
腰の剣は、右側にある。右手は岩を掴んでいる。左手は空中。抜けない。届かない。引かれる。指が一本、石から剥がれた。
アインの靴音がまた近づいた。
「アイン、戻って!」
「でも!」
「戻るんだ、アイン!」
俺の声に、アインの足が止まった。
その一瞬でいい。
俺は左手を岩壁へ叩きつけた。爪が滑り、掌が苔を潰す。
出っ張りはない。けれど、青白いルーンが刻まれた浅い溝があった。指先をそこへねじ込み、皮膚が裂けるのも構わず押し込む。痛みが、頭の芯を叩いた。
痛みは本物だ。
なら、その痛みを錨にする。
足首のぬめりが、もう一段強く引いた。右手の石が軋む。俺の体が崖から離れ、胸と岩の間に霧が入り込む。下の影が、ジュリアの顔で笑う。
「パパ、こっちだよ」
「違う」
俺は左手の指を、ルーンの溝にさらに押し込んだ。
「俺の子は、俺を下に呼ばない」
ルーンの光が、指の血に触れた。
青白かった文字が、赤く滲む。溝の奥から熱が立ち上がり、掌を焼くように広がった。
霧がざわつき、足首のぬめりが一瞬ゆるむ。俺はその隙に膝を壁へぶつけた。膝頭に鈍い衝撃が走り、靴底が見えない段差を踏んだ。
あった。
さっきまで何もなかった岩壁に、足を乗せる場所がある。
見えないんじゃない。見せられていなかった。
俺は息を吐き切り、右手の指を立て直した。左手はルーンの溝から抜けないほど血で滑っていたが、かえって逃げなかった。
足裏にある段差の幅は、靴半分もない。体重をかければ崩れそうな細さ。だが、そこに重さが返ってくる。空じゃない。崖はある。道もある。俺の目に、ないと刷り込まれていただけだ。
「ミユウ、俺の腕じゃない」
岩に頬を押し当てたまま、俺は声を絞った。
「肩の布を掴め」
ミユウは一瞬だけ息を止め、すぐに白い羽を畳んで身を低くした。伸びてきた手が、俺の肩の白布と金具をまとめて掴む。布が引き裂ける音がした。だが、腕を引かれるよりいい。右肩を壊さずに済む。
「アイン、ジュリア」
ミユウの声が、霧を切った。
「後ろの石柱まで下がって。振り返らないで」
「パパをみないの?」
「今は、あなたたちが足を止めるほうが、パパの力になります」
小さな足音が二つ、石の上を離れていく。ジュリアの息が途中で詰まり、アインが何かを飲み込むように鼻を鳴らした。俺はその音を数えた。一歩、二歩、三歩。石柱のあたりで、羽が少し擦れる音が止まる。
よし。
俺は左足を、見えない段差へ探るように伸ばした。霧はまだ底を見せている。下の影はジュリアの形を崩し、今度はアインの顔を作り始めた。黒髪。尖った目。いつもなら何かを見つけて駆け出す前の、あの表情。
「パパ、こっちにすごいのある」
胸の奥が、短く跳ねた。
アインの声まで真似るのか。
「こわくないよ。おれ、ひとりでいける」
舌の付け根が苦くなった。
本物のアインなら、言いそうな言葉だった。だからこそ質が悪い。
独りで行けると言いながら、振り返って俺が見ているかを確かめる。助けはいらないふりをして、ほんの少しだけ褒められるのを待つ。こいつはその癖を、どこまで読んでいる。
俺は歯を食いしばり、見えない段差へ左足を乗せた。
重さが返る。
霧が唸った。
「アインは」
右手を岩の上へ、少しずつ引き上げる。
「俺の目が届かない場所へ、黙って誘わない」
下のアインが、首を傾けた。
顔が歪む。皮膚の下に黒い水が流れるみたいに、頬が波打つ。ジュリアとアインの輪郭が混ざり、二つの声が重なる。
「パパ」
「パパ」
やめろ。
その音だけで、体が持っていかれる。
俺は岩に額をぶつけた。鈍い痛みで視界が揺れ、霧の中の声が一拍遅れる。痛み。血の味。濡れた石の冷たさ。ミユウの手が布を掴む強さ。遠くで堪えている小さな息。
目の前にあるものだけを拾え。
俺は父親だ。けれど、父親である前に、今この崖を登る手足を持っている。手を離して落ちることが守ることになるとは限らない。落ちずに戻る。戻って、あのふたりの前に立つ。それが今の俺の仕事だ。
「ミユウ、引け!」
言い終えるより早く、ミユウの羽が開いた。
白い羽が霧を叩き、風が崖の上から下へ流れる。肩の布が悲鳴を上げ、金具が胸に食い込んだ。
俺は右手を岩の上へ滑らせ、肘を乗せる。足首のぬめりが最後の力で引き戻そうとする。靴の革が軋み、足の甲に冷たい爪が沈んだ。
俺は左手をルーンの溝から引き抜いた。
血で濡れた指が自由になった瞬間、腰へ走らせる。鞘の口に触れる。柄を掴む。右肘と胸だけで体を支え、半分崖に乗り上げたまま、俺は剣をわずかに抜いた。
「アストラルフレイム」
刃が鞘から指二本分だけ現れた。
それだけで、青白い霧の中に赤金の光が走った。炎ではなく、刃の芯に宿った熱が、濡れた空気を細く割る。足首に絡んだぬめりが焼ける匂いを立て、下の影が顔を崩した。ジュリアでもアインでもない、目のない何かが口だけを開く。
俺は腕を振る余裕もない。
だから、刃を抜き切らないまま、足首を縛るものへ光だけを押し込んだ。
甲高い音が、崖の底で弾けた。
引く力が消える。体が一気に上へ跳ね、ミユウの手と羽の風に引かれて、俺は崖の縁に胸から転がり込んだ。
石に肋骨を打ちつけ、肺の空気が潰れる。剣は鞘に戻り切らず、右手の中で熱を残したまま震えていた。
「あなた!」
ミユウの手が、俺の頬と肩を確かめる。白い羽が俺を覆い、霧の粒が羽の外側で弾かれた。俺は咳き込みながら、右手の指を開こうとして、うまく動かないことに気づいた。掌の皮が裂れ、血と泥が混じっている。
それでも、ここにある。
崖の上だ。
落ちていない。
「パパ!」
アインの声が近づきかけ、すぐ止まった。ミユウに言われた石柱の場所から、動かずにいる。偉いぞ、と言おうとして、喉が鳴るだけで声にならなかった。
ジュリアの声が、小さく落ちた。
「パパ、そこにいる?」
霧のせいで、見えないのだろう。
俺は肘をつき、上半身を起こした。膝は震えていた。足首には黒い跡が残り、靴の革が湿って裂れている。
崖の縁を振り返ると、さっきまで底なしに見えた白い穴は、ただの浅い斜面に変わっていた。二、三歩下がれば石の棚があり、その先にまた道が続いている。落ちれば死ぬ崖じゃない。落ちると思い込ませ、手を離させるための形だった。
「いる」
俺は声を整えた。
「パパは、ここにいる」
霧の向こうで、ジュリアが息を吐いた。泣き声にはならなかった。けれど、小さな靴が石の上でこすれる音だけで、どれだけ堪えていたかはわかった。
アインが一歩踏み出しかけ、また止まる。
「もう、いっていい?」
ミユウが俺を見る。
俺は頷いた。
その途端、二つの足音が霧を裂いてきた。アインが先に飛び込み、俺の腰にぶつかる直前で、勢いを殺すように膝をつく。ジュリアは少し遅れて、俺の袖を両手で掴んだ。小さな指が、血のついていない布だけを探して握る。
「パパ、て、いたい?」
ジュリアの目は、俺の掌に釘づけだった。
「少しだけだ」
嘘をつくには、血が出すぎていた。だから、少しだけにしておいた。
アインは俺の足首を見て、眉を寄せた。
「あれ、ほんものじゃなかったのに、あとついてる」
「見せるものは偽物でも、掴む力は本物だったんだろうな」
言葉にした瞬間、ミユウの表情が引き締まった。
「愚者の試練は、ただの幻ではありません。幻だと見破れない者には道を消し、見破った者には本物の手で引きずり戻す。愚かさを笑うのではなく、守りたいものを間違えた瞬間を狙う試練です」
ミユウの指が、俺の裂けた掌に触れた。暖かな光が薄く滲み、痛みの角が少しだけ丸くなる。白い羽の奥で、彼女の呼吸が浅い。
「あなたは、よく見ました。声に引かれず、形に引かれず、ふたりを見失わなかった」
「見失いかけた」
俺は崖の縁を見た。
霧はまた底なしの穴に戻ろうとしている。浅い斜面だったはずの場所が、白く塗り潰され、黒い深みを作っていく。さっきの影はもういない。だが、霧の奥で何かがこちらを見ている気配だけが残っていた。
「ジュリアの声が下からした時、手を離しかけた」
袖を握るジュリアの指が強くなる。
「パパ、わたし、したにいない」
「ああ。上にいた」
「うん」
ジュリアはそれ以上言わず、俺の袖に額を押しつけた。小さな羽がわずかに震え、霧の水滴が一枚ずつ滑り落ちる。
アインは唇を尖らせたまま、俺の剣へ目を向けた。
「パパ、けん、ちょっとだけでも、すごかった」
「抜く余裕がなかっただけだ」
「でも、あれ、にげた」
俺は鞘に戻したアストラルフレイムの柄を握り直した。熱はまだ残っている。刃の奥で、さっき焼き切ったものの感触が鈍く沈んでいた。
俺の力だけじゃない。剣が、俺の見破ったものに応えた。偽物に斬りかかったんじゃない。偽物の裏で足を掴んでいた本物だけを焼いた。
それができたのは、俺が手を離さなかったからだ。
落ちて助けるんじゃない。
落ちずに守る。
言葉にすると簡単すぎる。けれど、崖の縁にぶら下がった右手は、その違いを血で覚えた。
ミユウが俺の手当てを終えると、裂けた掌に薄い光の膜が残った。完全には塞がっていない。指を曲げると、痛みが走る。それでいい。痛みがあるほうが、霧に持っていかれずに済む。
俺は立ち上がった。
膝が少し沈み、ミユウの手がすぐ支えに来る。俺はその手を借りた。拒む必要はない。ここで強がって倒れたら、それこそ試練に笑われる。
「あなた、歩けますか」
「歩く」
アインが俺の前に出ようとして、すぐに足を止めた。さっきの言いつけがまだ残っているのか、俺を見上げてくる。
「おれ、まえ、みる。でも、はしらない」
「俺の手が届くところだ」
「うん」
ジュリアは俺の袖を離さなかった。歩きにくいほど強くはない。ただ、布一枚分だけ繋がっている。俺はそのままにした。
霧の道は、崖沿いに細く続いていた。黒い石畳は濡れ、ところどころに古い紋章の欠片が埋まっている。
左右には背の低い樹が並び、葉の先から落ちる雫が、石に触れるたび小さな音を立てた。上空は白く閉ざされ、太陽も月も見えない。だが、遠くの崖壁に刻まれた巨大なルーンだけが、霧の中でゆっくり瞬いている。
まるで島そのものが、瞼を開け閉めしているみたいだった。
俺たちが一歩進むたび、背後の道が霧に消える。戻る道は残らない。
前へ進むしかないように、島が形を畳んでいく。アインは何度も振り返りそうになり、そのたび拳を握って前を向いた。
ジュリアは俺の袖を掴んだまま、足元の石だけを見て歩く。ミユウは少し後ろで羽を半分だけ広げ、霧の流れを読んでいた。
崖の向こうから、また声がした。
今度は、俺の声だった。
「ミユウを守れなかったな」
足が止まりかけた。
霧の奥で、誰かが俺と同じ声で笑う。
「子どもたちも、いつかお前の手から落ちる」
ミユウの羽が、背後で硬く鳴った。
「あなた」
「わかってる」
俺は腰のアストラルフレイムに手を置いた。
声は霧のどこからでも響いてくる。右から聞こえたと思えば、次の瞬間には足元の石の下から滲む。俺の声。俺の息遣い。俺が言いそうで、言いたくない言葉ばかりを選んでくる。
「強くなったつもりか」
霧が、崖道の先で人の形を作った。
黒い髪。白と金の衣。腰の剣。俺と同じ背丈の影が、道の中央に立っていた。顔ははっきり見えない。けれど、顎の角度も、肩の置き方も、剣に手をかける癖も、嫌になるほど俺に似ている。
アインが息を呑んだ。
「パパが、ふたりいる」
ジュリアの指が袖を強く掴む。
「ちがう」
俺は前へ出た。
足首の痛みが残る。掌も疼く。けれど、さっきとは違う。足の下に道がある。隣に子どもたちの息がある。背後にミユウの羽音がある。
影の俺は、崖の縁を指差した。
「さっき落ちかけた。次は落ちる」
その声は、俺の喉の奥から出ているみたいだった。
「お前が見破ったんじゃない。ミユウが教えた。子どもが声を出した。剣が焼いた。お前ひとりでは、何もできない」
言葉が、胸の古い傷に触れた。
何もできない。
かつて何度も聞いた音だ。攻撃力も、魔力も、防御力も、適性もない。剣を握っても振られ、魔法を見ても届かず、誰かの背中ばかり見ていた頃、足元に絡みついていた言葉。
霧はそれを覚えている。
俺より正確に、俺の弱い場所を掘り返してくる。
だが、影は一つだけ間違えていた。
「ひとりで何もできないなら」
俺はアストラルフレイムの柄を握った。
「手を借りる」
ミユウの羽音が、背後で止まった。
「ミユウが教えた。ジュリアの声で気づいた。アインが見てくれた。剣が応えた。だから俺は上がってきた」
影の輪郭が、わずかに揺れた。
「それのどこが、落ちる理由になる」
俺は一歩踏み込んだ。
霧が足元に絡む。崖の縁がまた近づいたように見える。だが、俺は足裏の重さを確かめた。石はある。道はある。視界が嘘をついても、体は知っている。
影の俺が剣を抜いた。
刃は黒かった。炎のない、光を食う剣。向けられた切っ先の奥で、俺の顔だけが歪んで映る。
「守ると言いながら、守られているだけだ」
「そうだな」
俺は剣を抜かなかった。
影の動きが止まる。
「ミユウに支えられてる。アインとジュリアに踏み止まらせてもらってる。何度も、何度もだ」
ジュリアが俺の袖を離した。
小さな手が、今度は俺の背中に触れる。押すほどの力はない。ただ、そこにあるだけだ。
「でも、俺は戻る。何度支えられても、立って戻る」
アインが俺の横に並びかけ、ミユウの視線に気づいて半歩後ろで止まった。拳だけを胸の前で握っている。
俺はアストラルフレイムを抜いた。
赤金の光が、霧を細く裂く。影の黒い剣が、その光を嫌がるように揺れた。俺は構えを低くし、足首の痛みを踏み潰す。掌の傷が柄に触れ、熱が返ってくる。
愚者の試練。
落ちる者を笑う試練じゃない。
自分ひとりで立っていると思い込んだ瞬間に、足元を消す試練だ。
俺は、ひとりじゃない。
だから落ちない。
「来い」
影の俺が、俺と同じ顔で口を歪めた。
次の瞬間、霧の道が砕ける音と同時に、黒い刃が目の前へ迫った。
お読み頂きvery very thanks‼︎です。少しでもおもしろいと思われましたら評価、ポイントくださると泣いて喜びます。




