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【Season2】白い羽根の彼女を守るため、ただの高校生だった俺は勇者になる  作者: 東雲 明
第10章 エクリプシス島編

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第146話 闇の中で、声がした

 足元の石が、かすかに沈んだ。


 濡れた床に刻まれていた青いルーンが、踏み抜かれた氷みたいにぱきりと鳴り、俺の足首から膝へ、膝から腰へ、黒い冷気が巻きついた。剣を握る指に力を込めた瞬間、通路の奥で淡く浮かんでいた第五の宝玉が、まぶたの裏に焼きつくほど白く光り、次の呼吸で、壁も床も天井も消えた。


 アストラルフレイムの柄を握っていたはずの右手に、ぬめった闇の重みだけが残った。剣の刃は見えない。自分の腕も、肩も、胸に触れているはずの白い布も見えない。喉の奥に石粉の味が張りつき、吸い込んだ空気は肺の手前で固まり、吐き出そうとした息だけが、頬のすぐ横で黒く砕けた。


 指先を伸ばす。何も触れない。


 もう一歩、前へ出ようとする。足裏は床を踏んでいるのに、石の硬さが遠い。まるで足の下だけが薄皮一枚で、その先に底のない水が広がっているみたいだった。


「ミユウ」


 声は、唇を離れた途端に消えた。


 耳に返ってこない。壁に当たって跳ね返る響きも、通路の奥へ転がる余韻もない。口の中に残ったのは、自分の舌が歯に触れた感触だけだった。


 俺はもう一度、首を回した。


 右。左。後ろ。


 闇は動かなかった。どこを向いても同じ黒が、まぶたを開けている意味を奪うように貼りついてくる。暗い場所にいるんじゃない。目の前に何かがないんじゃない。俺自身が、何かの内側に閉じ込められている。


 アストラルフレイムを引き寄せる。見えない刃が床をこすったはずなのに、金属の音はしなかった。かわりに、胸の奥で小さく爪を立てる音がした。


 俺は柄を両手で握り直し、足を開いた。


 斬ればいい。


 そう思って、腕を振り上げる。肩の筋肉が軋み、袖の布が肘に食い込み、指の関節がきしむ。刃を振り下ろす。何かを断つ感触はなかった。風すら起きない。手応えのない一撃が、腕だけを重くした。


 もう一度。


 今度は斜めに薙ぐ。踏み込んだ足の裏に冷たさが広がり、膝がわずかに沈む。刃先がどこかへ届く前に、黒いものが剣の腹へまとわりつき、濡れた布を振るような鈍さだけが手首に残った。


 歯を食いしばる。


 奥歯がこすれ、顎の骨に熱が走った。胸の中で鳴る音だけが大きくなる。どく、どく、と、誰かが内側から扉を叩いている。なのに、その扉の外には誰もいない。


「アイン。ジュリア」


 名を呼んだ瞬間、舌の上に甘い匂いが落ちた。


 朝の神殿。焼きたてのパン。床を走る小さな足音。布団を引きはがされ、胸の上に乗られ、眠気で重い目をこじ開けた俺の鼻先に、ジュリアの銀の髪がふわりとかかった。


『パパ、おきて』


 小さな手のひらが俺の頬を叩く。痛いほどじゃない。けれど、指の一本一本がやけに温かくて、俺は目を細めながら、その手首をつかんだ。


『パパ、もうあさだぞ』


 反対側からアインが布団に潜り込み、俺の脇腹に頭を押しつける。羽がくすぐったくて、俺が身をよじると、二人分の笑い声が枕元で弾けた。


 次の瞬間、その声が途切れた。


 闇の中で、俺の手は空をつかんでいた。


 指の間に残ったのは、子どもの髪の感触じゃない。冷えた空気だけだ。俺は何もない場所へ腕を伸ばしたまま、肩を落とした。


 思い出したはずなのに、遠ざかる。


 ついさっきまで触れていたはずの頬の丸みも、ちいさな羽が腕に当たる感触も、黒い水に落とした紙みたいに端から滲んでいく。俺は慌てて手を握りしめた。逃がすな。まだ残っている。まだ、消えていない。


 喉の奥がひりつく。


 息を吸うたび、冷えた砂を飲み込むみたいだった。膝の裏に力が入らず、俺は剣を支えにして踏みとどまる。掌の皮が柄に擦れて、じんと熱を持つ。その熱だけが、自分の身体がここにある証みたいだった。


「……違う」


 声は沈む。


 それでも、唇を動かした。


「俺は、ひとりじゃない」


 黒が、少しだけ濃くなった。


 耳元で何かが擦れた。誰の声でもない。言葉の形にもならない。けれど、胸の奥に差し込んでくる。


 戻れない。


 届かない。


 誰も来ない。


 そのたびに、指先から力が抜ける。剣の重さが増す。肩に貼りついた闇が、濡れた衣みたいに垂れ下がる。


 俺は歯の隙間から息を吐き、もう一度、アストラルフレイムを握った。


 掌の中で、柄の青い宝石がわずかに熱を帯びた気がした。見えない。けれど、指の腹に伝わるぬくもりが、心臓の鼓動と重なった。


 ミユウの手だ。


 夜の船室。月の光が窓の縁だけを青く染めていた。俺はベッドの端に座り、剣を膝に置いたまま、磨き布を握っていた。刃に映る自分の顔が暗く沈み、何度拭いても、そこにいる男の目だけが遠かった。


『あなた』


 背後から羽の擦れる音がして、ミユウの手が俺の肩に触れた。細い指なのに、離れない重さがあった。俺が振り向く前に、彼女は隣へ腰を下ろし、俺の手から布を取って、剣の柄をそっと包んだ。


『わたしはいつもそばにいる』


 その声は大きくなかった。けれど、窓の外の波音よりも、船底を叩く水よりも、はっきり俺の胸に落ちた。


 彼女の白い羽が、俺の腕に触れる。羽先は月明かりを受けて薄く透け、そこに重ねた俺の指は、震えをごまかせなかった。


 ミユウは俺の手を両手で包んだ。


 そのぬくもりが、今、闇の中で掌に戻ってきた。


 俺は息を吸った。


 石粉の味の中に、かすかに花の匂いが混じる。ミユウの髪に残っていた、神殿の庭の花の匂い。朝、子どもたちに引っ張られて部屋を出る彼女が、振り返って笑った時の匂い。


 黒が揺れた。


 俺は一歩踏み出す。足裏の下で、見えない石が鳴った。小さな音だった。けれど、音はあった。闇に飲まれず、俺の耳に届いた。


 もう一歩。


 今度は左足。冷たい床が足の裏を押し返す。重みが戻る。膝が俺の身体を支える。剣の柄を握る指に力が入る。


 目を凝らす。


 闇の中心に、銀の細い線が走った。


 それは光じゃなかった。たぶん、記憶の端に残った髪の揺れだった。ジュリアが俺の袖をつかんで、眠たそうに目をこすっていた時の銀。ミユウが振り向いた時、肩の下で流れた銀。アインが走り出した妹を追いかけて、手を伸ばした時に揺れた銀。


『パパ、まって』


 ジュリアの声が、遠い床の上を転がってきた。


 俺は顔を上げた。


 黒の向こうに、朝の光がにじむ。


 神殿の中庭。白い石畳。噴水の縁に腰かけていた俺の膝へ、ジュリアが小さな花を乗せた。花びらは少し潰れていて、茎は短く折れていた。彼女は両手を胸の前で合わせ、俺の反応を待つみたいに、唇を結んでいた。


『パパにあげる』


 俺が受け取ると、彼女の肩の羽が小さく揺れた。


 その隣で、アインが木の枝を剣みたいに構え、得意げに胸を張る。


『パパ、みてろよ。おれ、まもれるから』


 枝の先が空を切り、足元の小石を蹴って、アインは少しよろけた。それでも踏ん張り、俺の前に立った。小さな背中。細い腕。握りしめた枝。俺は膝をつき、彼の肩に手を置いた。


 ジュリアが俺の腕に抱きつく。


『おにぃちゃん、ころばないで』


 アインは耳まで赤くして、枝を握り直した。


 ミユウが少し離れた場所で、白い羽をたたみ、こちらを見ていた。陽の光が髪に触れ、彼女の目元にやわらかな影を作っていた。


 俺は、その場に手を伸ばした。


 けれど、指が触れる直前、庭はまた黒にほどけた。


「待て」


 声が割れた。


 喉の奥が削れる。息が熱い。俺は前へ出る。見えない床を踏む。肩にまとわりつく闇が重く、背中に爪を立てる。かまうものか。俺は剣を引きずり、黒の向こうに残った花の匂いを追った。


「消えるな」


 それが誰に向けた言葉なのか、わからなかった。


 ミユウか。アインか。ジュリアか。


 それとも、忘れそうになっていた俺自身か。


 足元に、青い線が一本灯った。


 ルーンだ。


 見えなかった床に、細い文字が刻まれている。青い光は弱く、息を吹きかければ消えそうなほど揺れていた。俺はしゃがみ込み、指先で石の溝に触れた。冷たい。濡れている。刻み目の奥に砂が詰まり、爪の先に引っかかる。


 読もうとした瞬間、闇が耳元でざわめいた。


 間違えれば、また何かが形を持つ。


 喉が鳴る。背中を汗が伝う。指先が石から離れかけた。


 その時、俺の手の甲に、小さな手が重なった。


 見えない。けれど、確かに重みがあった。


『パパ』


 ジュリアの声。


 反対側から、力強く指を握られる。


『パパならできる』


 アインの声。


 背中に、羽が触れた。


『あなた』


 ミユウの声が、俺の肩越しに落ちる。


『わたしはいつもそばにいる』


 胸の奥で、何かがほどけた。


 俺は膝をついたまま、石に刻まれた線をなぞった。指先の水が青く光り、溝の形が少しずつ浮かぶ。文字を文字として追うんじゃない。声をたどる。ミユウの息遣い、アインの靴音、ジュリアが袖を引く力。俺が忘れかけたものが、石の冷たさの下で一本ずつ繋がっていく。


 これは扉じゃない。


 閉じ込めるための壁でもない。


 俺の足を止める鎖でもない。


 通るための線だ。


 俺はアストラルフレイムを床に突き立てた。


 見えなかった刃が、青い火をまとって姿を取り戻す。炎は燃え広がらず、刃の輪郭だけを細くなぞった。柄の宝石が脈を打ち、俺の掌に熱を返す。


「俺は帰る」


 黒が押し寄せた。


 肩、首、頬、口元へ、濡れた手のようにまとわりつく。息が狭くなる。目の前のルーンが歪む。青い火が一瞬、細くなる。


 俺は奥歯を噛みしめ、剣をさらに深く押し込んだ。


「ミユウのところへ。アインとジュリアのところへ」


 刃の周囲で、石がひび割れた。


 黒いものが声にならない声でうねる。耳の中で水が沸くような音がし、頭蓋の内側まで震えた。俺は両手で柄を握り、全身の重みを剣に乗せる。膝が床に擦れ、布が濡れ、皮膚の下に冷たさが刺さる。


 それでも、手を離さない。


 青い火が床の刻み目へ流れ込んだ。


 一本。二本。三本。


 ルーンの線がつながり、闇の足元に光の亀裂が走る。黒は破れた布みたいに裂け、その隙間から、神殿の朝の匂いが流れ込んできた。


 焼きたてのパン。


 石畳に落ちた水。


 ミユウの髪の花の匂い。


 子どもたちの羽が空気をかき混ぜる音。


 俺は剣を引き抜き、立ち上がった。


 目の前に、ミユウがいた。


 白い羽を少し広げ、唇を結び、こちらへ手を伸ばしている。彼女の髪は闇の中で銀に光り、指先は震えていた。その横から、アインが駆け出す。小さな足が黒い床を叩き、ジュリアが一歩遅れて、胸の前で両手を握りしめたまま俺を見る。


「パパ!」


 アインの声が、今度は消えなかった。


 俺は剣を手放し、膝をついた。


 飛び込んできたアインを片腕で受け止める。小さな身体の重みが胸にぶつかり、肋骨の奥まで熱が入った。次の瞬間、ジュリアが俺の腹にしがみついた。細い指が服をつかみ、頬が胸に押し当てられる。


「パパ、いた」


 ジュリアの声が布にこもる。


 俺は二人の背中に腕を回した。アインの肩はまだ細く、ジュリアの羽は腕の内側で小さく震えている。どちらも温かい。息をしている。ここにいる。


 喉の奥が詰まり、声にならないものが胸を押した。


 俺は二人を潰さないように力を加減しながら、それでも離せずに抱きしめた。アインが俺の服を握り、ジュリアが顔を上げる。目の縁に光がたまり、頬に一筋こぼれた。


「パパ、どこいってたの」


 答えようとして、息だけが漏れた。


 どこにも行っていない。そう言えば済む距離じゃなかった。さっきまで、俺の声は誰にも届かず、俺の手は誰にも触れず、名前を呼んでも黒に溶けていた。


 だから俺は、言葉のかわりに二人の頭を撫でた。


 アインの髪をかき上げ、ジュリアの銀の髪に指を通す。指先に絡む毛束の細さ、頬に当たる羽のくすぐったさ、服越しに伝わる小さな鼓動。その全部を逃がさないように、ゆっくり息を吸った。


 ミユウがそばに膝をついた。


 彼女の手が、俺の頬に触れる。冷えきっていた皮膚に、指のぬくもりが染みる。俺が顔を向けると、ミユウは何も言わず、額を俺の額へ寄せた。銀の髪が頬にかかり、白い羽が俺たちを包むように前へ傾く。


「あなた」


 その一言で、暗闇の奥に残っていた黒い欠片が、胸の中から抜け落ちた。


 俺は二人を片腕で抱いたまま、もう片方の手でミユウの背に触れた。羽の付け根のあたりで、彼女の身体が小さく揺れる。俺の指が服をつかむと、ミユウの手も俺の肩を握り返した。


「聞こえた」


 俺の声は掠れていた。


「ミユウの声も、アインの声も、ジュリアの声も」


 ミユウのまつげが揺れた。


 アインが俺の胸に額を押しつける。ジュリアは俺の服を握ったまま、ミユウの羽に頬を寄せた。


 闇はまだ周りにあった。


 迷宮の壁は完全には戻っていない。床のルーンは青く燃え、通路の奥には第五の宝玉が、さっきよりも近い場所で淡く光っている。黒い裂け目の向こうから、まだ何かがこちらを見ている気配がした。


 けれど、俺の腕の中には重みがあった。


 小さな背中が二つ。羽のぬくもり。ミユウの指。頬に触れる髪。


 俺は顔を上げた。


 アストラルフレイムの刃が床の上で青く光っている。俺は子どもたちをそっと離し、二人の肩に手を置いた。アインは口を結び、ジュリアは袖をつかんだまま俺を見上げる。


「ここで待ってろ」


 アインがすぐに首を振りかけた。


 俺はその頭に手を置き、髪をくしゃりと撫でた。


「すぐそこだ。俺の背中から目を離すな」


 アインの喉が小さく動いた。


「……うん」


 ジュリアはミユウの手を握り、俺の袖から指を一本ずつ離した。


「パパ、かえってきて」


 俺は頷いた。


 ミユウが立ち上がり、俺の手にアストラルフレイムを渡した。柄に残る青い熱が掌に戻る。彼女の指が俺の指に重なり、離れる前に一度だけ強く押した。


「あなた」


 ミユウの声は、闇に負けなかった。


「わたしはいつもそばにいる」


 俺は剣を握り、第五の宝玉へ向き直った。


 床の亀裂から青い火が細く伸び、通路の形を描き出す。濡れた石壁、崩れた柱、奥へ続く階段。戻ってきた迷宮の匂いは冷たく、鉄と苔が混じっていた。


 背中に、三人の気配がある。


 俺は一歩踏み出した。靴底の下で石が鳴る。二歩目で、闇の残りが足首に絡む。三歩目で、アストラルフレイムの刃が青く燃えた。


 宝玉の光が、俺の目の奥を刺す。


 手を伸ばせば届く距離で、黒い影が最後の薄皮みたいに揺れた。


 俺は剣を振り上げた。

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