第145話 天柱の矢、闇を裂く
石床に刻まれた最後のルーンが、靴底の下で青く潰れた。
その瞬間、通路の奥にあった闇が、壁から剥がれた。灯りの届かない場所が広がったのではない。濡れた石壁の隙間から、黒い煤のようなものが滲み出し、床を這い、柱の根元を巻き、俺たちの行く手だけを選んで塞いだ。握り直したアストラルフレイムの柄が掌の汗で滑り、金属の冷たさが皮膚の奥まで食い込んだ。
息を吸うより先に、闇が跳ねた。
剣を横へ振った。刃に纏った光が石壁を白く照らし、影の腕を一本裂いた。裂けた黒は床に落ちず、薄い布を裂いたみたいに空中で千切れ、すぐ隣の闇へ吸い込まれた。鼻の奥に焦げた鉄の匂いが刺さり、喉が熱を持つ。足を一歩引くと、踵が水溜まりを踏み抜き、冷たい飛沫がふくらはぎに貼りついた。
「パパ!」
背後でジュリアの声が石壁にぶつかり、細く揺れて返ってきた。
振り向かなかった。振り向いたら、目の前の黒が俺の喉に届く。
「ミユウ、二人を下げろ!」
声を飛ばしたつもりだった。だが、湿った空気が喉を押し戻し、言葉の端が擦れた。俺の左側をかすめた影が、肩鎧の縁を叩く。白い装甲に黒い筋が走り、金の装飾が軋んだ音を立てた。痛みは一拍遅れて来た。肩から指先まで、熱い線を引かれたように痺れが走る。
アストラルフレイムを両手で握り、低く構えた。刃の奥で白い火が揺れた。俺の呼吸に合わせて、剣先の炎が細く伸び、床に散った水へ淡い光を落とす。闇はその光を嫌うように後ずさり、すぐに別の影が上から落ちてきた。
踏み込む。斬る。
肩を捻り、刃を斜めに走らせた。黒い塊が二つに割れ、奥の通路が一瞬だけ見えた。地下へ続く階段。青いルーンが、濡れた段差の縁に途切れ途切れに並んでいる。第5の宝玉へ続く道。そこまで、あと数十歩もない。
なのに、黒が埋め戻した。
通路の天井から滲んだ闇が、古い石の梁を伝って降りてくる。壁の亀裂からは細い指のような影が伸び、床からは獣の背骨みたいな形がせり上がる。ひとつひとつに目はない。口もない。それでも、俺の息遣いに合わせて距離を詰めてくる。
アインの小さな靴音が、背後で一歩だけ鳴った。
「アイン、動くな!」
言った瞬間、右の壁から黒い紐が弾けた。
俺は体を滑り込ませ、アインへ伸びた影を剣で受けた。刃と黒がぶつかる音は、金属ではなく、濡れた布を強く絞ったような鈍い音だった。手首に重みが乗る。押し返そうとした腕が沈む。影の先端が剣に絡み、白い火の上を這い、柄へ向かってくる。
歯を噛み締めた。
アストラルフレイムを持つ右手の指が、一本ずつ黒に覆われていく。冷たいのに、焼ける。骨の隙間に氷の針を押し込まれたみたいに、掌の感覚が抜けていく。左手を重ね、柄を離さないように押さえ込んだ。
「パパ、て……!」
ジュリアの声が割れた。ミユウの衣擦れが背後で鳴り、羽が空気を撫でる気配がした。
「あなた、右を!」
ミユウの声が落ちるより早く、俺は膝を沈めた。
耳のすぐ上を、別の影が通り過ぎた。髪が数本持っていかれ、頬に冷たい線が走る。石壁にぶつかった影は砕けず、壁に貼りつき、そこからさらに枝分かれした。青いルーンの光が黒に覆われ、通路全体が一段暗くなる。
視界の端で、ミユウの白い羽が揺れた。
行くな、と言いかけた。
口を開いた隙に、正面の闇が膨らんだ。人の背丈を越え、柱を呑み、天井に触れるほど膨れ上がった黒が、無数の腕を束ねたみたいに俺へ倒れ込んでくる。剣を抜こうとしても、右手に絡んだ影が柄に喰いついて離れない。左足を引く。床が濡れている。靴底が滑り、体が半歩だけ沈む。
黒が胸に届いた。
息が潰れた。
肩、胸、腰。影が俺の鎧の隙間へ入り込み、布の下を這った。冷たい指が背骨をなぞり、肋骨の間を締め上げる。喉から空気が逃げ、吸い込もうとしても入ってこない。アストラルフレイムの光が、黒い膜の向こうで滲んだ。俺の手はまだ柄を掴んでいる。掴んでいるはずなのに、指先の輪郭が自分のものではなくなっていく。
足元で水が跳ねた。
アインが近づいたのか、ジュリアが動いたのか、見えなかった。見えるのは、顔の前に垂れた黒だけだ。石壁の青いルーンも、地下へ続く階段も、ミユウの羽も、全部が黒の膜に潰されている。
奥歯に力を込めた。
剣を振れ。
腕を動かせ。
一本でもいい。指を動かせ。
右手に力を入れた瞬間、影が肘まで締め上げた。骨が軋み、肩の奥で鈍い音が鳴る。喉から漏れた息が、声になる前に潰れた。膝が石床につく。冷たい水が布越しに染み、膝頭から太腿へ広がった。
黒が耳元へ寄った。
言葉ではない。音でもない。ただ、濡れた羽虫が集まるような細かな振動が、鼓膜の内側に貼りつく。ルーンを読み間違えた時の光景が、一瞬だけ瞼の裏に焼きついた。ミユウの羽が黒く染まる幻。子どもたちの手が届かなくなる幻。俺の剣が、守るはずのものを傷つける幻。
噛み締めた歯の間に、血の味が滲んだ。
幻を斬ったはずだ。
なのに、黒はその残り香を探るみたいに、俺の胸の奥へ指を入れてくる。
「……っ」
声が出ない。
アストラルフレイムの火が、細くなった。刃の白が黒に押し潰され、青い宝石の輝きが掌の下で弱まる。剣が重い。腕が上がらない。影の輪が首に巻きつき、顎を上へ向けさせる。
天井が見えた。
ひび割れた石。そこに刻まれた古いルーン。青い光は半分ほど黒に覆われ、残った線だけが水面のように揺れていた。
その狭い光の下で、白い羽が一枚、落ちてきた。
影の膜に触れる寸前、羽は燃えなかった。汚れもしなかった。ただ、ふわりと向きを変え、俺の頬へ触れた。羽先は温かく、血の味で強ばった口元に、かすかな風を残した。
「あなた」
ミユウの声が、黒の向こうから届いた。
影が俺の首を締めたまま、わずかに揺れる。声のした方向へ目だけを動かした。黒い膜の隙間に、白が見えた。ミユウの羽。銀の髪。濡れた石床に立つ足元。彼女の周りだけ、空気が薄い金色を帯びている。
ミユウは俺へ走ってこなかった。
足を揃え、背筋を伸ばし、両手を胸の前で重ねた。白い羽が左右へ開き、迷宮の湿った空気を押し返す。羽根の一枚一枚に、細い光の筋が走った。青いルーンの光とは違う。水底から上がる冷たい光ではなく、雲の切れ間から真っ直ぐ落ちる朝の柱みたいな光だった。
俺の喉を締める影が、熱いものに触れたように縮んだ。
ミユウの唇が動いた。
「天柱の矢!!」
その声は大きくなかった。石壁を震わせる叫びでもなかった。それでも、迷宮の奥で滞っていた空気が一斉に向きを変えた。天井のルーンが金色に縁取られ、ひび割れた石の隙間から細い光が差す。地下深くのはずなのに、頭上に空が開いたようだった。
ミユウの背後から、一本の光が立ち上がった。
矢というには太く、柱というには鋭い。白金の光が彼女の羽の間から伸び、天井へ突き刺さり、次の瞬間、俺を覆う黒へ向かって落ちてきた。音は遅れて来た。まず視界が白く裂け、影の膜が内側から透ける。そこへ、石床ごと貫くような衝撃が走った。
黒が剥がれた。
首の輪が千切れ、胸を締めていた影が弾け、腕に絡んでいた黒い紐が火花のように散った。肺へ空気が戻る。冷えた喉を無理やり広げられ、俺は石床に片手をついたまま咳き込んだ。指の下で水が跳ね、掌に砂粒が刺さる。
落ちた光は、俺を焼かなかった。
肩に触れたところだけ、冷え切った皮膚へ温度が戻る。鎧の黒い筋が薄れ、アストラルフレイムの刃に白い火が戻っていく。柄を握る右手の感覚が、指先からゆっくり返ってきた。痛みも一緒に戻った。だが、剣は落ちていない。
顔を上げると、ミユウが立っていた。
彼女の足元から広がった金色の円が、濡れた石床に反射している。白い羽は大きく開いたまま、端の羽根がわずかに震えていた。銀の髪が光を受け、細い糸のように頬へ貼りついている。胸元で重ねた手の指先には、まだ白金の光が残っていた。
「あなた、立てますか」
ミユウの声が近くなった。
俺は答える代わりに、アストラルフレイムを床へ突き、膝を上げた。右肩に痛みが走り、奥歯が鳴る。水を吸った布が膝にまとわりつき、立ち上がるたびに冷たさが皮膚へ残った。
「……助かった」
それだけ言うと、ミユウの眉がわずかに寄った。彼女は俺へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。背後にいるアインとジュリアを見たのだろう。俺は振り向かないまま、二人の息遣いだけを聞いた。小さく乱れた呼吸が二つ。衣擦れ。ミユウの羽がかすかに鳴る音。
「パパ、くろいの、まだ……」
ジュリアの声が、俺の背中に貼りついた。
その言葉の通りだった。
天柱の矢に貫かれたはずの闇は、完全には消えていない。白金の光に焼かれ、壁際へ押し戻されながらも、石の隙間へ染み込んでいる。裂けた黒の端が、濡れた床の上でゆっくり持ち上がる。影の形は崩れていた。だが、通路の奥、地下へ続く階段の入口だけは、まだ黒い膜で塞がれている。
アインが息を呑む音がした。
「パパ、ぼくも――」
「下がってろ」
短く言った。声を荒げたつもりはないのに、石壁に跳ね返った自分の声が少し硬かった。
アインの靴が止まる。ジュリアの小さな手が、ミユウの衣を握る音が聞こえた。
俺は剣を持ち上げた。
アストラルフレイムの白い火は戻っている。だが、刃の根元に黒い染みが一つ残っていた。さっきまで俺の腕を締めていた影の名残だ。炎がそこを舐めるたび、じゅっと小さな音がして、焦げた匂いが上がる。
ミユウが俺の隣に並んだ。
肩が触れるほど近くない。けれど、彼女の羽の先から落ちる光が、俺の足元まで届いていた。濡れた石床に、俺の影とミユウの影が並ぶ。その二つの影の間へ、金色の細い線が流れ込む。
「あなた、あれは斬れます」
ミユウの声が、俺の耳の奥で形を持った。
俺は通路の奥を見た。
黒い膜の向こうに、階段の縁が見える。青いルーンが二つ、まだ光っている。読み間違えれば、また何かが出る。さっきの影より深いものが、俺の中身を抉りに来るかもしれない。
だが、足は前へ出た。
濡れた石が靴底の下で鳴る。肩の痛みが、歩くたびに首筋まで響く。右手の指はまだ完全には戻っていない。柄を握る力が少し遅れる。それでも、剣先は下がらなかった。
黒い膜がうねった。
俺の動きに合わせ、闇は通路の幅いっぱいに広がる。壁のルーンを呑み、天井の亀裂を塞ぎ、床に溜まった水を真っ黒に染める。そこから、また腕が出た。一本、二本、三本。今度はただ伸びるだけではない。指先に、細い爪のようなものが生えている。
ミユウの羽が俺の背後で大きく鳴った。
光が増す。
彼女の天柱の矢で裂かれた空気が、まだこの場に残っている。白金の粒が宙に漂い、俺の剣へ吸い寄せられるように流れた。アストラルフレイムの刃が、白い火の内側に金の筋を宿す。
息を吸った。
喉はまだ痛い。さっき締められた痕が、呼吸のたびに熱を持つ。だが、その熱が胸の奥へ落ちると、足裏が石床を捉えた。
影が飛んだ。
俺も踏み込んだ。
最初の腕を斬る。刃に触れた黒が縦に裂け、白金の粒を散らして崩れる。二本目は腰を落として避け、返す刃で根元から払った。三本目が首へ来る。肩を捻る。痛みで視界の端が揺れる。それでも、剣を止めない。
ミユウの光が背中を押した。
俺の影が、床の上で前へ伸びる。その影の上を、白い羽が一枚流れていった。羽は黒い水に落ちず、剣先の前でふわりと浮かぶ。次の瞬間、アストラルフレイムの火が羽を呑み、刃全体が白金に染まった。
黒い膜の中央に、縦の線が見えた。
そこだけ、厚みが薄い。
俺はそこへ剣を突き入れた。
手首に重い抵抗が来た。粘つく泥の奥へ刃を押し込むような感触。影が剣を呑もうと、刃の両側から盛り上がる。右腕が沈む。肩の奥でまた嫌な音が鳴った。左手を重ねる。膝を踏み込む。濡れた石床が滑る前に、爪先で隙間を噛んだ。
「あなた」
ミユウの声。
背後ではなく、すぐ横だった。
彼女の手が、俺の剣を握る手の上へ重なった。細い指。温度。羽から落ちる光が、俺の甲を包む。力任せではない。押しつけるでもない。ただ、俺が離さない場所を、同じように離さない。
刃が進んだ。
黒い膜の奥で、何かが割れる音がした。石ではない。金属でもない。長いあいだ閉じ込められていた空気の殻が破れるような、乾いた音だった。
次の瞬間、膜に亀裂が走った。
一本の線が、天井から床まで落ちる。そこから白金の光が噴き出し、青いルーンが息を吹き返すように灯った。黒い膜が内側から裂け、腕も爪も形を保てなくなる。床へ落ちた影は水に溶け、焦げた匂いを残して薄れていった。
俺は剣を振り抜いた。
通路が開いた。
地下へ続く階段が、目の前に現れた。段差の縁に刻まれたルーンは、青く、金色に縁取られ、濡れた石に細い光の道を作っている。奥から冷たい風が上がってきた。土の匂い。古い水の匂い。さらに深い場所で、何か硬いものが脈を打つような低い響き。
第5の宝玉がある。
そう口に出す必要はなかった。階段の奥から伝わる振動が、剣の柄を通して掌へ来る。アストラルフレイムの火が、その響きに合わせて小さく揺れた。
「パパ……」
ジュリアが近づきかけ、ミユウが柔らかく止めた。衣の擦れる音と、小さな足音が重なる。
俺は振り向いた。
アインは唇を結び、両手を握っていた。ジュリアはミユウの服を掴んだまま、俺の右手を見ている。さっき影に覆われた指には、黒い筋がまだ残っていた。動かすと、皮膚の下で細い痛みが走る。
隠そうとして、やめた。
子どもたちの前で、何もなかった顔を作るには、喉の痛みも、肩の軋みも、まだ残りすぎている。
「行くぞ」
それだけ言って、俺は階段へ向き直った。
ミユウが隣で小さく息を吐いた。彼女の羽の光は少し弱まっている。天柱の矢を放った反動か、指先がわずかに震えていた。俺は剣を左手へ持ち替え、右手を彼女の前へ出した。
ミユウは一瞬だけ俺の手を見た。
それから、何も言わずに指を重ねた。
細い指は温かかった。さっきの羽と同じ温度だった。けれど、手のひらの奥に、かすかな震えが残っている。俺は強く握らなかった。握れば折れてしまいそうなものを扱うように、指先だけを包んだ。
「あなたの手も、冷えています」
「すぐ戻る」
ミユウは答えなかった。
代わりに、俺の手の甲へ親指を滑らせた。黒い筋の上を、ゆっくりとなぞる。触れられた場所が熱を持ち、影の名残が薄くなる。完全には消えない。だが、指は動く。剣は握れる。
地下から、また風が上がった。
青いルーンの灯りが一つ、階段の奥で消えた。次に、その隣の灯りが消える。闇が戻ってきたのではない。奥にある何かが、こちらへ息を吹きかけている。そんな沈み方だった。
俺はミユウの手を離し、アストラルフレイムを握り直した。
刃の白金は薄れ、いつもの白い火へ戻っている。けれど、剣の中心に一本だけ、金の線が残っていた。ミユウの天柱の矢が通った痕のように、刃の奥で細く光っている。
階段の一段目へ足を置いた。
水気を含んだ石が、靴底の下で冷たく沈む。背後でアインとジュリアの小さな呼吸が揃い、ミユウの羽が一度だけ空気を払った。
俺は二段目へ降りた。
壁のルーンが、俺の横顔を青く照らす。三段目。肩の痛みが遅れて来る。四段目。地下の匂いが濃くなる。五段目で、上の通路の光が半分消えた。
その先で、石の奥から低い音がした。
剣を前へ出した。
白い火が、暗がりを細く裂いた。




