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【Season2】白い羽根の彼女を守るため、ただの高校生だった俺は勇者になる  作者: 東雲 明
第10章 エクリプシス島編

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第145話 天柱の矢、闇を裂く

 石床に刻まれた最後のルーンが、靴底の下で青く潰れた。


 その瞬間、通路の奥にあった闇が、壁から剥がれた。灯りの届かない場所が広がったのではない。濡れた石壁の隙間から、黒い煤のようなものが滲み出し、床を這い、柱の根元を巻き、俺たちの行く手だけを選んで塞いだ。握り直したアストラルフレイムの柄が掌の汗で滑り、金属の冷たさが皮膚の奥まで食い込んだ。


 息を吸うより先に、闇が跳ねた。


 剣を横へ振った。刃に纏った光が石壁を白く照らし、影の腕を一本裂いた。裂けた黒は床に落ちず、薄い布を裂いたみたいに空中で千切れ、すぐ隣の闇へ吸い込まれた。鼻の奥に焦げた鉄の匂いが刺さり、喉が熱を持つ。足を一歩引くと、踵が水溜まりを踏み抜き、冷たい飛沫がふくらはぎに貼りついた。


「パパ!」


 背後でジュリアの声が石壁にぶつかり、細く揺れて返ってきた。


 振り向かなかった。振り向いたら、目の前の黒が俺の喉に届く。


「ミユウ、二人を下げろ!」


 声を飛ばしたつもりだった。だが、湿った空気が喉を押し戻し、言葉の端が擦れた。俺の左側をかすめた影が、肩鎧の縁を叩く。白い装甲に黒い筋が走り、金の装飾が軋んだ音を立てた。痛みは一拍遅れて来た。肩から指先まで、熱い線を引かれたように痺れが走る。


 アストラルフレイムを両手で握り、低く構えた。刃の奥で白い火が揺れた。俺の呼吸に合わせて、剣先の炎が細く伸び、床に散った水へ淡い光を落とす。闇はその光を嫌うように後ずさり、すぐに別の影が上から落ちてきた。


 踏み込む。斬る。


 肩を捻り、刃を斜めに走らせた。黒い塊が二つに割れ、奥の通路が一瞬だけ見えた。地下へ続く階段。青いルーンが、濡れた段差の縁に途切れ途切れに並んでいる。第5の宝玉へ続く道。そこまで、あと数十歩もない。


 なのに、黒が埋め戻した。


 通路の天井から滲んだ闇が、古い石の梁を伝って降りてくる。壁の亀裂からは細い指のような影が伸び、床からは獣の背骨みたいな形がせり上がる。ひとつひとつに目はない。口もない。それでも、俺の息遣いに合わせて距離を詰めてくる。


 アインの小さな靴音が、背後で一歩だけ鳴った。


「アイン、動くな!」


 言った瞬間、右の壁から黒い紐が弾けた。


 俺は体を滑り込ませ、アインへ伸びた影を剣で受けた。刃と黒がぶつかる音は、金属ではなく、濡れた布を強く絞ったような鈍い音だった。手首に重みが乗る。押し返そうとした腕が沈む。影の先端が剣に絡み、白い火の上を這い、柄へ向かってくる。


 歯を噛み締めた。


 アストラルフレイムを持つ右手の指が、一本ずつ黒に覆われていく。冷たいのに、焼ける。骨の隙間に氷の針を押し込まれたみたいに、掌の感覚が抜けていく。左手を重ね、柄を離さないように押さえ込んだ。


「パパ、て……!」


 ジュリアの声が割れた。ミユウの衣擦れが背後で鳴り、羽が空気を撫でる気配がした。


「あなた、右を!」


 ミユウの声が落ちるより早く、俺は膝を沈めた。


 耳のすぐ上を、別の影が通り過ぎた。髪が数本持っていかれ、頬に冷たい線が走る。石壁にぶつかった影は砕けず、壁に貼りつき、そこからさらに枝分かれした。青いルーンの光が黒に覆われ、通路全体が一段暗くなる。


 視界の端で、ミユウの白い羽が揺れた。


 行くな、と言いかけた。


 口を開いた隙に、正面の闇が膨らんだ。人の背丈を越え、柱を呑み、天井に触れるほど膨れ上がった黒が、無数の腕を束ねたみたいに俺へ倒れ込んでくる。剣を抜こうとしても、右手に絡んだ影が柄に喰いついて離れない。左足を引く。床が濡れている。靴底が滑り、体が半歩だけ沈む。


 黒が胸に届いた。


 息が潰れた。


 肩、胸、腰。影が俺の鎧の隙間へ入り込み、布の下を這った。冷たい指が背骨をなぞり、肋骨の間を締め上げる。喉から空気が逃げ、吸い込もうとしても入ってこない。アストラルフレイムの光が、黒い膜の向こうで滲んだ。俺の手はまだ柄を掴んでいる。掴んでいるはずなのに、指先の輪郭が自分のものではなくなっていく。


 足元で水が跳ねた。


 アインが近づいたのか、ジュリアが動いたのか、見えなかった。見えるのは、顔の前に垂れた黒だけだ。石壁の青いルーンも、地下へ続く階段も、ミユウの羽も、全部が黒の膜に潰されている。


 奥歯に力を込めた。


 剣を振れ。


 腕を動かせ。


 一本でもいい。指を動かせ。


 右手に力を入れた瞬間、影が肘まで締め上げた。骨が軋み、肩の奥で鈍い音が鳴る。喉から漏れた息が、声になる前に潰れた。膝が石床につく。冷たい水が布越しに染み、膝頭から太腿へ広がった。


 黒が耳元へ寄った。


 言葉ではない。音でもない。ただ、濡れた羽虫が集まるような細かな振動が、鼓膜の内側に貼りつく。ルーンを読み間違えた時の光景が、一瞬だけ瞼の裏に焼きついた。ミユウの羽が黒く染まる幻。子どもたちの手が届かなくなる幻。俺の剣が、守るはずのものを傷つける幻。


 噛み締めた歯の間に、血の味が滲んだ。


 幻を斬ったはずだ。


 なのに、黒はその残り香を探るみたいに、俺の胸の奥へ指を入れてくる。


「……っ」


 声が出ない。


 アストラルフレイムの火が、細くなった。刃の白が黒に押し潰され、青い宝石の輝きが掌の下で弱まる。剣が重い。腕が上がらない。影の輪が首に巻きつき、顎を上へ向けさせる。


 天井が見えた。


 ひび割れた石。そこに刻まれた古いルーン。青い光は半分ほど黒に覆われ、残った線だけが水面のように揺れていた。


 その狭い光の下で、白い羽が一枚、落ちてきた。


 影の膜に触れる寸前、羽は燃えなかった。汚れもしなかった。ただ、ふわりと向きを変え、俺の頬へ触れた。羽先は温かく、血の味で強ばった口元に、かすかな風を残した。


「あなた」


 ミユウの声が、黒の向こうから届いた。


 影が俺の首を締めたまま、わずかに揺れる。声のした方向へ目だけを動かした。黒い膜の隙間に、白が見えた。ミユウの羽。銀の髪。濡れた石床に立つ足元。彼女の周りだけ、空気が薄い金色を帯びている。


 ミユウは俺へ走ってこなかった。


 足を揃え、背筋を伸ばし、両手を胸の前で重ねた。白い羽が左右へ開き、迷宮の湿った空気を押し返す。羽根の一枚一枚に、細い光の筋が走った。青いルーンの光とは違う。水底から上がる冷たい光ではなく、雲の切れ間から真っ直ぐ落ちる朝の柱みたいな光だった。


 俺の喉を締める影が、熱いものに触れたように縮んだ。


 ミユウの唇が動いた。


天柱(てんちゅう)(アストロ・アロー)!!」


 その声は大きくなかった。石壁を震わせる叫びでもなかった。それでも、迷宮の奥で滞っていた空気が一斉に向きを変えた。天井のルーンが金色に縁取られ、ひび割れた石の隙間から細い光が差す。地下深くのはずなのに、頭上に空が開いたようだった。


 ミユウの背後から、一本の光が立ち上がった。


 矢というには太く、柱というには鋭い。白金の光が彼女の羽の間から伸び、天井へ突き刺さり、次の瞬間、俺を覆う黒へ向かって落ちてきた。音は遅れて来た。まず視界が白く裂け、影の膜が内側から透ける。そこへ、石床ごと貫くような衝撃が走った。


 黒が剥がれた。


 首の輪が千切れ、胸を締めていた影が弾け、腕に絡んでいた黒い紐が火花のように散った。肺へ空気が戻る。冷えた喉を無理やり広げられ、俺は石床に片手をついたまま咳き込んだ。指の下で水が跳ね、掌に砂粒が刺さる。


 落ちた光は、俺を焼かなかった。


 肩に触れたところだけ、冷え切った皮膚へ温度が戻る。鎧の黒い筋が薄れ、アストラルフレイムの刃に白い火が戻っていく。柄を握る右手の感覚が、指先からゆっくり返ってきた。痛みも一緒に戻った。だが、剣は落ちていない。


 顔を上げると、ミユウが立っていた。


 彼女の足元から広がった金色の円が、濡れた石床に反射している。白い羽は大きく開いたまま、端の羽根がわずかに震えていた。銀の髪が光を受け、細い糸のように頬へ貼りついている。胸元で重ねた手の指先には、まだ白金の光が残っていた。


「あなた、立てますか」


 ミユウの声が近くなった。


 俺は答える代わりに、アストラルフレイムを床へ突き、膝を上げた。右肩に痛みが走り、奥歯が鳴る。水を吸った布が膝にまとわりつき、立ち上がるたびに冷たさが皮膚へ残った。


「……助かった」


 それだけ言うと、ミユウの眉がわずかに寄った。彼女は俺へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。背後にいるアインとジュリアを見たのだろう。俺は振り向かないまま、二人の息遣いだけを聞いた。小さく乱れた呼吸が二つ。衣擦れ。ミユウの羽がかすかに鳴る音。


「パパ、くろいの、まだ……」


 ジュリアの声が、俺の背中に貼りついた。


 その言葉の通りだった。


 天柱の矢に貫かれたはずの闇は、完全には消えていない。白金の光に焼かれ、壁際へ押し戻されながらも、石の隙間へ染み込んでいる。裂けた黒の端が、濡れた床の上でゆっくり持ち上がる。影の形は崩れていた。だが、通路の奥、地下へ続く階段の入口だけは、まだ黒い膜で塞がれている。


 アインが息を呑む音がした。


「パパ、ぼくも――」


「下がってろ」


 短く言った。声を荒げたつもりはないのに、石壁に跳ね返った自分の声が少し硬かった。


 アインの靴が止まる。ジュリアの小さな手が、ミユウの衣を握る音が聞こえた。


 俺は剣を持ち上げた。


 アストラルフレイムの白い火は戻っている。だが、刃の根元に黒い染みが一つ残っていた。さっきまで俺の腕を締めていた影の名残だ。炎がそこを舐めるたび、じゅっと小さな音がして、焦げた匂いが上がる。


 ミユウが俺の隣に並んだ。


 肩が触れるほど近くない。けれど、彼女の羽の先から落ちる光が、俺の足元まで届いていた。濡れた石床に、俺の影とミユウの影が並ぶ。その二つの影の間へ、金色の細い線が流れ込む。


「あなた、あれは斬れます」


 ミユウの声が、俺の耳の奥で形を持った。


 俺は通路の奥を見た。


 黒い膜の向こうに、階段の縁が見える。青いルーンが二つ、まだ光っている。読み間違えれば、また何かが出る。さっきの影より深いものが、俺の中身を抉りに来るかもしれない。


 だが、足は前へ出た。


 濡れた石が靴底の下で鳴る。肩の痛みが、歩くたびに首筋まで響く。右手の指はまだ完全には戻っていない。柄を握る力が少し遅れる。それでも、剣先は下がらなかった。


 黒い膜がうねった。


 俺の動きに合わせ、闇は通路の幅いっぱいに広がる。壁のルーンを呑み、天井の亀裂を塞ぎ、床に溜まった水を真っ黒に染める。そこから、また腕が出た。一本、二本、三本。今度はただ伸びるだけではない。指先に、細い爪のようなものが生えている。


 ミユウの羽が俺の背後で大きく鳴った。


 光が増す。


 彼女の天柱の矢で裂かれた空気が、まだこの場に残っている。白金の粒が宙に漂い、俺の剣へ吸い寄せられるように流れた。アストラルフレイムの刃が、白い火の内側に金の筋を宿す。


 息を吸った。


 喉はまだ痛い。さっき締められた痕が、呼吸のたびに熱を持つ。だが、その熱が胸の奥へ落ちると、足裏が石床を捉えた。


 影が飛んだ。


 俺も踏み込んだ。


 最初の腕を斬る。刃に触れた黒が縦に裂け、白金の粒を散らして崩れる。二本目は腰を落として避け、返す刃で根元から払った。三本目が首へ来る。肩を捻る。痛みで視界の端が揺れる。それでも、剣を止めない。


 ミユウの光が背中を押した。


 俺の影が、床の上で前へ伸びる。その影の上を、白い羽が一枚流れていった。羽は黒い水に落ちず、剣先の前でふわりと浮かぶ。次の瞬間、アストラルフレイムの火が羽を呑み、刃全体が白金に染まった。


 黒い膜の中央に、縦の線が見えた。


 そこだけ、厚みが薄い。


 俺はそこへ剣を突き入れた。


 手首に重い抵抗が来た。粘つく泥の奥へ刃を押し込むような感触。影が剣を呑もうと、刃の両側から盛り上がる。右腕が沈む。肩の奥でまた嫌な音が鳴った。左手を重ねる。膝を踏み込む。濡れた石床が滑る前に、爪先で隙間を噛んだ。


「あなた」


 ミユウの声。


 背後ではなく、すぐ横だった。


 彼女の手が、俺の剣を握る手の上へ重なった。細い指。温度。羽から落ちる光が、俺の甲を包む。力任せではない。押しつけるでもない。ただ、俺が離さない場所を、同じように離さない。


 刃が進んだ。


 黒い膜の奥で、何かが割れる音がした。石ではない。金属でもない。長いあいだ閉じ込められていた空気の殻が破れるような、乾いた音だった。


 次の瞬間、膜に亀裂が走った。


 一本の線が、天井から床まで落ちる。そこから白金の光が噴き出し、青いルーンが息を吹き返すように灯った。黒い膜が内側から裂け、腕も爪も形を保てなくなる。床へ落ちた影は水に溶け、焦げた匂いを残して薄れていった。


 俺は剣を振り抜いた。


 通路が開いた。


 地下へ続く階段が、目の前に現れた。段差の縁に刻まれたルーンは、青く、金色に縁取られ、濡れた石に細い光の道を作っている。奥から冷たい風が上がってきた。土の匂い。古い水の匂い。さらに深い場所で、何か硬いものが脈を打つような低い響き。


 第5の宝玉がある。


 そう口に出す必要はなかった。階段の奥から伝わる振動が、剣の柄を通して掌へ来る。アストラルフレイムの火が、その響きに合わせて小さく揺れた。


「パパ……」


 ジュリアが近づきかけ、ミユウが柔らかく止めた。衣の擦れる音と、小さな足音が重なる。


 俺は振り向いた。


 アインは唇を結び、両手を握っていた。ジュリアはミユウの服を掴んだまま、俺の右手を見ている。さっき影に覆われた指には、黒い筋がまだ残っていた。動かすと、皮膚の下で細い痛みが走る。


 隠そうとして、やめた。


 子どもたちの前で、何もなかった顔を作るには、喉の痛みも、肩の軋みも、まだ残りすぎている。


「行くぞ」


 それだけ言って、俺は階段へ向き直った。


 ミユウが隣で小さく息を吐いた。彼女の羽の光は少し弱まっている。天柱の矢を放った反動か、指先がわずかに震えていた。俺は剣を左手へ持ち替え、右手を彼女の前へ出した。


 ミユウは一瞬だけ俺の手を見た。


 それから、何も言わずに指を重ねた。


 細い指は温かかった。さっきの羽と同じ温度だった。けれど、手のひらの奥に、かすかな震えが残っている。俺は強く握らなかった。握れば折れてしまいそうなものを扱うように、指先だけを包んだ。


「あなたの手も、冷えています」


「すぐ戻る」


 ミユウは答えなかった。


 代わりに、俺の手の甲へ親指を滑らせた。黒い筋の上を、ゆっくりとなぞる。触れられた場所が熱を持ち、影の名残が薄くなる。完全には消えない。だが、指は動く。剣は握れる。


 地下から、また風が上がった。


 青いルーンの灯りが一つ、階段の奥で消えた。次に、その隣の灯りが消える。闇が戻ってきたのではない。奥にある何かが、こちらへ息を吹きかけている。そんな沈み方だった。


 俺はミユウの手を離し、アストラルフレイムを握り直した。


 刃の白金は薄れ、いつもの白い火へ戻っている。けれど、剣の中心に一本だけ、金の線が残っていた。ミユウの天柱の矢が通った痕のように、刃の奥で細く光っている。


 階段の一段目へ足を置いた。


 水気を含んだ石が、靴底の下で冷たく沈む。背後でアインとジュリアの小さな呼吸が揃い、ミユウの羽が一度だけ空気を払った。


 俺は二段目へ降りた。


 壁のルーンが、俺の横顔を青く照らす。三段目。肩の痛みが遅れて来る。四段目。地下の匂いが濃くなる。五段目で、上の通路の光が半分消えた。


 その先で、石の奥から低い音がした。


 剣を前へ出した。


 白い火が、暗がりを細く裂いた。

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