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【Season2】白い羽の彼女を守るため、ただの高校生だった俺は勇者になる  作者: 東雲 明
第10章 エクリプシス島編

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第143話 恐怖の未来を斬れ

 迷宮の壁に刻まれたルーンが、濡れた獣の目みたいにひとつずつ開いた瞬間、俺の舌に残っていた音が、喉の奥で逆向きにひび割れた。


 石床の冷たさが靴底を抜け、足の裏から背骨まで這い上がってくる。


 読んだはずの文字が、まばたきひとつの間に線を変え、意味を裏返し、青白い光を血の色に濁らせながら、ミユウの足元へ細い蔦のように伸びていった。


 ミユウの羽が、音もなくしぼんだ。背中から広がっていた白が、暗い水に落とした布みたいに重く沈み、彼女の指先が俺の袖を探す前に空をつかんだ。


 アインとジュリアが、左右からミユウの膝にぴったり寄り、ちいさな手で彼女の衣を握りしめたまま、光の向こうに開いていく黒い景色を見上げていた。


 俺は一歩踏み出そうとして、見えない鎖に胸を押し返された。


 迷宮の奥から吹いた風が鉄錆の匂いを運び、ミユウの唇が、声になる前の形で震える。


 そこにあったのは魔物の姿でも、刃でも、罠でもなかった。俺と、アインと、ジュリアがいない未来だけが、ミユウの瞳の中で、ゆっくり形を持ちはじめていた。


 割れた月のような光が床に広がり、その中央に、古びた船室が浮かんだ。


 俺たちが何度も笑って、眠って、朝を迎えたはずの場所だった。


 けれど窓の外に海はなく、黒い霧が硝子を内側から舐め、ソファの布地には乾いた灰が積もっていた。テーブルの上には、俺が使っていた杯が横倒しになり、床に転がった木の剣は、アインの手に合う大きさのまま、刃先だけが折れていた。


 ミユウが息を吸った。


 細い音が喉から漏れ、彼女の膝が崩れた。アインが「ママ」と袖を引き、ジュリアが両腕でミユウの腰にしがみつく。けれどミユウの目は、幻覚の中に置かれた小さな白い羽飾りから動かなかった。


「やめて……」


 ミユウの声は、石壁に触れる前に砕けた。


 俺はルーンに向かって奥歯を噛みしめた。こいつはミユウの胸の奥を掘り返して、言葉にしなかった未来を、わざわざ形にして突きつけている。


 彼女がずっと飲み込んでいたものを、支えるために隠していたものを、俺の読み間違いひとつで引きずり出した。


 俺の手が、剣の柄を探した。


 腰の重みを握った瞬間、掌に返ってきた革の感触が、熱を帯びて脈を打つ。


 アストラルフレイムはまだ鞘の中にいるのに、俺の血の流れに合わせて、内側から刃を鳴らしていた。


「ミユウ」


 名前を呼ぶと、彼女の肩が跳ねた。羽の先が石床を擦り、白い羽毛が一枚、足元に落ちる。


 ミユウは俺を見た。見たはずなのに、瞳の焦点は俺の肩を通り抜け、幻覚の中で空になった椅子を見つめていた。


「あなたが、いなくなるの」


 唇が青くなっていた。


「アインも、ジュリアも、わたしの手から、落ちていくの。何度つかんでも、指の間から……何度羽を広げても、届かないの」


 ミユウの指が自分の腕を掴み、爪が白い肌に食い込んだ。


 止めようとした俺の足に、黒い光が絡みつく。幻覚の船室がひび割れ、床の向こうに別の景色が重なった。


 砂浜だった。


 エクリプシス島の黒い砂に、俺の剣だけが刺さっている。周りに足跡はない。波は寄せてこない。アインの小さな靴が片方だけ転がり、ジュリアの髪飾りが、泥に半分沈んでいた。


「ママ、だいじょうぶ?」


 アインの声が震えていた。けれど彼は泣かなかった。小さな肩を張り、ミユウの前に立とうとして、足を一歩だけ出した。ジュリアはミユウの衣をぎゅっと握ったまま、俺の方を見上げる。


「パパ……ママ、いたいの?」


 その小さな声が、俺の胸にまっすぐ刺さった。


 俺は一気に足を踏み込んだ。絡みつく黒い光が靴の周りで弾け、石床に亀裂が走る。ルーンの文字列が壁から浮き上がり、蛇のようにうねって俺の喉元を狙った。


 抜いた。


 アストラルフレイムの刃が鞘を離れた瞬間、迷宮の空気が縦に割れた。


 青い炎が刃の芯を走り、金色の火花が柄から腕へ駆け上がる。


 視界の端で、幻覚の俺が倒れ、幻覚のアインが消え、幻覚のジュリアの小さな羽が灰になった。


 ふざけるな。


 俺は剣を横に払った。


 最初のルーンが砕けた。石の文字ではなく、泣き声のかたまりみたいな音を立てて破裂し、黒い霧が床に叩きつけられる。


 幻覚の船室が揺れ、割れた窓から伸びていた影の腕が、切断された蔦みたいにのたうった。


 次が来た。


 天井から落ちてきたのは、俺の形をした影だった。顔はない。だが肩幅も、剣を構える癖も、俺に似せてある。そいつはミユウの前に立ち、空っぽの手を彼女へ伸ばした。


「来るな」


 俺は踏み込み、間合いを潰す。


 影の剣が振り下ろされるより早く、アストラルフレイムの切っ先を下から跳ね上げた。


 金属の衝突音はしなかった。代わりに、濡れた紙を裂くような音が迷宮に広がり、影の胴が斜めに割れる。青い炎が裂け目へ噛みつき、俺の形をした幻は、ミユウに触れる前に灰になった。


 ミユウの息が途切れた。


 彼女は自分の口元を押さえ、首を横に振る。何かを否定するように。


 何かを認めまいとするように。だが幻覚は止まらない。床に映る黒い水面から、今度は小さな影が二つ浮かび上がった。


 アインとジュリアの形をしていた。


 俺の足が、半歩だけ止まった。


 その半歩を、迷宮は狙っていた。小さな影たちは顔を上げず、濡れた髪を垂らし、ミユウに向かって両手を伸ばす。ミユウの喉が詰まり、彼女の体が前へ崩れた。


「だめ……だめ、わたしが行くから……わたしが、かわりに……」


 その言葉で、胸の奥に火が落ちた。


 俺はアインとジュリアの前に立つ本物の二人を見た。アインは唇を噛み、ジュリアの手を握っている。ジュリアは片手でミユウの衣を掴み、もう片方でアインの指を握り返していた。


「おにぃちゃん……」


「だいじょうぶ。パパがいる」


 アインの声は小さかった。けれど、その小ささの中に、俺を信じて立っている重みがあった。


 俺は剣を両手で握り直す。


 幻覚の子どもたちが、ミユウの足元まで近づく。黒い水が彼女の裾を濡らし、白い羽を染めようとした瞬間、俺は石床を蹴った。


 刃を振り下ろすのではなく、抱き上げるように斬った。


 青い炎が床をすくい、黒い水ごと幻を持ち上げる。小さな影は声を出さず、光の中でほどけた。ほどけた灰の向こうに、折れた木の剣も、泥に沈んだ髪飾りも、空の船室も、全部まとめて燃え落ちていく。


 ルーンが悲鳴を上げた。


 壁一面の文字が赤く膨れ、迷宮そのものが呼吸を乱したように震える。足元の石が跳ね、天井から砂が降り、ミユウの背中の羽が風に煽られて広がった。


 その白が、まだ黒に呑まれかけていた。


 俺は振り返り、剣を構えたままミユウへ歩いた。彼女は膝をつき、両腕で自分を押さえ込むようにして、近づく俺から目を逸らした。


「見ないで」


 ミユウの声は、俺の足元に落ちた。


「こんなわたしを、見ないで。最高天使イリゼなのに、あなたを守るはずなのに、アインもジュリアも抱きしめていなきゃいけないのに、わたし……もう、何も残せない未来ばかり見えて……」


 言葉の途中で、彼女の肩が大きく震えた。


 俺は剣を床に突き立てた。青い炎が石を焦がし、周囲の黒い光を押し返す。空いた両手でミユウの手首を掴むと、彼女の爪はまだ腕に食い込んでいた。一本ずつ外し、赤く残った跡を親指で押さえる。


 ミユウが逃げようとした。


 俺は逃がさなかった。


 彼女の背中に腕を回し、羽ごと抱きしめる。羽の付け根が震え、額が俺の肩にぶつかった。


 ミユウの息は熱く、途切れ途切れで、俺の襟元を湿らせる。彼女の体は冷えているのに、掴んだ指先だけが火傷しそうなほど熱かった。


「こんな未来にはさせない」


 俺の声が、彼女の髪に沈む。


「絶対に、こんな未来にはさせない」


 ミユウの拳が、俺の胸を弱く叩いた。もう一度。もう一度。


 布越しの衝撃は小さく、けれどそのたびに、彼女の喉から押し殺した息が漏れた。


「あなたは、いつもそう言う」


「ああ」


「言って、立って、剣を抜いて……わたしの見えないところで、血を流す」


「ああ」


「それが、こわいの」


 俺は答えなかった。


 答えの代わりに、抱く力を強めた。彼女の羽が俺の腕の中でこすれ、白い羽毛が頬に触れる。


 迷宮の冷たい風の中で、ミユウの髪だけが俺の首筋に温度を残していた。


「俺は戻る」


 ミユウの呼吸が止まった。


「斬りに行って、壊して、燃やして、戻る。お前のところに。アインとジュリアのところに。何度でも」


 彼女の指が、俺の背中の布を掴んだ。


「ほんとうに?」


「ほんとうだ」


「何があっても?」


「何があってもだ」


 ミユウは顔を上げなかった。けれど、俺の胸に押しつけられた額が、少しだけ深く沈む。アインとジュリアが左右から近づき、ミユウの膝に手を置いた。


「ママ、ぼくもいる」


「ジュリアも、いる」


 ジュリアの声が震えていた。ミユウの指が、俺の背中から離れ、子どもたちを探す。アインがその手を両手で包み、ジュリアが上から小さな手を重ねた。


 ミユウの唇が、俺の肩の上でかすかに動いた。


「……信じる」


 その一言が、迷宮の音を変えた。


 壁のルーンが、焼けた鉄みたいな臭いを放ち、最後の塊を吐き出す。黒い霧が天井近くで渦を巻き、そこから巨大な影が降りてきた。


 翼を持ち、角を持ち、顔の代わりに空洞を開けた怪物。だが、その腹の奥には、まだ船室の窓があり、砂浜があり、折れた木の剣があり、ミユウの恐怖を餌に膨らんだ全部が詰め込まれていた。


 俺はミユウから体を離した。


 彼女の手が一瞬だけ俺の袖を掴む。俺はその手に自分の掌を重ね、指先の冷たさを受け取ってから、ゆっくり外した。


「アイン、ジュリア。ママのそばにいろ」


「うん」


「パパ、まけない?」


 ジュリアの声に、俺は振り返らずに口の端だけを上げた。


「負けない」


 剣を抜いた。


 アストラルフレイムの炎が、さっきよりも深い青に変わっていた。


 刃の中心に金色の線が走り、迷宮の床に長い光を落とす。怪物が吠えた。音ではなく、景色が押し寄せてきた。


 俺の倒れる姿。


 アインの泣き声。


 ジュリアの伸ばした手。


 ミユウが一人で羽を抱えてうずくまる背中。


 全部、俺に向かって流れ込んでくる。


 俺は真正面から受けた。胸の奥に押し込まれる景色を、歯を食いしばって受け止める。胃の底が冷え、指先が痺れ、耳の奥で誰かの名前が割れる。それでも剣を下げなかった。


 見せたいなら見せろ。


 全部見てから斬る。


 怪物の腕が振り下ろされた。石床が爆ぜ、破片が頬を切る。


 俺は左へ沈み、刃を下段から走らせた。青い炎が怪物の腕を根元から喰いちぎり、黒い肉片が壁に叩きつけられる。


 間髪入れずに踏み込み、返す刃で胸を裂く。中から船室の幻がのぞいた。


 俺はその窓ごと斬った。


 木枠が砕け、霧が裂け、空のソファが燃えた。怪物が背を反らす。腹の奥で砂浜が膨らみ、俺の剣を飲み込もうと黒い波を伸ばしてくる。


 遅い。


 俺は剣を引かず、逆に前へ押し込んだ。腕の筋が軋み、肩に重みがのしかかる。黒い波が肘まで這い上がり、皮膚の上で氷みたいに固まった。呼吸が浅くなる。だが、柄を握る掌の奥で、ミユウの指先の冷たさがまだ残っていた。


 それを熱に変えた。


「アストラルフレイム」


 刃が鳴った。


 炎が青から白へ跳ね上がり、黒い波を内側から蒸発させる。


 迷宮の壁に刻まれたルーンが一斉に反転し、俺の足元から光の円が広がった。怪物の腹に詰め込まれていた幻が、次々に顔を出す。失った未来。届かなかった手。間に合わなかった朝。


 俺は全部を見た。


 そして、全部を斬った。


 横薙ぎの一閃で砂浜を裂き、返す刃で折れた木の剣を燃やし、踏み込んだ三撃目で黒い船室の床を断ち割る。四撃目は首。五撃目は翼。六撃目で腹の空洞を開き、最後の一撃を、怪物の奥に残った赤いルーンへ叩き込んだ。


 石でも肉でもないものが砕けた。


 迷宮全体が白い火花を散らし、耳鳴りが一瞬で消える。怪物の巨体は声を出す暇もなく縦に割れ、青白い炎の中で薄い灰になった。灰は床に落ちず、風に巻かれて上へ昇り、天井の闇に吸い込まれていく。


 俺は剣を振り抜いた姿勢のまま、息を吐いた。


 足元に残っていた黒い水が、じゅう、と音を立てて消える。壁のルーンは光を失い、ただの傷跡みたいに石へ沈んだ。剣先から落ちた炎の粒が、床の亀裂に触れて消える。


 背後で、ミユウが俺の名前を呼んだ。


「あなた」


 振り返ると、彼女はまだ膝をついたままだった。アインとジュリアが両側にくっつき、ミユウの手を離さない。白い羽にはまだ黒い煤が残っている。けれど、彼女の目は俺を見ていた。


 俺だけを見ていた。


 歩き出した途端、膝が少し沈んだ。さっき受けた幻の冷たさが、骨の内側に残っている。悟られないように剣を鞘へ戻し、息を整えながら近づくと、ジュリアが俺の足に抱きついた。


「パパ」


 その小さな腕の力に、喉の奥が詰まった。


 アインも片手で俺のズボンを掴む。強がるように唇を結んでいるのに、指は震えていた。俺は二人の頭に手を置き、髪の温度を確かめる。銀の髪が指の間で柔らかく沈んだ。


 ミユウが、ゆっくり立とうとした。


 膝が揺れた瞬間、俺は腕を伸ばして支えた。彼女の体が俺の胸に寄り、羽が遅れて肩に触れる。ミユウは目を伏せ、俺の服を掴んだまま、小さく息を吸った。


「わたし、あなたを信じるって言ったのに」


「ああ」


「また、こわくなったら?」


「そのたびに抱きしめる」


「また、見えたら?」


「そのたびに斬る」


「あなたが傷ついたら?」


「戻ってきて、お前に怒られる」


 ミユウの指が、俺の胸元で止まった。


 わずかに息が漏れる。笑いにも、泣き声にもならない息だった。俺は彼女の後頭部に手を添え、額を自分の肩へ戻した。ミユウは逆らわなかった。


 迷宮の奥で、何かが動いた。


 崩れたルーンのさらに先、暗い通路の奥から、低い脈動が響いてくる。宝玉へ続く道なのか、次の罠なのか、まだ見えない。けれど石床に走る細い光は、俺たちの足元から奥へ向かって伸びていた。


 ミユウが、その光を見た。


 俺の袖を握る力が、少しだけ強くなる。アインが「いくの?」と見上げ、ジュリアが俺の足に頬を寄せた。


 俺はミユウの背中を片腕で支え、もう片方の手で剣の柄に触れた。


 柄は熱かった。

 ミユウの指は冷たかった。

 奥の闇が、ひとつ息をした。

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