第142話 秘めた願いを斬れ
石床に刻まれたルーンの線が、濡れた蛇の背みたいにぬるりと光った瞬間、俺の舌先に乗っていた音が、喉の奥でひっくり返った。
読んだはずの文字が、足元で別の形にほどけていく。青白い光は迷宮の壁を這い、苔の隙間に沈み、割れた石柱の陰からひとつ、またひとつ、知らないはずの影を押し出した。ミユウが俺の袖をつかむ指に力をこめ、アインがジュリアの前に半歩出る気配がした。
剣の柄を握り直した俺の掌に、冷えた汗がにじむ。石の床に落ちた光が円を描き、その中心で、黒髪の女がゆっくりと顔を上げた。白銀の鎧は胸元だけがやけに眩しく、腰に下げた細剣の鞘には見覚えのない紋章が刻まれている。背後には同じ年頃の女たちが並び、弓、杖、槍、それぞれの武器を持ったまま、こちらへ向かって微笑んでいた。
「やっと会えたね、龍夜」
俺の名を呼ぶ声が、迷宮の天井から落ちる水滴に混じった。
喉の奥がきしむ。
そんな呼ばれ方をした記憶はない。ないはずなのに、胸の奥にしまい込んだ古い箱の蓋が、指も触れていないのにわずかに浮いた。
黒髪の女が一歩近づく。
靴音はしなかった。石床の上を滑るように、鎧の金具も鳴らさず、俺の前まで来る。彼女の瞳には、迷宮の光ではなく、もっと別の、柔らかくて甘い色が揺れていた。
「あなたは、こっちに来るべきだったんだよ」
顎に、細い指が触れた。
冷たくも熱くもない。触れた場所だけが、現実から切り離されたみたいに薄くなる。俺は剣を上げようとした。けれど、肩が重い。指先が柄から滑りそうになり、革巻きの感触が遠ざかる。
彼女の背後で、弓を持った女が笑った。
「世界を救う勇者さま」
杖の女が、俺の足元に散ったルーンの光をつま先でなぞる。
「強くて、選ばれて、誰にも責められない場所」
槍の女が俺の左腕に触れ、鎧越しに寄り添うように身体を傾けた。
「あなたは、ずっとそこに立ちたかったんでしょう?」
石壁が遠くなる。
迷宮の湿った匂いの奥から、陽に焼けた草の匂いが入り込んだ。青い空。まっすぐ伸びる城下町の道。人々がこちらを見ている。歓声が上がる。肩にかかる白いマント。隣に並ぶ華やかな勇者たち。誰も俺に背を向けない。誰も俺の剣を疑わない。誰も、俺が守れなかったものを数えない。
黒髪の女の親指が、俺の顎を少しだけ持ち上げた。
「ねえ、龍夜。ここなら、あなたは最初から主人公だよ」
その言葉が、舌の裏に甘く貼りつく。
俺の足が、半歩前に出た。
「あなた」
ミユウの声が、背中に刺さる。
振り向こうとした首が、動かなかった。黒髪の女が俺の視界をふさぎ、唇の端をゆっくり歪ませる。近い。瞳の中に、剣を握った俺の顔が映っている。そこにいる俺は、今より少し若く、傷ひとつなく、誰かの拍手を浴びていた。
「振り向かなくていいよ。あなたを縛る声なんて、もう聞かなくていい」
胸の奥で、何かが引っかかった。
縛る。
その音だけが、やけに硬かった。
ミユウの指が俺の袖から離れる気配がした。布の引きつれが消え、代わりに、空気が一瞬だけ薄くなる。
乾いた音が迷宮に弾けた。
頬が横に跳ね、歯の奥で血の味が広がった。視界の端で、黒髪の女の笑みがひび割れたように歪む。
ミユウの掌が、俺の頬のすぐ横で止まっていた。肩より下の銀髪が光を受けて揺れ、背中の白い羽が迷宮の冷気を押し返すように広がっている。彼女の唇は震えていない。俺の胸倉をつかむ手だけが、布を深く握りしめていた。
「あなた」
ミユウは、俺を見上げた。
その瞳の奥に、責める言葉は並んでいない。けれど、逃げ道もない。
「どこを見ているの」
頬の熱が遅れて広がる。
俺は瞬きをした。
石壁が戻ってくる。苔の匂い。水滴の音。腕に触れていた槍の女の指が、煙みたいに薄れる。黒髪の女は一歩退き、歪んだ笑みをまた口元に貼り直した。
「ひどいな。せっかく迎えに来たのに」
「パパ!」
ジュリアの声が、足元から跳ねた。
見下ろすと、ジュリアが両手を握りしめて俺を見上げていた。小さな白い羽が、背中で震えている。アインはその横で唇を結び、妹の前に腕を広げたまま、俺から目をそらさなかった。
ジュリアは、頬をふくらませた。
「パパ、だめ。ママをみて。ジュリアたちをみて」
小さな声なのに、迷宮の壁にぶつかって戻ってくる。
「しらないおんなのひとについていっちゃ、だめ」
アインがジュリアの肩に手を置き、奥歯を噛む音が聞こえそうな顔でうなずいた。
「パパ、ぼくたち、ここにいる」
俺の指が、剣の柄を握り込んだ。
革が掌に食い込み、滑りかけていた感覚が戻る。頬の熱、血の味、ミユウに握られた胸元の布、小さな子どもたちの声。全部が一度に押し寄せ、俺の足裏を石床へ叩きつけた。
黒髪の女が首をかしげる。
「それでいいの? 龍夜。あなた、本当は見たかったんでしょう? 異世界に来たその日から、強くて、綺麗な仲間に囲まれて、何も失わず、誰からも必要とされる勇者の姿を」
言葉の刃が、鎧の隙間を狙ってくる。
俺は、息を吸った。
湿った空気が肺に入り、血の味を押し下げる。剣を抜く前に、視線だけを足元のルーンへ落とした。俺が読み間違えた線は、いまだに光っている。心の奥の秘めたる願い。そう刻まれていたはずの文字は、いまは別の意味を持って、俺の目の前に幻を並べていた。
俺は、確かに見たことがある。
何の傷も負わず、誰にも嫌われず、ただ都合よく褒められる自分を。拍手だけが降ってくる道を。間違えても誰かが笑って許し、倒れても誰かがきれいに抱き止めてくれる物語を。
けれど、そんな道の先に、ミユウの手の温度はなかった。
アインの小さな肩も、ジュリアのつま先も、俺のシャツをつかむ指もない。
黒髪の女が俺の首に腕を回そうとした。
その前に、俺は剣を抜いた。
「アストラルフレイム」
刃が鞘から走った瞬間、青白い炎が迷宮の影を裂いた。
炎は熱だけではない。刃の表面に薄い星屑みたいな光が走り、足元のルーンに触れた水たまりが一瞬で蒸気を上げる。黒髪の女の指が俺の顎から離れ、彼女の瞳に映っていた若い俺の姿が、刃の光で焼き切れた。
「……龍夜?」
彼女の声が低くなる。
俺は頬に残った痛みを舌で押さえ、剣先を斜めに下げた。背中にミユウがいる。足元にアインとジュリアがいる。その位置だけは、目で見なくてもわかった。
「俺が欲しかったものを、勝手に並べるな」
黒髪の女の笑みが消えた。
背後の弓の女が弦を引いた。矢は光でできている。狙いは俺の胸ではない。俺の後ろ、ミユウのいる高さへ向いていた。
床を蹴った。
水が跳ね、膝に冷たい粒が当たる。矢が放たれる寸前、俺は横薙ぎにアストラルフレイムを走らせた。青い炎が空気を押し潰し、弓ごと光の矢を飲み込む。弓の女は叫ばなかった。裂かれた輪郭から銀色の煙が噴き、顔の半分が別人の笑顔へ崩れていく。
俺は止まらない。
杖の女が石床に杖を突き、ルーンの輪をいくつも浮かべた。輪の中から、玉座、王冠、勲章、祝宴の杯、ありもしない称号が次々とせり上がる。金属の輝きが目を刺し、足元の影が俺の靴に絡みついた。
「ほら、欲しかったんでしょう?」
杖の先が俺の喉を指す。
「誰にも責められない名前が」
俺は左足で影を踏み抜き、膝を沈めたまま剣を振り上げた。刃の炎が下から上へ走り、王冠を割り、勲章を焦がし、祝宴の杯を粉々に砕く。金色の欠片が頬をかすめ、肌に細い痛みが走った。
その痛みが、逆に俺を前へ押した。
杖の女の腹の前で剣を止め、刃を返す。突きではなく、炎だけを叩き込む。青い火が彼女の輪郭を包み、甘い香水の匂いが焦げた紙の匂いに変わった。
槍の女が背後へ回り込む。
鎧の隙間を狙う音はなかった。ただ、首筋に冷たい空気が触れた。俺は振り向かず、右肩を落とし、身体を半回転させる。槍の穂先が頬の横を抜け、俺は柄を左腕で受けた。骨に振動が響く。
近い。
槍の女の顔が、俺の耳元に来る。
「あなたは、家族を守るふりをしているだけ。ほんとうは、誰かに選ばれたいだけ」
耳の奥で、その言葉が針みたいに残った。
俺は柄を押さえたまま、額を彼女の額へ叩きつけた。鈍い音。視界が揺れる。槍の女の姿が一瞬だけ、昔の教室の机、見知らぬ背中、空っぽの席へ変わった。
息を吐く。
俺は膝で彼女の槍を折り、折れた柄の間をアストラルフレイムで焼いた。青い炎が直線に伸び、彼女の影を壁へ縫い止める。影が泡立ち、石壁に刻まれたルーンが一文字ずつ剥がれた。
黒髪の女だけが、まだ残っている。
彼女は剣を抜いていなかった。
白銀の鎧の上に、いつの間にか薄いヴェールがかかっている。勇者の鎧ではない。結婚式の花嫁衣装にも見える。王座の隣に立つ女にも見える。旅の仲間にも、初恋の相手にも、物語が勝手に用意した報酬にも見える。
彼女は俺へ手を伸ばした。
「ねえ、龍夜。あなたがここで私を斬れば、あなた自身の願いを斬ることになるよ」
刃の炎が、小さく揺れた。
彼女の足元に、別の俺が立っている。
若い顔。何も知らない目。異世界へ来たばかりの、空っぽの手。周りには華やかな仲間がいて、誰も俺を置いていかない。苦しい選択も、血の匂いも、子どもたちの小さな手を守る重さもない。
その俺が、こちらを見た。
黒髪の女が、その俺の肩に手を置く。
「この子を捨てるの?」
迷宮の空気が重くなる。
俺の靴底が石に沈んだように動かない。柄を握る指が固まり、肩の奥が軋む。捨てる。切り離す。なかったことにする。どの言葉も、刃を振るう前に俺の腕へ絡みついてくる。
ミユウが、俺の背中に手を添えた。
押さない。
引かない。
ただ、そこに掌がある。
ジュリアが、俺のズボンの裾をつかんだ。アインの小さな手も、反対側に触れる。二人の指は震えているのに、離れない。
俺は目の前の若い俺を見た。
その手は空っぽだ。
何も守っていない。何も選んでいない。傷もない代わりに、誰かの体温も知らない。
俺は剣を持ち上げた。
「捨てない」
黒髪の女の瞳が細くなる。
「だったら――」
「連れていく」
アストラルフレイムの炎が、刃の根元から噴き上がった。
若い俺の足元にあった光が、風に巻かれた砂のように崩れる。黒髪の女が初めて剣を抜いた。細剣の切っ先が喉を狙い、一直線に迫る。速い。けれど、見える。水滴が落ちる間に、刃の角度、踏み込み、肩の開き、全部が火の線になって浮かぶ。
俺は半歩だけ前に出た。
避けない。
細剣が俺の左肩を裂き、布と皮膚の間に熱い線を引いた。そのまま、俺は右腕を振り抜く。アストラルフレイムが黒髪の女の剣を根元から砕き、炎の尾が彼女の肩から胸へ斜めに走った。
彼女の身体が、紙灯籠みたいに内側から光る。
「どうして」
声が割れる。
「あなたは、主人公になりたかったんじゃないの」
俺は、刃を引いた。
肩から血が落ち、石床に小さな赤い点を作る。ミユウの息をのむ音が背後で跳ねた。ジュリアの指が裾をきつく握り、アインが小さく「パパ」と呼ぶ。
俺は黒髪の女から目をそらさなかった。
「俺は、あの子たちの父親だ」
青い炎が、彼女の輪郭をさらに裂く。
「ミユウの夫だ」
彼女の顔が、俺の知らない誰かから、俺自身の薄い影へ変わっていく。
「それで十分だ」
最後の一振りは、音がしなかった。
アストラルフレイムの刃が、黒髪の女の胸を斜めに抜けた。甘い香りが消え、迷宮の湿った苔の匂いだけが戻る。白銀の鎧も、ヴェールも、勇者の紋章も、全部が青い火の粉になって舞い上がった。
火の粉の中に、若い俺が残った。
彼は剣を持っていない。こちらを責める顔もしていない。ただ、空っぽの手を見下ろし、それから俺の背後へ視線を向けた。
俺は剣を下ろした。
「来い」
若い俺の輪郭が、風にほどける。
光の粒が俺の胸元へ吸い込まれた瞬間、肋骨の内側で鈍い重みが増えた。痛みではない。軽くもない。昔の自分を飲み込んだ身体が、少しだけ重くなった。
足元のルーンが砕けた。
迷宮の床から青白い光が引き、壁を這っていた線が一斉に消える。遠くで石の扉が動く音がした。重いものが地面をこする低い響きが、迷宮の奥へ伸びていく。
俺はそこで膝をついた。
肩の傷から血が落ち、白いシャツを濡らしていく。ミユウがすぐに前へ回り込み、俺の肩口に手を当てた。白い羽が視界の端を覆い、銀髪が頬に触れる。
「あなた、傷が」
「浅い」
言った瞬間、ミユウの指が傷口のすぐ横を押さえた。
息が詰まる。
「浅い顔をしていません」
ミユウの声は低かった。怒鳴ってはいない。けれど、俺の胸の中に残っていた余計な言い訳を、ひとつずつ踏みつぶす高さだった。
俺は口を閉じた。
ジュリアが俺の前に立つ。小さな眉を寄せ、両手を腰に当てている。アインは横で真似をしかけ、途中で俺の肩の血に目を留め、唇を噛んだ。
「パパ」
ジュリアの声が、いつもより少し硬い。
「もう、しらないおんなのひとに、ほいほいついていかないで」
俺は床に片膝をついたまま、ジュリアと同じ高さまで目線を落とした。
「悪かった」
「ママをなかせちゃだめ」
「泣いていません」
ミユウがすぐに言った。
ジュリアはミユウを見上げた。
「でも、ママのて、ぎゅってなってる」
ミユウの指が、俺のシャツを握ったまま止まる。
迷宮の天井から水滴が落ち、俺の手の甲ではじけた。ミユウは何も言わず、傷口に光を集める。白い光が皮膚の上を細く流れ、熱を持った痛みがゆっくり引いていく。
アインが、俺の剣を見た。
「パパ、さっきの、すごかった」
その瞳には、さっき幻が見せた拍手の光とは違うものがあった。小さくて、近くて、俺の逃げ場を作らない光。
「でも、ぼく、パパがこっちみなくなったとき、いやだった」
俺はアインの頭に手を置こうとして、血のついた指を見て止めた。
代わりに、手の甲をズボンで拭う。完全には落ちない。赤い跡が薄く伸びた。その汚れた手を、アインは自分から握った。
「ぼく、パパについていくから」
ジュリアも、反対側の手を握る。
「ジュリアも」
小さな二つの手に挟まれ、俺は立ち上がった。膝の裏に迷宮の冷たさが残り、肩にはミユウの治癒の光がまだ薄く絡んでいる。アストラルフレイムを鞘に納めると、刃に残っていた青い炎が最後に一度だけ揺れ、革の中へ沈んだ。
砕けたルーンの先に、扉が開いていた。
石の扉は半分だけずれ、隙間の向こうから金色の光がこぼれている。宝玉の光か、次の罠かはわからない。俺が見えるのは、濡れた床を照らす細い線と、その線の中で舞う埃だけだった。
ミユウが俺の横に並ぶ。
「次は、読み間違えないでください」
言い方は柔らかくない。けれど、俺の袖をつかむ指は戻っていた。さっきより少しだけ強く、布に皺が寄るほどに。
「次は、声に出す前にお前に見せる」
「最初からそうしてください」
「はい」
ジュリアが、俺の手を引いた。
「パパ、ちゃんとママのいうこときいて」
「聞く」
「ジュリアのいうことも」
「聞く」
アインが、扉の向こうをのぞき込もうとして、ミユウに肩を押さえられた。
「アイン、前に出すぎないで」
「わかってる。でも、光ってる」
俺はアインの前に出た。
扉の隙間から流れてくる光は、さっきの幻の光とは違う。甘い匂いはしない。歓声もない。ただ、石の奥で何かが脈打つように、一定の間隔で明滅している。
足元に、砕け残ったルーンの欠片がひとつ転がっていた。
俺は拾い上げる。
指先に触れた石片は冷たく、表面にはまだ細い線が残っている。読み間違えた文字の一部。心の奥を暴いた残骸。俺はそれを握り込み、掌の中で砕いた。
粉が落ちる。
迷宮の床に、白い筋が散った。
俺は扉の隙間へ身体を向けた。背中にミユウ、右手にジュリア、左にアイン。さっき斬った幻の重みは胸の奥に残ったままだ。軽くならない。けれど、足は動く。
金色の光が、俺の靴先に触れた。
石の向こうで、低い音が鳴る。
俺はアストラルフレイムの柄に指をかけたまま、半歩、踏み込んだ。
読んでくださってvery very thanksです。読んだついでに評価、ポイント頂けるとスマホ放り投げる勢いで喜び、嬉々として続き書けます(笑)




