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【Season2】白い羽の彼女を守るため、ただの高校生だった俺は勇者になる  作者: 東雲 明
第10章 エクリプシス島編

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第140話 迷宮が映した、俺が1番怖いもの

体調悪化のため、この回から不定期更新になります。気が向いた時にこっそり更新するかもです。

 黒い砂浜に足を下ろした瞬間、靴底の下で砕けた貝殻が湿った音を立て、エクリプシス島の潮風が喉の奥へ錆びた味を押し込んできた。


 背後では船の帆が重く鳴り、波に揺られた船体が桟橋へ軋みを擦りつけているのに、島の内側からは鳥の声も虫の羽音も返ってこない。


 俺は片手で腰の剣を押さえ、もう片方の手でジュリアの小さな指を握り直しながら、霧の向こうに口を開けた石造りの迷宮を見上げた。


 灰色の岩肌に埋もれた門は、巨大な獣の顎みたいに斜めへ傾き、欠けた柱の表面には古い文字が爪痕のように刻まれていた。


 ミユウの白い羽が霧を払うたび、濡れた羽先に小さな水滴が光り、アインは俺の前へ出ようとして、すぐにジュリアの袖を掴んで引き戻される。


 俺は二人の頭越しに奥の暗がりを覗き込み、石の隙間から流れてくる冷たい空気が、船旅で温まっていた手のひらから熱を奪っていくのを感じた。


「パパ、ここ、はいっていいの?」


 アインの声が門の内側へ吸い込まれ、返事の代わりに、ずっと奥で水の落ちる音が一つ、遅れて響いた。


 俺は膝を折り、アインの肩に手を置くと、濡れた布越しに小さな骨の細さが指に触れた。


 ジュリアは俺の袖を両手で握り、ミユウは俺の背中側へ一歩寄って、声を出さずに首飾りへ指を添えた。


 俺は門の文字へ視線を戻し、胸の奥で呼吸を浅くしながら、最初の一文字を読んだ。


「……光を辿れ」


 そう口にした途端、門の奥で青白い線が床に浮かび上がり、濡れた石畳の上を細く伸びて、迷宮の腹の中へ続いていった。アインが「すごい」と息を弾ませ、ジュリアが俺の膝へ額を寄せる。


 ミユウの指先が俺の袖に触れた。わずかな温度が、霧に冷えた腕へ残った。


「あなた、文字は読めそう?」


 ミユウの声は低く、島の空気に押し潰されないよう、俺の耳元だけへ置かれた。


 俺は門の柱に刻まれたルーンをもう一度なぞる。曲がった線、欠けた輪、三日月みたいな切れ込み。


 昔見た古文書の写しと似ているのに、線の終わりだけが違う。


 違うとわかっているのに、意味を結ぶ前に、奥から吹いた風が砂を巻き上げ、目尻へ細かい痛みを刺した。


「読める。俺が先に行く」


 口に出した瞬間、ミユウの手が袖を強く掴んだ。


 俺は振り返り、銀髪の間から覗く彼女の目を見た。


 いつもなら「大丈夫」と言ってから笑う唇が、今日は閉じられたまま動かない。


 白い羽が背中で小さく震え、ジュリアの髪に触れた羽先から、水滴が一粒、石の床へ落ちた。


「離れないで。ここ、音が変です」


 ミユウがそう言ったとき、俺の耳にもそれが届いた。波の音が消えていた。


 桟橋の軋みも、船員たちの声も、風に揺れる帆布の低い唸りも、門を一歩越えただけでまとめて切り取られ、かわりに壁の奥から、誰かが石を爪で引っ掻くような細い音が続いていた。


 俺はアインとジュリアをミユウのそばへ寄せ、剣の柄を握ったまま青い線の上へ足を置いた。


 石畳は見た目よりも柔らかく、踏むたびに靴底の下で湿った膜が沈む。


 壁にはびっしりとルーンが刻まれ、どれも同じ方向を向いているはずなのに、視線を移すたびに線の角度が少しずつ変わって見えた。俺は息を止め、最初の分岐の手前で足を止めた。


 そこには三つの通路が開いていた。左は青い光が細く続き、中央は床が乾き、右は壁に小さな白い花のような鉱石が浮かんでいる。


 分岐の上には新しいルーンがあり、古びた石の表面にだけ、濡れた月光みたいな反射が残っていた。


「進む者、心の影を……」


 俺は声に出さず、唇の内側で文字を追った。影を閉じる。いや、影を避ける。最後の記号が欠けていて、意味がほどける。肩越しにアインの息遣い、ジュリアが鼻をすする音、ミユウの衣が擦れる音が重なった。


 早く読まなければ、後ろの小さな足がこの冷たい床の上で固まってしまう。俺は舌先で乾いた唇を湿らせ、中央の文字へ指を当てた。


「……影を避け、真ん中を行く」


 床の青い線が、一瞬だけ強く光った。俺は剣を半分抜き、中央の通路へ足を踏み入れた。直後、背後でミユウが息を呑んだ。


「あなた、待って」


 声が、遠かった。


 たった一歩のはずだった。俺は振り向くつもりで肩を引いたのに、そこにあったはずの分岐は、濃い霧を詰めた石壁に変わっていた。


 ミユウの白い羽も、アインの頭も、ジュリアの手もない。俺は壁へ駆け寄り、掌を叩きつけた。冷たい石の感触が皮膚に食い込み、爪の端に湿った苔が入り込む。


「ミユウ!」


 声が壁を跳ね返り、自分の声だけが何重にも歪んで返ってきた。


 ミユウ。ユウ。ウ。


 最後の音が、誰かの笑い声みたいに細くなって消える。


 俺は剣を抜き、石壁の継ぎ目へ刃を差し込んだ。金属が火花を散らし、刃先から嫌な震えが腕へ走るだけで、壁は欠けもしない。


「アイン! ジュリア!」


 返事はなかった。かわりに、足元の青い線が水に溶けるように消え、通路の奥で別の光が灯った。


 赤黒い、呼吸しているみたいな光だった。俺は歯を食いしばり、剣を構えたまま奥へ進む。背後を確認するたび、通路は少しずつ狭くなり、肩が壁に触れるほどになった。石の表面は濡れていて、触れるたびに生ぬるい水が袖へ染みる。


 壁に新しい文字が浮かんだ。


 ――守れぬ者は、何を握る。


 俺は足を止めた。文字は俺の目の高さにあり、まるで今刻まれたばかりみたいに、溝の奥が赤く濡れていた。


 剣を握る手に力を込めると、柄革が汗で滑る。守れぬ者。何を握る。俺はその言葉を飲み込まないよう、奥歯で噛み潰した。


「握るに決まってるだろ」


 声は喉の手前で掠れた。俺は文字から目をそらし、通路の奥へ走った。


 石畳に溜まった水が跳ね、膝下を冷たく濡らす。曲がり角を一つ抜けると、急に空間が開けた。


 そこは、迷宮の中なのに、見覚えのある船室だった。


 古い木の壁、低い天井、潮で曇った窓。卓上には傾いたランプがあり、揺れていないのに炎だけが左右へ震えていた。


 さっきまで乗っていた船の部屋に似ている。けれど、床板には黒い水が薄く広がり、壁の隅から塩の白い結晶が花みたいに噴いている。俺は剣を構えたまま、一歩入った。


 奥のソファに、ミユウが座っていた。


 銀髪が頬へ張りつき、白い羽が片方だけ床に垂れている。彼女の腕の中にはジュリアがいて、ジュリアは顔を伏せたまま、まったく動かない。隣ではアインが膝を抱え、濡れた前髪の下で俺を見ていた。


「……パパ、どこいってたの」


 アインの声は薄い紙を裂くみたいに弱く、俺の足は床へ縫いつけられた。違う。これは幻だ。迷宮が見せている。


 わかっているのに、ジュリアの小さな靴が片方だけ床に落ちているのが見えた瞬間、肺の奥に冷たい石を詰め込まれたみたいに息が止まった。


「ミユウ」


 俺が呼ぶと、ミユウはゆっくり顔を上げた。瞳は俺を映しているのに、焦点が合っていない。唇が動いた。


「あなたが、先に行ったから」


 その一言が胸骨へ突き刺さり、俺は剣を握った手を下ろしかけた。ランプの炎が伸び、壁の影が人の形へ膨らむ。


 俺の背丈ほどの黒い影が、ミユウの背後でゆっくり首を傾げた。俺は床を蹴って走り、ソファへ手を伸ばした。


 指先がミユウの肩へ触れる寸前、彼女の体は濡れた灰みたいに崩れた。ジュリアの髪も、アインの膝も、白い羽も、全部が黒い水へ落ちて広がる。俺の手は何も掴めず、水面を叩いた。冷たさが手首まで食い込み、皮膚の下を針のように走った。


「ふざけるな」


 影が笑った。


 声ではなかった。壁の木目が裂け、塩の結晶が割れ、天井の梁がきしむ音が重なって、笑い声の形になっていた。


 俺は剣を振り上げ、影へ叩きつける。刃は黒い胸を裂いたが、手応えは水だった。飛び散った黒い雫が頬へかかり、焼けるような痛みが走る。


 影の裂け目から、また別の部屋が見えた。


 今度は甲板だった。嵐の夜。青い月が雲に千切られ、波が船べりを越えて襲いかかる。俺は濡れた板の上に立っていた。


 手には剣ではなく、ジュリアのリボンが握られている。ピンクの布は海水を吸って重く、指の間から水が垂れた。


「パパ!」


 背後から声がした。俺が振り向くと、アインが甲板の端にしがみついていた。小さな指が濡れた木の縁を掴み、足は宙に投げ出されている。


 俺は駆け出そうとした。だが、反対側でミユウの羽が黒い鎖に絡まれ、倒れた柱の下へ押し潰されかけていた。彼女の腕の中にはジュリアがいる。


「あなた!」


 ミユウの声とアインの叫びが、同時に波へ引き裂かれた。俺の足が止まる。右へ行けばミユウとジュリア。左へ行けばアイン。


 甲板が傾き、海水が膝へぶつかり、冷たさが骨の奥まで噛みつく。俺は一歩踏み出した。どちらへ向かったのか、自分でもわからないほど、視界が塩水で歪んだ。


 次の瞬間、アインの指が一本ずつ外れた。


 俺は喉が裂けるほど叫び、左へ飛んだ。腕を伸ばす。届かない。小さな手が空を掴み、波の白い泡へ落ちていく。俺の指先は、濡れた爪の先をかすめただけだった。


 甲板が消えた。


 俺は石の床へ膝から落ち、剣を握ったまま、吐くように息をした。


 迷宮の通路が戻っている。膝の下には冷たい水が溜まり、額から落ちた汗がその水へ混じる。


 今のは幻だ。幻だとわかっている。だが、指先には小さな爪をかすめた感触が残り、手を握っても消えなかった。


 壁の文字が増えていた。


 ――一人を選べ。

 ――一人を捨てろ。

 ――守る者は、手の数を知れ。


 俺は立ち上がり、壁へ剣を叩きつけた。火花が散り、赤い文字が一瞬だけ歪む。何度も斬った。肩に衝撃が返り、手首が痺れ、柄を握る指の皮が裂けた。それでも文字は消えず、逆に溝の奥から血のような光を強めた。


「俺に選ばせるな」


 声が震えた。怒鳴ったはずなのに、濡れた石へ吸われた。


 俺は剣を引きずりながら歩き出す。通路は下り坂になっていた。水は足首まで増え、進むたびに冷たい輪が脛へ上がってくる。壁の奥から、子どもの泣き声が聞こえた。


 ジュリアの声だった。


「パパ……」


 俺は走った。水が膝まで跳ね、剣の切っ先が壁を削る。


 声は近い。角を曲がる。石段を降りる。狭い橋を渡る。だが、追えば追うほど泣き声は先へ逃げた。


 どこかでアインの声も混じる。ミユウが俺を呼ぶ声も混じる。三つの声が別々の通路へ分かれ、俺の足を裂くみたいに引っ張った。


「ジュリア!」


 右の通路から小さな嗚咽。俺は右へ飛び込んだ。そこには子どもの背丈ほどの扉があり、隙間から白い光が漏れている。俺は扉を蹴破った。


 部屋の中央に、ジュリアが立っていた。


 薄い寝間着のまま、濡れた髪を頬へ貼りつけ、裸足で石の床に立っている。目の前には、底の見えない穴が開いていた。穴の向こう側に俺がいるとでも思っているのか、ジュリアは小さな手を伸ばし、一歩、縁へ近づいた。


「パパ、どこ……?」


「動くな!」


 俺の声に、ジュリアの肩が跳ねた。彼女が振り向く。目が合う。その瞳に俺の姿は映らない。俺の声も届いていない。俺は駆け出し、穴の縁へ足をかけた。石が崩れる。足場が沈む。ジュリアの小さな足が、欠けた縁へ乗った。


 俺は剣を捨て、両腕を伸ばした。


 抱きしめたと思った。


 だが腕の中へ入ってきたのは、冷たい霧だった。


 ジュリアの輪郭が白くほどけ、指の間から消える。俺は勢いのまま床へ倒れ込み、胸を石へ打ちつけた。


 肺から空気が抜け、喉の奥に鉄の味が広がる。頬を上げると、穴の縁に、小さな手形だけが濡れて残っていた。


 背後で拍手が鳴った。


 一回。二回。濡れた掌を合わせるような、鈍い音。


 俺は振り向いた。扉の前に黒い影が立っていた。


 今度の影は、俺の形をしていた。俺と同じ背丈、同じ剣帯、同じ乱れた髪。だが顔だけが塗り潰され、口に当たる場所に横長の裂け目が開いていた。


「守るって言ったのに」


 影の声は俺の声だった。


 俺は床に落ちた剣を拾い、立ち上がった。膝が笑う。水を吸った服が重い。右手の裂けた皮から血が滲み、柄へべったりと移る。


「黙れ」


「先に行った。読めると思った。大丈夫だと思った。みんな、おまえの背中を見ていたのに」


 影が一歩近づく。床の水が足元で黒く染まる。俺は剣先を向けたが、影は止まらない。


「アインは手を伸ばした。ジュリアは呼んだ。ミユウは止めた」


「黙れ」


「おまえは、間違えた」


 その言葉と同時に、部屋の壁が崩れた。


 崩れた先には、また別の景色があった。


 迷宮の入口。黒い砂浜。船。だが、そこに俺の姿だけがない。ミユウは膝をつき、両手でアインとジュリアを抱きしめている。白い羽は砂に汚れ、肩が小刻みに揺れていた。アインは唇を噛んで泣くのをこらえ、ジュリアはミユウの胸元に顔を押しつけ、片手で俺の上着の端切れを握っている。


「パパ、かえってくるよね」


 ジュリアの声が、砂浜の霧を通って俺の胸へ届いた。俺は壁の向こうへ手を伸ばした。届かない。透明な膜がある。指先がぶつかり、冷たい弾力に押し返される。


 ミユウが顔を上げた。


「あなた……」


 俺は膜を叩いた。何度も叩いた。ミユウは俺の方を見ていない。見えていない。彼女の頬を伝った水滴が顎から落ち、ジュリアの髪へ消える。アインが小さな拳で目元を擦り、唇を震わせながら立ち上がった。


「ぼく、さがしにいく」


 その足元から、黒い影が伸びた。


 俺は叫びながら膜を殴った。拳の皮が裂ける。透明な壁はびくともしない。


 影はアインの足首に絡み、ジュリアの背中へ這い、ミユウの白い羽を黒く汚していく。


 ミユウは二人を抱きしめたまま、どこにも逃げない。逃げようとしていない。俺を待っているみたいに、そこから動かない。


「やめろ!」


 膜の向こうで、ミユウの羽が一枚、黒く落ちた。


 俺の中で何かが切れた。剣を両手で握り、透明な膜へ叩きつける。


 刃が弾かれ、手の骨に鈍い衝撃が走る。二度目。三度目。刃が欠ける。腕の痺れが肩まで登る。四度目で、膜に細い白い傷が入った。


 影の俺が背後で笑った。


「間に合わない」


 俺は振り向かず、剣を振った。白い傷が広がる。向こう側でミユウの口が動く。声は聞こえない。


 あなた


 たぶん、そう呼んでいる。俺は奥歯が鳴るほど噛みしめ、柄を握る手をさらに締めた。


「間に合わせる」


 膜が割れた。破片は硝子ではなく、水だった。冷たい水が顔にかかり、目の奥まで染みる。俺は砂浜へ飛び込もうとした。だが足元が崩れ、景色が真下へ流れ落ちた。


 次に落ちた場所は、白い神殿の前だった。


 天井のない広間。周囲には迷宮の壁が円形に立ち、中央の祭壇には青い宝玉が浮かんでいる。


 神殿へ辿り着いた。けれど、ミユウたちはいない。祭壇の周囲には無数のルーンが回り、床には俺の足跡と同じ形の濡れ跡が、いくつもいくつも重なっていた。まるで俺がここへ何度も来て、何度も失敗したみたいに。


 祭壇の前に、三つの影が吊られていた。


 ミユウ。アイン。ジュリア。


 黒い鎖が天井のない空へ伸び、三人の体を宙に縛っている。


 ミユウの羽は力なく垂れ、アインの手は何かを掴もうとして開かれ、ジュリアの小さな足は空を探るみたいに揺れていた。


 俺は走った。


 床のルーンが赤く光り、足首に見えない刃が走った。痛みが脛へ突き上げる。俺は転びかけ、剣を床に突き立てて踏みとどまる。祭壇の宝玉が光り、壁の文字が一斉に浮かび上がった。


 ――一つを選べ。

 ――二つを捨てろ。

 ――選ばぬ者は、すべてを失う。


 俺の喉から息が漏れた。三人の鎖が同時に軋む。ミユウのまぶたが震え、薄く開いた目が俺を見た。今度は見えている。確かに、俺を見ている。


「あなた……」


 声が届いた。


 俺は剣を持ち上げた。鎖は三方向。距離も同じ。走れば一人分には届く。二人目へ向かう間に、残りは落ちる。床の文字がその答えを押しつけるように光を強め、心臓の音が耳の内側で暴れた。


 アインの指が動いた。


「パパ、ぼく、だいじょうぶ……」


 嘘だ。五歳の子が、あんな顔で大丈夫なわけがない。ジュリアは声を出さず、ただ俺を見ていた。


 口を開いたら泣き声になってしまうのを、小さな歯で止めている。ミユウは二人の方へ目だけを動かし、俺へ戻した。


「あなた、二人を」


 俺はその続きを聞かなかった。聞けば、足が勝手に動く。ミユウが自分を外すことを、俺は知っている。彼女なら必ずそう言う。だから俺は剣を床へ突き立て、両手を開いた。


 選ばない。


 その瞬間、床のルーンが焼けるほど強く光り、足裏から膝へ熱が噛みついた。俺は歯を食いしばり、刺した剣を支えにして体を起こす。三人の鎖が一段下がる。宝玉の青が赤に濁る。壁の文字が怒ったように歪んだ。


 ――選べ。


「嫌だ」


 鎖がまた下がる。ジュリアの髪が床すれすれの空気に揺れた。俺は剣を引き抜き、祭壇ではなく、床の中心へ刃を向けた。ルーンは読み解くものだ。迷宮は文字で道を作る。なら、選べという文字を壊す。


 俺は床へ剣を叩き込んだ。


 刃が石に食い込み、赤い光が手首へ逆流する。皮膚の下を火が走った。俺は叫びそうになる喉を噛み、さらに力を入れた。床の文字が一つ割れる。瞬間、アインの鎖が揺れた。次の文字へ剣を引きずる。火花ではなく、赤い水が噴いた。ミユウの鎖が軋む。ジュリアの鎖が下がる。


 間に合わない。


 その言葉が頭をかすめた瞬間、背後から影の俺が腕を掴んだ。冷たい指が皮膚へ食い込み、耳元で俺の声が囁いた。


「ほら、また遅い」


 俺は振り向きざまに額をぶつけた。鈍い音がして、影の顔が歪む。掴まれた腕に冷たさが広がるが、俺は構わず剣を床へ押し込む。


「俺の声で喋るな」


 影の指が増えた。肩、背中、首に絡みつく。黒い泥みたいな腕が何本も伸び、俺を床から引き剥がそうとする。


 三人の鎖が落ちていく。俺は剣を握る右手に左手を重ね、全体重を乗せた。刃が最後の線を削る。赤いルーンが割れ、床全体に亀裂が走った。


 鎖が切れた。


 三人の体が落ちる。俺は剣を捨て、まずジュリアへ飛んだ。腕に軽い体重が落ち、冷たい小さな手が首に触れる。すぐ横でアインが床に転がり、息を詰まらせる音がした。ミユウは羽を広げようとして、片膝をついた。


「アイン!」


 俺はジュリアを片腕で抱いたまま、アインの襟を掴んで引き寄せた。アインの肩が俺の胸へぶつかり、細い腕が服を掴む。ミユウへ手を伸ばす。彼女の指が俺の指へ触れた。温度があった。


 だが、その瞬間、三人の輪郭が揺れた。


 俺の腕の中のジュリアが、冷たい霧へ変わる。アインの重みが消える。ミユウの指先が、水滴になって落ちる。俺は空になった腕を見下ろし、喉の奥で音にならない息を吐いた。


 また幻。


 神殿も、鎖も、三人も、すべてが薄い膜みたいに剥がれ、黒い迷宮の通路だけが残った。俺は両膝をつき、濡れた床に手をついた。指の下に、本物の石のざらつきがある。裂けた手のひらに、砂粒が食い込む。


 壁に新しいルーンが浮かんだ。


 ――恐怖を捨てよ。


 俺はその文字を見て、笑いそうになった。笑えなかった。捨てられるなら、とっくに捨てている。


 家族を失う恐怖など、胸の奥から簡単に抜き取れるものではない。アインの手の小ささ、ジュリアの髪の柔らかさ、ミユウの指の温度。守りたいものが増えるたび、失う想像は勝手に形を持つ。


 俺は立ち上がり、壁の文字へ血のついた手を押し当てた。


「捨てない」


 文字が脈打った。赤い光が俺の掌の血を吸い、壁の奥へ広がる。


「恐いまま行く。震えたまま、間違えたまま、それでも戻る」


 壁が低く唸った。迷宮の奥から風が吹き上がり、濡れた服を肌へ貼りつける。俺は剣を拾い、欠けた刃を壁のルーンへ当てた。今度は読めた。最初に間違えた文字。影を避ける、ではない。


 影を抱け。


 俺は息を吐き、剣を下ろした。背後に、影の俺が立っている気配がした。振り向く。黒い顔の裂け目が、また俺の声で何かを言おうと開く。俺は剣を向けなかった。逃げもしなかった。


 影の胸へ、左手を突っ込んだ。


 冷たさが肘まで噛みつき、骨の隙間に泥水を流し込まれるような感覚が走った。影が暴れる。俺の首に絡み、背中を掻き、耳元でアインの声、ジュリアの泣き声、ミユウの呼び声を真似た。俺は奥歯を噛み、影の中にある硬いものを掴む。


 それは、最初の分岐で俺が読み違えたルーンの欠片だった。


 俺はそれを引き抜いた。影の体が音もなく崩れ、黒い水になって床へ広がる。手の中の欠片は氷のように冷たく、表面には古い文字が浮かんでいた。


 ――戻る道は、恐れの底に開く。


 通路の壁が左右へ開いた。


 奥に、青い線が見えた。今度は床ではなく、空中に浮かぶ細い光の糸だった。光は迷宮の暗がりを縫い、どこか遠くへ続いている。俺は剣を腰へ戻し、欠片を握ったまま歩き出した。水は膝下で引き、石畳の冷たさだけが足裏へ残る。息を吸うたび、潮と苔と血の匂いが混ざった。


 光の糸の先から、かすかな声がした。


「……あなた」


 俺の足が止まりかけた。今度こそ本物か。幻か。判断する前に、声の震え方が胸へ届いた。ミユウの声だった。


 俺は走り出す。曲がり角を抜け、崩れた柱を越え、狭い階段を駆け上がる。壁のルーンが次々に光り、俺の影を何本にも裂いた。


「パパ!」


 アインの声。続いて、ジュリアの細い声。


「パパ……!」


 俺は最後の角を曲がった。


 最初の分岐があった。左、中央、右。ミユウは中央の手前で膝をつき、アインとジュリアを両腕で抱き寄せていた。


 白い羽は傷だらけで、羽先に黒い霧が絡んでいる。アインの頬には涙の跡があり、ジュリアはミユウの袖を握ったまま、こちらを見て固まっていた。


 俺は声を出す前に、足が動いていた。


 三人の前で膝をつき、まずアインの肩を掴む。骨がある。温度がある。次にジュリアを抱き寄せる。


 小さな体が俺の胸へぶつかり、冷えた手が背中の布を掴んだ。ミユウの指が俺の頬に触れ、裂けた皮膚の痛みが遅れて走る。


「あなた、血が」


 ミユウの声が近い。幻ではない。俺は彼女の手首を掴み、額をその掌へ押しつけた。ジュリアが胸元で小さく震え、アインが俺の袖を引っ張る。


「パパ、どこいってたんだよ」


 俺は答えようとして、喉が詰まった。どこへ行っていたのか、言葉にすればまた迷宮が聞いている気がした。俺はアインの髪をぐしゃりと撫で、ジュリアの背中へ手を回し、ミユウの手を離さなかった。


「戻った」


 それだけ言うと、ミユウの指が俺の手の中で強く握り返した。彼女は何も聞かなかった。俺の袖についた黒い水を見て、裂けた手のひらを見て、ただ唇を結び、首飾りへ光を集める。淡い白が俺の傷口へ落ち、熱を持った皮膚を撫でた。


 そのとき、分岐の奥で、石が擦れる音がした。


 俺は三人を背に庇い、剣を抜いた。欠けた刃が青い光を反射する。壁のルーンが、さっきまでとは違う並びで浮かび上がっていた。最初に俺が読み違えた文字の下に、新しい一文が刻まれている。


 ――恐れを越えし者、神殿へ進め。


 右の通路に並んでいた白い鉱石が、一つずつ青く灯った。奥から風が吹き、湿った石の匂いに、古い花のような香りが混じる。


 アインが息を呑み、ジュリアが俺の服を握る力を強めた。ミユウは立ち上がり、羽の黒い霧を振り払うと、俺の隣へ並んだ。


「あなた、今度は一緒に」


 俺は頷き、ジュリアの手を左手で握った。右手には剣。ミユウの羽が俺の肩へかすかに触れ、アインは俺の腰のすぐ後ろへついた。四人分の足音が、青く灯る通路へ重なる。


 迷宮の奥で、水滴が落ちた。


 ひとつ。


 もうひとつ。


 その音の間に、誰かの低い息遣いが混じった。俺は足を止め、剣先を少し上げる。青い鉱石の灯りが奥へ伸び、神殿へ続くはずの道の先に、黒い大きな扉が現れた。扉の中央には、俺の手の中の欠片と同じ形の窪みがある。


 欠片が、掌の中で熱を持った。

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