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【Season2】異世界転生したただの俺、大切な彼女を守るため最強の勇者目指します  作者: 東雲 明
第9章 ヴェイリノクス島編

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第139話 誓いは、闇より深く

 船室の窓硝子に、黒い島影が滲んでいた。


 波が船腹を叩くたび、吊り灯の火が細く揺れ、壁に掛けられた外套の影が床を這うように伸びる。


 潮の匂いに混じって、冷えた鉄と濡れた木の匂いが鼻の奥へ入り込み、俺は膝の上で眠りかけているジュリアの小さな手を包んだまま、窓の向こうから目を逸らせなかった。


 エクリプシス島は、夜の底に沈んだ獣みたいに、月明かりを飲み込んでいた。


 近づくほど海の色は黒くなり、船室の温度まで少しずつ奪われていく。


 背中に触れたミユウの翼がかすかに震え、その白い羽の先が俺の肩を掠めた瞬間、握っていたジュリアの指がぴくりと動いた。


「パパ……」


 掠れた声が膝元から落ちる。


 ジュリアは眠りの底から俺を探すように、細い指でシャツを掴んだ。


 銀色の髪が頬に張りつき、まつ毛の端に薄い水気が光っている。


 隣ではアインが小さな剣の柄を両手で抱え、眠ったふりをしたまま、耳だけを窓の方へ向けていた。


「ここにいる」


 俺はジュリアの手を胸元へ引き寄せ、アインの頭にも反対の手を置いた。


 アインの肩が一度だけ跳ねる。


「パパ、あのしま……こわい?」


 平仮名みたいにほどける声だった。


 俺は窓を見た。


 島の輪郭はまだ遠いはずなのに、すでにそこだけ空が歪んでいる。


 崖の上に黒い塔のようなものが立ち、雲がその先端に引っかかって裂けていた。稲妻はない。


 けれど、光のない場所で何かが瞬いている。見ているだけで、胸の奥の古い傷を爪でなぞられるような感覚があった。


 ミユウの手が、俺の肩からゆっくり滑り落ちた。


 その手は俺の手の甲に重なり、冷えた指先で、ジュリアの指ごと包み込んだ。


「あなた」


 呼ばれた声は柔らかいのに、船室の木壁へ吸い込まれず、まっすぐ俺の胸に届いた。


 俺は振り返る。


 ミユウは白いナイトガウンの上に薄い外套を羽織り、背中の翼を半分だけ開いていた。灯の揺れが銀髪に細い金を混ぜ、唇の端に残った息が白くほどける。けれど、その瞳だけは窓の外ではなく、俺だけを見ていた。


「手、冷たいです」


 ミユウが俺の指を撫でる。


 言われて初めて、握りしめすぎていたことに気づいた。掌の中で爪が食い込み、皮膚の下に鈍い熱が残っている。


 俺は息を吐き、アインとジュリアを起こさないように、ほんの少し力を抜いた。


「悪い」


「謝らないでください」


 ミユウは首を横に振り、俺の隣へ腰を下ろした。


 ソファの沈み込みで、ジュリアの身体が少し傾く。俺が抱え直すより早く、ミユウの翼がふわりと回り込み、ジュリアの背を支えた。アインはそれを横目で見て、眠ったふりをやめ、むっとした顔で俺の腰にしがみつく。


「ぼくも」


「ああ」


 俺はアインの背中を抱き寄せた。


 小さな体温が脇腹に貼りつく。細い腕は震えていたのに、離れようとはしなかった。ジュリアも目を開け、ミユウの翼の内側から俺を見上げる。


「パパ、ママ……はなれない?」


 その言葉に、船が深く軋んだ。


 窓の外で、波が高く跳ねる。黒い水しぶきが硝子に叩きつけられ、灯の火が大きく揺れ、床に散った影が四人の足元をばらばらに裂いた。


 俺はジュリアを抱き上げ、アインごと自分の胸へ寄せた。


「離れない」


 声を出すと、喉の奥がざらついた。


「何があっても、俺はお前たちの手を離さない」


 アインの額が俺の肋骨に押しつけられる。


「ぜったい?」


「絶対だ」


「こわいのがきても?」


「ああ」


「くらいのがきても?」


「ああ」


 ジュリアの指が俺の首元に触れた。冷えた指先だった。俺はその小さな手を頬に当て、ゆっくり頷いた。


「恐怖でも、絶望でも、あの島が何を見せてきても、俺は負けない」


 ミユウの睫毛が震えた。


 俺は子どもたちを抱いたまま、窓の外へ視線を戻す。島影はさっきより近い。断崖の下に砕ける白波が見える。海の音が船室の床板を通して足裏へ響き、胸の鼓動とずれて重なる。


 怖くないわけじゃない。


 あの島に何があるのか、まだ何も知らない。奪われる痛みも、失う重さも、俺はもう知っている。守ると決めたものが増えるほど、胸の奥に沈む鉛も重くなる。


 けれど、膝の上にはジュリアの体温がある。


 脇腹にはアインの拳がある。


 隣にはミユウの翼がある。


 俺は、それだけで足を止めるわけにはいかなかった。


「パパも、はなれないなら」


 アインが顔を上げる。


 黒目が灯を映して揺れていた。唇をぎゅっと結んだまま、腰に差した小さな剣を握り直す。


「ぼくも、はなれない」


 ジュリアも、ミユウの翼の中から小さく手を伸ばした。


「ジュリアも……パパとママと、おにぃちゃんから、はなれない」


 ミユウの唇がかすかに動いた。


 その声はすぐには出てこなかった。代わりに、彼女はアインとジュリアの頭を片方ずつ撫で、最後に俺の胸元へ手を置いた。そこにある鼓動を確かめるように、指先を押し当てる。


「わたしも、離れません」


 白い翼がゆっくり広がる。


 揺れる灯の中で、その羽が俺たちを包んだ。潮の冷えが少しだけ遠のき、ミユウの髪から甘い花の匂いがした。


「あなたがどんな闇の中に立っても、わたしは隣にいます。あなたが前を向けない時は、手を握ります。声が出ない時は、呼びます。倒れそうな時は、翼で支えます」


 ミユウの指が俺のシャツを掴む。


「だから、ひとりで背負わないでください」


 俺は返事をしようとして、息だけが喉に引っかかった。


 ミユウの瞳に、俺の顔が映っている。強がった顔をしているはずなのに、そこに映る俺は少しだけ頼りなく見えた。


 アインとジュリアの前では見せたくなかったものを、ミユウだけは何も言わずに受け止めていた。


 俺は彼女の手に、自分の手を重ねる。


「背負う」


 ミユウの指が止まる。


「でも、ひとりでは背負わない」


 船がまた揺れた。窓の外で黒い波が盛り上がり、遠くの島から低い音がした。


 風か、獣か、岩の奥で眠る何かの呻きか、判別できない音が船室まで潜り込み、アインの肩を硬くした。


 俺はアインの背を叩き、ジュリアを抱く腕に力を入れる。


「俺は、夫で、父親だ。ミユウの隣に立つ。アインとジュリアの前に立つ。でも、後ろに誰もいないとは思わない」


 ミユウの目元が揺れる。


「あなた……」


「お前がいる。アインがいる。ジュリアがいる。だから俺は、何度でも立てる」


 言葉にするたび、胸の奥で固まっていたものが少しずつ形を変えた。


 それは恐怖を消すものではなかった。


 暗い海は暗いままだ。島は近づいてくる。窓の外の黒は濃くなり、船室の灯はいつ消えてもおかしくないほど細っている。けれど、俺の掌の中には三人分の体温があった。


 それを手放す理由なんて、どこにもない。


 ジュリアがミユウの胸へ顔を寄せる。


「ママ、パパ、ないてる?」


「泣いていませんよ」


 ミユウはそう言いながら、俺の頬に手を伸ばした。


 指の腹が目尻に触れる。濡れていたのは、潮風のせいかもしれない。船室の隙間から入り込んだ冷気のせいかもしれない。ミユウは何も言わず、その水気を親指で拭った。


 アインが俺の顔を覗き込む。


「パパ、つよい?」


 俺は少しだけ笑った。


「強くなる」


「いまは?」


「今も、負けない」


 アインは何度か瞬きをしてから、納得したように頷いた。


「じゃあ、ぼくも、まけない」


「ジュリアも……」


 小さな声が続く。


 俺は二人の額に順番に唇を寄せた。アインは照れたように眉を寄せ、ジュリアは目を細めて俺の首に腕を回した。ミユウがその様子を見て、ほんの少しだけ口元を緩める。


 その瞬間、窓の外で黒い霧が流れた。


 海面から立ち上がった霧は、蛇のように船へ絡みつき、窓硝子の向こう側を薄く曇らせた。灯の火が青白く揺れる。壁の影が逆向きに伸び、船室の隅に置かれた鞄の金具が、誰かの目みたいに鈍く光った。


 ジュリアの腕に力が入る。


 アインの呼吸が浅くなる。


 ミユウの翼が俺たちを深く包む。


 俺は立ち上がりかけたが、ミユウの手が袖を掴んだ。


「まだです」


 短い言葉だった。


 けれど、そこには震えがなかった。


 俺は彼女を見る。


 ミユウは窓ではなく、俺を見ていた。島の闇が船室へ入り込もうとしているのに、その瞳だけは揺らがない。俺が踏み出すより前に、彼女は俺の胸元へ額を寄せ、深く息を吸った。


「今は、ここにいてください」


 俺の手が止まる。


「アインとジュリアのそばに。わたしのそばに」


 その声が胸骨に触れた。


 俺は剣に伸ばしかけていた手を下ろし、ソファへ戻る。アインとジュリアを両側に座らせ、ミユウの肩を抱いた。彼女の体温は冷えていた。外套越しでもわかるほど、指先が細かく震えている。


 だから俺は、強く抱き寄せた。


「いる」


 ミユウの息が止まる。


「ここにいる。どこにも行かない」


 その言葉を合図にしたみたいに、船室の外で足音が走った。甲板の上から誰かの叫びが落ち、すぐ波の音に飲まれる。木材が軋み、帆が鳴り、遠くで鎖の擦れる音がした。


 エクリプシス島は、もう目の前にある。


 窓の霧が一瞬だけ晴れた。


 黒い断崖。


 月を隠す尖塔。


 浜辺に打ち上げられた、白い骨のような岩。


 その奥で、青黒い光が脈を打っていた。


 胸の奥が冷える。


 けれど、ミユウの手が俺の手を握った。


 アインが俺の袖を掴む。


 ジュリアが俺の膝に頬を寄せる。


 冷えはそこで止まった。


「あなた」


 ミユウが顔を上げる。


 銀髪が頬にかかり、灯の色を受けて薄く輝く。背中の翼はまだ俺たちを包んでいる。その羽の内側で、俺は彼女の声だけを聞いた。


「誓ってください」


 俺はミユウの指を握り返す。


「どんな恐怖に襲われても、どんな絶望を見せられても、帰ってくると」


 アインとジュリアが息を止めた。


 船が傾き、床に置いた小さな鞄が滑る。金具が床板を擦り、窓の外で波が砕ける。島から吹く風が隙間を抜け、灯の火を細く削った。


 俺はその全部を聞きながら、ミユウの前に膝をついた。


 アインが目を丸くする。


 ジュリアが俺の袖を離さない。


 俺は二人の手に自分の手を重ね、その上からミユウの手を包んだ。


「誓う」


 声は低く出た。


「俺は、エクリプシス島で何を見ても折れない。恐怖に足を掴まれても、絶望に喉を塞がれても、必ず立つ。ミユウ、お前の隣に戻る。アインとジュリアのところへ帰る」


 ミユウの瞳に灯が滲む。


「この手を離さない」


 俺は四人分の手を見下ろした。


「この温度を忘れない」


 ジュリアの指が、俺の指に絡んだ。


「この声を、闇の中でも聞く」


 アインが唇を噛み、こくりと頷いた。


「だから俺は、負けない」


 ミユウの目尻から、光が一筋落ちた。


 涙という言葉を使うより先に、それは頬を伝って俺の指に触れた。温かかった。船室の冷えの中で、そこだけが火を持っていた。


「わたしも誓います」


 ミユウは俺の前に膝をつき、額が触れそうな距離で俺を見つめた。


「あなたが闇の中で名前を失いそうになっても、わたしが呼びます。あなたが剣を握れなくなっても、わたしが手を握ります。あなたが帰る場所を見失っても、わたしがここにいます」


 彼女の指が俺の胸元を掴む。


「何があっても、絶対に離れません」


 アインが俺たちの手の上に、自分の小さな拳を置いた。


「ぼくも、はなれない」


 ジュリアも、震える指を重ねる。


「ジュリアも……パパ、ママ、おにぃちゃんと、いっしょ」


 船室の外で風が唸った。


 灯が消えかける。


 ミユウの翼が白く光った。


 その光は強くない。闇を焼くほどの熱もない。ただ、俺たちの手元だけを照らし、重なった指の影を床に落とした。俺はその影を見た。四つの影は、揺れても離れなかった。


 ミユウが俺の頬に触れる。


 指先はまだ冷たい。けれど、掌の奥に確かな熱がある。


「あなた」


「ああ」


「ここで、もう一つだけ」


 彼女の声が少し近くなる。


 アインが慌てて目をそらし、ジュリアが首を傾げる。俺はミユウの瞳を見た。そこに映る島影は小さく、代わりに俺の顔だけが大きく揺れている。


 俺は何も言わず、彼女の肩に手を添えた。


 ミユウの翼が俺の背中まで回り込む。羽の先が首筋を掠め、潮で冷えた皮膚に柔らかい感触を残した。彼女の息が唇に触れる距離まで近づき、船の揺れに合わせて銀髪が頬を撫でる。


 窓の外で、島の光が脈打つ。


 船室の中で、アインとジュリアの小さな呼吸が重なる。


 俺はミユウの手を握ったまま、彼女へ顔を寄せた。


 触れた瞬間、冷えた唇の奥に、細い熱があった。


 それは長くは続かなかった。けれど、潮の匂いも、黒い霧も、島から響く低い音も、その一瞬だけ遠ざかった。ミユウの指が俺の襟を掴み、俺の手は彼女の背に回り、白い翼の付け根に残る震えを掌で受け止めた。


 離れると、ミユウの息が俺の唇に触れた。


「帰りましょう」


 まだ上陸もしていないのに、彼女はそう言った。


 俺は頷いた。


「ああ。四人で帰る」


 アインが俺の腰に抱きつき、ジュリアがミユウのガウンを握る。ミユウは二人を翼で包み、その上から俺が腕を回した。


 四人分の体温が狭い船室の中で重なり、床下から伝わる海の冷えを押し返す。


 外で鐘が鳴った。


 一度。


 二度。


 三度目の音が鳴る前に、船が大きく傾いた。


 鞄が倒れ、灯が揺れ、窓硝子に黒い波が叩きつけられる。アインが息を呑み、ジュリアが俺のシャツを握りしめる。ミユウの翼が俺たちを強く包み、羽の奥で青白い光が走った。


 俺は立ち上がった。


 アインとジュリアをミユウに預け、剣の柄を握る。掌に革の感触が食い込み、爪の跡が熱を持つ。ミユウが俺の袖を掴んだまま、ほんの一瞬だけ離さなかった。


 俺はその手に、自分の指を重ねる。


「戻る」


 ミユウは俺を見た。


「待っています」


 言葉より先に、彼女の指が離れた。


 船室の扉へ向かう。


 床板が濡れていた。どこから入り込んだのか、黒い水が薄く広がり、足裏に冷たく張りつく。扉の向こうでは、甲板を走る足音と、帆の裂ける音と、誰かが祈る声が重なっていた。


 俺は振り返らない。


 振り返れば、もう一度抱きしめたくなる。


 抱きしめれば、足が止まる。


 だから、背中に三人分の温度を残したまま、扉の取っ手を掴む。


 金具は氷みたいに冷えていた。

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