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【Season2 】異世界転生したただの俺、大切な彼女を守るため最強の勇者目指します  作者: 東雲 明
第9章 ヴェイリノクス島編

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第138話 呼吸を重ねる夜

 船底から突き上げてくる鈍い震えが寝台の脚を小刻みに鳴らし、そのたび薄い毛布の上で俺の指先だけが不自然に跳ね、噛みしめた奥歯の裏へ鉄の味が滲むのを飲み込めないまま、湿った塩気を含んだ空気が喉の奥へ重たく貼りついていた。


 丸窓の向こうでは夜の海が墨を流したように揺れ、雲に削られた月明かりがひと筋、床板の節に沿って白く伸びては砕け、揺れに遅れてぶら下がるランタンの火が軋むたび、壁際に畳んだ子ども服の影まで細かく震える。


 胸の真ん中へ見えない杭でも打ち込まれたみたいに呼吸が半ばで止まり、吸おうとしたぶんだけ肋の内側が狭まり、喉を通る空気が針の束になって肺へ沈む。


 視界の端で木目が波打ち、起き上がろうと肘へ力を込めた瞬間、指の関節から先に熱が抜けていくのがわかって、掴んだシーツだけが汗で濡れた掌に絡みつく。


 耳の奥で遠く、甲板を打つ波の音とは別に、細い誰かの泣き息みたいなものが聞こえた気がして、その正体を探るより先に、喉の奥から掠れた息が勝手に漏れた。


「……っ、あなた」


 名を呼ぶ声が、揺れる灯りより先に肩へ触れた。振り向くより早く、背中へ腕が回り、薄い寝間着越しでもわかる手のひらの熱が肩甲骨の間へぴたりと貼りつく。


 銀の髪が頬にかかり、夜の湿気とは違うやわらかな匂いが胸元へ落ちてきた。


 俺の前へ回り込んだミユウが膝で寝台を軋ませ、苦く乾いた息を吐く俺の顔を両手で包むと、その指先だけがひどく冷えたこめかみをゆっくり押さえた。


「あなた、こっちを見て」


 見ようとした。けれど焦点が合う前に視界の中央で彼女の輪郭が揺れ、白い頬も、伏せられた睫毛も、背に畳まれた翼の端も、いったん水面みたいに歪んでから戻る。


 その遅れのせいで返事が間に合わず、俺は喉を鳴らすことしかできなかった。


 胸の奥で暴れる脈がひとつ跳ねるごとに指先の痺れが肘まで這い上がってきて、手を伸ばしたくても腕の重さが自分のものじゃない。


 ミユウはそんな俺の手を寝台の上から拾い上げ、自分の胸元へ押し当てた。薄い衣の下で確かに上下する熱が掌に触れ、その規則だけが、崩れかけた視界のなかでひとつの線になった。


「息を、置いていって。急がなくていいから」


 そう言って、彼女は自分の呼吸をわざとゆっくり見せるみたいに肩を動かした。


 俺の掌の下で肋が持ち上がり、下がり、その往復に合わせるように唇がわずかに開いて閉じる。


 真似をしようとした途端、肺の奥に溜まっていた熱い棘が一斉に逆立ち、浅い息が喉で割れた。


 咳き込むより先に前へ倒れかけた体を、ミユウの腕が抱き留める。細いはずなのに、背中へ回る力だけは驚くほど強く、俺の額はその肩口へ押しつけられ、耳のすぐ横で彼女の鼓動が打った。


 布越しに伝わる体温が、波にさらわれてばらばらになりかけていた意識の端を繋ぎ止める。


 肩へしがみついた自分の指が震えているのがわかるたび、みっともないと思うより先に、こぼれそうになる息をどこへ逃がせばいいのかわからなくなる。


 ミユウは俺の後頭部を抱える手を少しずらし、汗で貼りついた髪を指先で梳いた。額からこめかみ、耳の後ろへと辿るその動きが一定で、船がひとつ大きく揺れても、彼女の手だけは揺れの外にあるみたいにぶれなかった。


「大丈夫です、とは言いません。言うと、あなたは無理をするから」


 囁く声が近すぎて、言葉の終わりがそのまま唇に触れたように感じる。


 俺は肩口へ押しつけた額の向きを変え、かろうじて息を吸った。


 塩と木とランタンの油の匂いに混じって、ミユウの髪に残った石鹸の甘い香りが細く鼻先を撫でる。


 それだけで喉の奥に引っかかっていたざらつきがわずかにほどけた気がしたが、次の瞬間、胸の深いところでまた痛みが縮み上がり、指先から血の気が引いていく。視界の端が黒く狭まり、床板の白い筋が遠ざかる。


「……ミユ、ウ」


 やっと出た声は、自分でも驚くほど掠れていた。呼ばれた彼女の肩がぴくりと動き、抱く力がいっそう深くなる。


 背中へ回った指が寝間着の布ごと俺を掴み、逃がさないように肩甲骨の内側へ食い込んだ。その圧が妙にありがたくて、俺は半ば無意識に彼女の腰へ腕を回した。


 力は入っていないはずなのに、ミユウはそれを受け止めるように膝立ちのまま寝台へ近づき、俺の体を自分の胸へ寄せ直す。


「ここにいて。ちゃんと、ここに」


 胸元で言葉が震え、その震えごと俺の耳へ落ちる。返事の代わりに息を吐くと、吐いたぶんだけ体の奥が空洞になるようで、今度はその空洞に冷えた波が流れ込んだ。


 歯の根が合わず、肩が小さく跳ねる。すぐにミユウの手が俺の頬を包み、親指の腹が唇の端をぬぐった。汗か、唾液か、自分でもわからない湿りを拭われる感触だけがやけにはっきり残る。


「見て、あなた」


 顎をそっと持ち上げられ、揺れる視界の真ん中へ彼女の顔が降りてくる。


 白い頬に落ちた銀髪が一筋、ランタンの光を拾って細く光り、その奥で伏せられた睫毛が震えた。


 背中の翼は船室では広げられないせいで窮屈そうに畳まれていたが、それでも肩の後ろにこぼれる白さが、暗い木壁の前でひどく目立つ。彼女は俺の呼吸の乱れを確かめるようにほんの一瞬だけ距離を測り、それから迷いを見せず、唇を重ねた。


 最初に触れたのは熱よりやわらかさだった。荒く乾いた自分の唇へ、しっとりした温度が静かに押し当てられ、逃げかけた息の出口をふさぐ。


 驚く余地はなかった。彼女は離れず、そのまま浅く、もう一度角度を変えて重ね、喉の奥で千切れかけていた呼吸をゆっくり引き戻すみたいに、俺の吐く息を受け止めては返した。


 胸の痛みが消えたわけじゃない。けれど乱れていた間隔だけが少しずつ揃い、浅く裂けていた吸気の音が、ひとつの細い線になっていく。


 彼女の鼻先が頬に触れ、睫毛がかすかに揺れて肌を掠める。


 離れたかと思えばすぐまた近づき、今度は短く触れるだけの口づけが幾度か続いた。


 あやすようでいて、甘やかすだけでもなく、乱れた鼓動を外側から一定の速さへ合わせていくような、妙に実際的な温度だった。


 俺の胸板へ添えられた彼女の手が、上がるたび下がるたび、呼吸の幅を測る。乱れれば唇が戻り、喉の奥で詰まれば額が触れ、肩が震えれば背を撫でる。


 その繰り返しのなかで、さっきまで骨の内側で暴れていた脈が、少し遅れて耳の奥へ沈み始めた。


「……そう。いまのまま」


 囁きに従うつもりはなくても、体のほうが勝手に彼女へ合わせていく。


 吸う。浅くてもいい。吐く。吐き切らなくていい。その合図が言葉より先に唇と指先から伝わる。


 額を彼女の額へ預けたまま息を繰り返していると、喉の奥の針束が一本ずつ湿って重くなり、痛みの輪郭だけが鈍っていく。


 代わりに全身へ遅れて疲労が広がってきた。肩、背、腰、指先。さっきまで痛みと痺れに押しやられていた重さが、今度は正面から体へのしかかる。


 ミユウは俺の変化を感じ取ったのか、抱きしめる力を少しだけ緩め、それでも離さずに頬へ指を当てた。


 汗で冷えた皮膚の上を、彼女の指先がゆっくり滑る。まぶたが勝手に落ちかけるたび、彼女の親指がこめかみを円を描くように撫で、意識の縁でひっかかっていた棘を一本ずつ抜いていくようだった。


「聞こえますか、あなた」


「ああ……」


 返事は出たが、声になりきらず喉で擦れた。それでもミユウは頷き、俺の額に触れていた額を離すと、今度は鼻先が触れるほどの距離で囁いた。


「次の島は、エクリプシス島です」


 その名が耳へ入った瞬間、揺れる船室の匂いの奥から、まだ見ぬ陸の気配がほんの一瞬だけ立ち上がった気がした。


 黒い海の先、日を呑み込むみたいな名を持つ島。そこへ向かうためにこの船へ乗り、こうして夜を越えようとしているのだと思い出す。


 けれど思い出したところで体はひどく遠く、寝台の縁に置いた手の感覚さえ、もう半分ほどしか残っていない。エクリプシス島、と口の中で反芻しようとしたが、舌がうまく回らず、代わりに息だけが漏れた。


「……エク、リ……」


「はい。もう少しです」


 その“もう少し”がどれほど先を指すのか確かめる余裕はなかった。


 ミユウの声はすぐ近くにあるのに、水の底から聞いているみたいに輪郭がやわらかくなる。


 ランタンの火が揺れ、そのたび彼女の髪に走る細い光も伸びたり縮んだりした。背後の壁際で、小さな寝息がふたつ重なって聞こえる。


 アインとジュリアだ。衝立の向こう、寄せた寝台で丸くなって眠る二人を起こさないよう、ミユウはずっと声を抑えていたのだと、そのときようやく気づいた。


 子どもたちの寝息は、波音より細く、けれど確かにこの船室を満たしていた。


 俺はそちらを見ようとして首をわずかに動かしたが、ミユウが「そのままで」と囁き、頬へ手を添えた。


 逆らうだけの力がなく、俺は彼女の肩へ頭を預ける。肩口の布地は俺の汗を吸って少し湿っていたが、その奥にある体温は変わらず、皮膚の下で小さく動く筋肉の感触まで伝わってくる。


 白い翼の付け根へ顔が触れ、柔らかな羽先がこめかみをかすめた。ふわりとしたその接触が意外なほど現実的で、夢へ沈みかけた意識をほんの少しだけ引き上げる。


「あなた、頑張りすぎです」


 責めるでもなく、宥めるでもなく、ただ事実みたいに置かれた言葉だった。


 俺は笑おうとしたのかもしれない。けれど頬は動かず、代わりに喉の奥で掠れた息が鳴る。


 ミユウはその息ごと受け止めるように俺の頬へ自分の頬を寄せ、しばらく何も言わなかった。


 言葉の代わりに、彼女の手が背中を一定の幅で行き来する。肩甲骨から腰へ、腰からまた肩へ。


 子どもを寝かしつける手つきにも似ていたが、そこに余計な優しさの飾りはなく、ただ俺の呼吸を散らさないためだけに動いているのがわかった。


 船が大きく傾き、丸窓の外で波頭が白く砕ける。ランタンの火がいっそう細くなり、船室の隅が闇へ沈む。


 その闇のなかで、床へ脱ぎ捨てられた俺の上着が揺れ、椅子の背に掛けたミユウのカーディガンの袖がわずかに揺れるのが見えた。見えた、と思った次の瞬間にはもう輪郭が滲み、視界の周りから色が落ちていく。


「あなた」


呼ぶ声がもう一度。今度は少し遠い。


「……いる」


 返したつもりだったが、実際に出たのは息だったかもしれない。


 ミユウの手が後頭部を支え、寝台へゆっくり体を戻す。


 背中が薄いマットに触れた途端、全身の重さが一斉に沈み込み、さっきまで抱き留められていた分だけ余計に深く落ちた。


 頭の後ろに置かれた枕が熱を持たないまま冷えていて、その冷たさが汗を吸った髪越しにじわりと広がる。目を開けていたいのに、まぶたの裏へ暗さが流れ込んでくる速度のほうが早い。


 ミユウが身を屈め、俺の額へ唇を当てた。さっきの口づけとは違う、触れるだけの軽い熱。


 それが離れたあと、彼女の指先が眉の上からこめかみへ流れ、睫毛の際に落ちかけた汗をぬぐう。


 薄く開いた視界の隙間で、彼女の髪が肩から滑り落ち、白い喉元にかかった小さな銀の留め具が揺れた。彼女はそれを気にする様子もなく、寝台脇へ片膝をついたまま、俺の呼吸が乱れないか見守っている。


 壁の向こうで、ジュリアが寝返りを打ったらしい。小さな布擦れの音がして、続いてアインの低い寝息が少し深くなる。


 ミユウはそちらへ一瞬だけ目を向け、すぐに戻した。その横顔がランタンの下でやわらかく光り、頬のあたりにかかった髪が細かく震えている。


 船の揺れのせいだけではないのだと気づくころには、俺の意識はもうかなり浅いところまで沈んでいた。


「眠ってください、とは言いません」


 彼女はそう囁いてから、わずかに言葉を切った。


「でも、少しだけ、体を預けて」


 預けるも何も、もう自分の体を持ち上げておくことすらできない。


 俺はかすかに指を動かし、寝台の上で彼女の袖口を探った。


 触れたのは細い編み目の縁で、その先を辿る前にミユウの手が俺の手を包み込む。指の間へ指が入ってくる。冷えていたはずの自分の手が、そこだけ急に熱を思い出したみたいにじわりと痺れる。


「はい」


 短い返事。まるで最初から俺の動きを知っていたみたいな声だった。


 そのままどれほど経ったのかわからない。波が一度、二度、船腹を叩き、遠くで木材が軋む。


 ランタンの火がまた揺れ、明滅した光がまぶたの裏で赤く滲む。


 胸の痛みはまだ奥に残っていたが、刃物の鋭さは失い、重い石がひとつ置かれているような鈍さへ変わっていた。


 呼吸は浅い。それでも、さっきのように途中で千切れることはない。吸えば胸が上がり、吐けば少し沈む。その単純な往復だけが、今の俺にはひどく難しく、ひどく確かな営みだった。


 いつのまにかミユウの手が離れ、代わりに布が一枚、胸元へかけられる。


 ふわりと落ちてきたそれが喉元から肩、腕へと順に重さを乗せ、編み目の細かい柔らかさが寝間着の上から肌へ沿う。


 彼女のカーディガンだとわかったのは、襟元に残った匂いがさっきまで抱きしめられていた肩口の匂いと同じだったからだ。 

 石鹸と、夜気と、彼女自身の熱が少しだけ移った匂い。胸まで引き上げられた布の端を、ミユウの指がきちんと整えていく。


「冷えますから」


 そう言う声が、遠いのに近い。俺は目を開けようとしたが、まぶたは半ばまでしか上がらず、視界のなかでミユウの白い手だけがぼんやり動く。


 肩口へずれた布を直し、汗で濡れた前髪を額から払って、寝台の端に落ちかけたカーディガンの袖をそっと引き寄せる。彼女の指先が最後に喉元のあたりを軽く押さえ、布の重なりを確かめた。


 その圧が離れたあとも、そこだけに温度が残る。船の揺れに合わせてカーディガンの裾がかすかに擦れ、編み目の柔らかい凹凸が胸の上でゆっくり位置を変える。


 俺はその摩擦を追うみたいに、もうほとんど動かない指先を布の端へ寄せた。触れた場所は少しだけ湿っていて、けれどすぐ下には彼女の残したぬくもりがあり、そのぬくもりへ爪先ほどの力で縋ろうとしたところで、また船がひとつ深く傾き、肩へ落ちた袖口の毛糸が喉元をかすめ、熱の抜けかけた皮膚にやわらかく貼りついたまま、次の揺れでほんの少しだけ滑って、そこで止まり、まだ温かいその端が俺の鎖骨のくぼみに触れたまま、じわりと――。

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