第137話 眠れぬ夜に、手を握る
ミユウの掌の上で、宝玉はまだかすかに熱を残していた。
森を満たす夜気は冷えているのに、その青は指先のあいだから小さく脈を打ち、呼吸に合わせるみたいに明滅をくり返し、別れの言葉を呑み込んだ喉の奥へ、焼けるような静けさを押しつけてくる。
白い羽の端に絡んでいた月の光が、向かい合う二人のあいだだけ薄く濃く揺れ、そのたびにミユウの睫毛に溜まったものが震え、リリアの黒い羽の影が足元の草を長く裂いた。
誰も急かさない。風だけが森の匂いを運び、湿った土と砕けた葉の青臭さが肺の奥へ沈んでいく。
その匂いの底で、ようやく戻ってきたはずの静けさが、むしろ胸骨の裏を鈍く叩きつづけていた。
手を伸ばせば届く距離にいるのに、次にこの光景を見られる保証がどこにもない。その当たり前すぎる事実が、刃じゃなく、冷えた鎖のようにじわじわ締まってくる。
ミユウが両手で宝玉を包み、そのまま胸元へ引き寄せたとき、リリアの肩がほんのわずかに揺れた。
黒い羽の根元に入り込んでいた白い月光がふっと乱れ、次の瞬間、ミユウの体が前へ出る。
ためらいを挟まない抱擁だった。細い腕がリリアの背へ回り、白と黒の羽が擦れ合って、乾いた羽音が夜の森にほどける。
その音がやけに近く聞こえて、俺は無意識に息を止めていた。
「……また、会おう」
ミユウの声は低く、押し殺したぶんだけ芯が残った。
リリアはすぐには答えなかった。ミユウの肩口へ顔を埋めたまま、指先だけが宝玉の光を追うように揺れ、それから、途切れそうな吐息に乗せるように言う。
「はい……必ず。また、今度は、こんな別れ方じゃなく」
その言葉の途中で、喉の奥が詰まったのがわかった。顔は見えなくても、抱きしめる腕の強さで充分だった。
離したくない力と、離さなければ前へ進めない力が、同じ細い腕の中でぶつかっている。
ミユウの肩が小さく上下し、白い羽の先が震える。リリアの黒い羽も、それをかばうように少しだけ丸まった。
俺は口を挟まなかった。挟めるものじゃないと思った。
ここで俺が何か言えば、たぶん全部軽くなる。二人が今、言葉より先に抱きしめ合って確かめているものは、慰めでも約束の形だけでもない。
失われた時間の重さごと、もう一度手の中へ戻そうとする、必死な体温だ。
やがてミユウがゆっくりと顔を上げた。濡れた睫毛の奥、それでも瞳の色は落ちていない。
リリアも同じように息を整え、唇を噛む代わりに一度だけ目を閉じ、それから俺を見る。
「龍夜さん」
呼ばれて、肩の奥に入っていた力が少しだけ動く。
「……なんだ」
「ミユウを、お願いします」
その言い方に、胸のあたりが鈍く軋んだ。任せろ、なんて軽く返したくなくて、一拍置いてから頷く。
「ああ。お前も、次に会う時まで、勝手にくたばるな」
リリアの口元がかすかに緩み、けれどすぐにその笑みは濡れた夜気に溶けた。
「はい。龍夜さんも」
ミユウが宝玉を握った手を胸元に当てたまま、俺の隣へ戻ってくる。
肩が触れる寸前で止まり、それでも離れない熱が袖越しに伝わった。
リリアは一歩下がり、黒い羽を静かに広げる。森の上を渡る風が羽の縁を撫で、散っていた銀髪を夜空へほどいた。
「またね、リリア」
ミユウのその一言は、小さかったくせに、森の奥まで届くように長く残った。
「はい。また」
黒い羽が大きく一度だけ打たれる。巻き上がった葉が足元を掠め、月光の下で舞い、それが落ちきる前に、リリアの姿は木々の影へ溶けていった。
最後まで残ったのは羽じゃなく、あの宝玉と同じ色を一瞬だけ映した瞳の光で、それも枝葉の隙間に砕けて見えなくなる。
森に沈黙が戻る。
けれど、さっきまでと同じ静けさじゃない。別れの熱を呑み込んだあとの夜は、妙に広く、少し触れただけで深いところまで冷える。
ミユウの指が俺の袖を探り、そっと掴んだ。振り返ると、泣き腫れた目のまま、けれど唇だけはきゅっと結ばれている。
「行きましょう、あなた」
ああ、と返した声が思ったより掠れていた。
俺たちは森を抜けた。月明かりは枝の隙間から細く差し込み、濡れた地面にまだらな銀を落とす。
踏みしめるたび、湿った土が靴裏にわずかに沈み、折れた小枝の感触が遅れて足の裏へ返ってくる。
ミユウは宝玉を離さず、何度も胸元へ指を寄せていた。そのたび青い光が掌の内側で瞬き、彼女の白い羽の縁を淡く染める。
船へ戻る道のりで、子どもたちは途中から眠ってしまった。
アインは最初こそ周囲を気にしていたが、俺の背に凭れたまま、いつのまにか規則正しい寝息を落としている。
ジュリアはミユウの腕の中で、頬を胸元へ押しつけ、指だけが彼女の服を握ったまま動かない。幼い体の温度はやけにまっすぐで、それが今夜に限って、逆に胸へ刺さった。
船影が見えたとき、ようやく肺の奥に溜まっていたものが少し抜けた。
甲板へ上がる前、俺は森を振り返る。暗い木々は何も答えない。
ただ、見えなくなったはずの奥にまだ誰かの気配が残っている気がして、視線を切るまでに少し時間がかかった。
ミユウが横に並び、その気配ごと受け取るように静かに言う。
「きっと、会えます」
「……ああ」
それだけで済ませたのは、強がりじゃなかった。下手に言葉を足せば、今夜は崩れる。まだ崩れるわけにはいかない。
船室へ戻り、眠った子どもたちを寝台へ降ろす。
小さな背中が毛布に沈むたび、胸の奥にあった硬いものが少しだけほどける。
アインは寝返りも打たず、手だけを握っていた。
夢の中でも何かを掴んで離すまいとしているみたいだった。
ジュリアは枕へ頬をこすりつけ、唇をわずかに開き、穏やかな寝息を漏らす。さっきまで森にいたのが嘘みたいに、二人の周りだけ時間が柔らかい。
ミユウが毛布の端を整えながら、横目で俺を見た。
「もう少しですね」
「ああ」
「ここまで来たんですもの。必ず、止めましょう」
その声音に押されるみたいに、俺はゆっくり頷いた。
魔王の復活を阻む。口に出せば単純な一文なのに、その裏に積み上がった顔の数を思えば、軽々しく飲み込める言葉じゃない。
けれど今、足を止める理由はどこにもなかった。ここで終わらせる。その一点だけが、疲労で鈍った骨の奥に、まだ熱を残している。
「もう少しで、終わる」
俺がそう言うと、ミユウは小さく微笑んだ。けれどその笑みは、安堵だけではできていない。
宝玉を握る手にまだ力が入っている。リリアと交わした約束が、彼女の胸の中で新しい重さになっているのがわかった。
「終わらせて、それから」
ミユウは言い切らず、寝息を立てる子どもたちへ目を向けた。
その続きは、たぶん同じだ。皆で笑う未来でも、また誰かに会いに行く約束でも、全部そこへ繋がっている。
その夜、俺は久しぶりに少し深く眠れる気がしていた。
甘かった。
最初に聞こえたのは、金属が軋むような低い音だった。
夢の中なのに、耳の奥がやけに生々しい。湿った風が頬を撫で、鼻を刺すのは血と焦げた木の匂い。
目を開けた途端、視界いっぱいに赤が広がっていた。炎に照らされた森。
黒く焼けた幹。火の粉を巻き上げる風。どこか遠くで、泣き声とも獣の咆哮ともつかないものが夜を裂いている。
俺は剣を握っていた。柄は汗で滑り、掌の皮が捲れた場所へざらつきが食い込む。喉は熱いのに、背中には氷水を流し込まれたみたいな寒気が這っていた。
「ミユウ!」
叫んだつもりの声は、炎の爆ぜる音に呑まれる。前方、燃え落ちた枝の向こうで白いものが揺れた。
走る。地面は灰にまみれ、踏み込むたび熱が靴底から染み上がってくる。枝を払い、煙を掻き分けた先で、俺の足が止まった。
ミユウが膝をついている。
白い羽は煤に汚れ、片方の翼には深く裂けた傷が走っていた。
胸元へ押し当てた手の隙間から、赤が指を伝って落ちる。いつもなら俺を見るだけで柔らかく緩む瞳が、今は焦点を結べず、かすかに揺れていた。それでも唇だけが動く。
あなた――
声にならない。
その向こうに、黒い影が立っている。
巨大な角。闇を煮詰めたような外套。足元の炎すら呑み込む濃さの気配。
魔王、と認識した瞬間、喉の奥が引き攣った。足が前へ出ない。
出なければ終わるのに、膝の裏で何かが凍りつき、筋肉が命令を拒む。剣を握る手が震え、歯の裏に鉄の味が滲んだ。
その時、幼い声が聞こえた。
「パパ!」
振り向く。少し離れた場所で、アインがジュリアの前へ立っていた。小さな両腕を広げ、震える脚で、それでも一歩も退いていない。
ジュリアは兄の服を掴んだまま、泣くのをこらえるように唇を噛んでいる。火の粉が頬に落ち、白い肌へ赤い点を残した。
走れ。
頭の中で誰かが怒鳴る。
走れ、斬れ、守れ。
なのに体は泥に沈んだみたいに重く、胸の真ん中へ杭を打たれたように息が止まる。魔王が腕を上げる。闇が形を持ち、槍のように尖る。その先端が、子どもたちへ向いた。
「やめろッ!」
叫んで踏み込んだはずなのに、距離は縮まらない。
足元の地面が裂け、炎が立ち上がり、熱風が顔面を叩く。視界の端でミユウが倒れる。
白い羽が地に散る。アインの喉が引きつった声で、もう一度俺を呼ぶ。ジュリアが兄の背にしがみつき、その細い指が震えている。
間に合わない。
その確信だけが、やけに鮮明だった。
闇の槍が走る。
アインの小さな体が跳ねる。ジュリアの口が開く。声は聞こえない。耳鳴りが全部を潰し、次に見えたのは赤だけだった。
アインの肩口から噴いた血が炎に照り返し、ジュリアの頬を染める。
守ろうとした兄の前で、妹が目を見開いたまま固まる。すぐ次の一撃がその細い体を貫き、白い寝巻きみたいに軽い衣が、濡れた紙のように沈んでいく。
足が、竦んだまま動かなかった。
喉が裂けるほど叫んでも、腕が届かない。剣を振ろうとしても、指が痺れて開きかける。魔王の影がこちらを向き、嗤った気がした。その口元は見えないくせに、確かに嘲りだけがわかる。
お前はまた守れない、と。
次の瞬間、ミユウの胸を闇が貫いた。
白い羽が大きく跳ね、血が飛ぶ。彼女の体が後ろへ崩れ、その先で地面に頭がぶつかる鈍い音が、やけにはっきり耳へ刺さった。
宝玉が掌から転がり出て、泥と血にまみれた地面で青い光を瞬かせる。助けを求めるみたいに、弱く、弱く。
俺はようやく走り出す。
遅い。
何もかも遅い。
子どもたちのもとへ辿りつく前に、アインの瞳から光が引く。ジュリアの指が宙を掴んだまま落ちる。ミユウへ膝で滑り込んだ時には、彼女の唇からこぼれる息はもう細く、胸元の傷から流れた熱が俺の手を濡らすばかりだった。
「ミユウ……ッ、ミユウ!」
抱き起こした体は信じられないほど軽い。軽すぎて、余計に現実味がない。彼女の睫毛が震え、血に濡れた唇がかすかに動く。
あなた――
それだけ。
その先が続かない。
肩を揺すっても、呼んでも、もう戻らない。腕の中から体温が逃げていく。指先が冷える。宝玉の青い光が、泥の中でひどく遠い。
やめろ。
やめてくれ。
胸の奥で何かが引きちぎれ、吸い込んでも吸い込んでも空気が足りない。喉が狭まり、心臓が肋骨を内側から蹴りつけ、視界が暗く明滅する。手が震える。歯が鳴る。吐き気がせり上がる。耳の奥で、さっきの嗤い声だけが何度も反響する。
守れなかった。
また。
その言葉が形を持った瞬間、俺は跳ね起きた。
喉の奥で引き攣った息が、獣みたいな音になって漏れる。
暗い船室。小窓の向こうは夜の海。現実だと理解するより先に、体が勝手に震えていた。
肩で息を吸うたび胸が狭く、肺の奥に冷えた針を差し込まれるみたいに痛い。寝台の縁を掴んだ指先は痺れ、汗で濡れた寝間着が背中へ張りついて気持ち悪い。心臓の鼓動が速すぎて、脈の音が耳の中で暴れている。
夢だ。
夢だった。
そう言い聞かせても、目の裏に焼きついた赤が剥がれない。ミユウの血の温度も、アインの細い肩が跳ねた瞬間も、ジュリアの手が空を掴んで止まった形も、全部まだ手の届く距離に残っている。
吐き気を堪えきれず、俺は口元を押さえたまま床へ膝をついた。胃が痙攣し、何も出ないまま喉だけが焼ける。
「……っ、は……」
うまく吸えない。
息を吸うたび途中で詰まり、胸の中央が固く閉じる。肋骨の内側を内側から握り潰されるみたいで、背中までひきつった。
視界が狭まる。指が冷たい。足先の感覚が薄い。頭の芯だけ熱く、汗がこめかみから頬を伝う。
駄目だ、飲まれる。
そうわかった瞬間、俺は無理やり歯を食いしばった。掌を床へ押しつけ、木の感触を確かめる。
ざらつき。冷たさ。爪の先に入る細かな痛み。ひとつ、ふたつ、呼吸を数える。吸って、止めて、吐く。喉はまだ言うことを聞かない。それでも、数える。掌へ体重を乗せ、今ここにいる現実を骨へ押し込む。
小さな寝息が聞こえた。
反射みたいに振り向く。寝台の上、アインが毛布に包まれ、無事な肩で静かに眠っている。
ジュリアもいる。胸が上下している。ミユウも、隣の寝台でこちらを起こさないよう浅く眠っている。暗がりの中でも、頬の輪郭も、髪も、羽も、ちゃんとある。
その事実が、切れかけた息の糸をようやく手元へ戻した。
俺は立ち上がらず、そのまま床に膝をついたまま呼吸を整えた。
喉の奥はまだ震えていたが、やがて鼓動がほんの少し遅くなる。額から落ちた汗が床に小さな点を作り、船の揺れに合わせて肩の力が少しずつ抜けていく。
けれど、眠り直した先でまた同じものが来る予感だけは消えなかった。
それは一夜で終わらなかった。
次の夜も、その次も、闇は同じ顔をしてやってきた。
燃える森。血の匂い。闇の槍。守れない手。違う順番で、違う角度で、けれど結末だけは必ず同じ場所へ落ちる。
ある夜はアインが俺の前で倒れ、ある夜はジュリアが泣きもせず消え、ある夜はミユウが俺の名前を呼ぶことすらできない。どの夢でも俺の足はほんの一瞬遅れ、その一瞬がすべてを奪う。
目が覚めれば、発作みたいに息が乱れた。
胸が締まり、心臓が速く打ち、指先から熱が引く。汗で濡れた寝具、喉の渇き、吐き気、耳鳴り。
ひどい時は立ち上がろうとしただけで膝が折れ、床に手をついたまましばらく動けなかった。眠りが近づく気配だけで、体のどこかが先に硬くなる夜もあった。瞼を閉じた瞬間、またあの赤が来ると知っているからだ。
それでも朝は来る。
子どもたちは起きる。アインは目をこすりながらも俺の顔色を見て、何か言いたげに口を閉じる。
ジュリアは眠そうなまま毛布を引きずり、ミユウの足にくっついて歩く。ミユウは俺の額に手を当て、何も問い詰めず、ただ少し長く触れる。そのぬくもりに甘えれば崩れそうで、俺は平気だと短く返すしかない。
本当に平気なわけがない。
鏡がなくてもわかる。目の奥は重く、まぶたの裏には眠り損ねた夜のざらつきが残っている。
剣を握る手も、以前よりわずかに力が入りすぎる。食事の匂いで胃が受けつけない時もあった。甲板へ出て風を吸っても、胸の底に沈んだ黒いものは簡単に浮かない。
けれど、折れるわけにはいかなかった。
夢の中で守れなかったからこそ、現実で膝をつく余地なんてない。
あの闇が俺の奥底に爪を立てているのなら、掴まれたままでも前へ進むしかない。震える指を握り込み、息を整え、剣を取る。その動作を何度も体へ叩き込んだ。夜に壊されかけた分を、朝ごとに組み直すみたいに。
ある夜、発作で目を覚ました俺は、いつもより強い眩暈に襲われた。
視界の端が黒く欠け、耳鳴りがきつい。喉を押さえながら寝台の縁に身を預けると、木が軋んだ。
呼吸が浅い。吸っても吸っても胸の上の重みが退かない。額から顎へ汗が伝い、背中の布が冷えきって気持ち悪い。
起こすな。
そう思って息を殺そうとした時、小さな気配が動いた。
毛布の擦れる音。柔らかい足音。次いで、俺の膝にちょん、と何かが触れる。
見下ろすと、ジュリアが立っていた。
髪は寝癖で少し跳ね、片方の目をこすったせいで睫毛がくしゃりと寄っている。
眠たそうなのに、俺の顔だけはまっすぐ見上げていた。暗がりの中でも、その瞳が揺れていないのがわかる。小さな手が俺の膝へもう一度触れ、それから、おそるおそる寝台へ上がってくる。
「……パパ」
掠れた声で呼ばれ、喉の奥がひどく熱くなった。
ジュリアは俺の前へ座り込み、両手を伸ばして俺の袖をぎゅっと握った。
小さな指先。まだ柔らかい手のひら。その熱が、発作で冷えた指先へじんわり移ってくる。
「また、いたいの」
否定しようとして、うまく声が出なかった。息の乱れが残ったまま、俺はかすかに首を振る。
「……すぐ、治る」
ジュリアは少しだけ口を尖らせた。信じていない顔だった。
けれど責めるでも泣くでもなく、しばらく俺を見つめ、それから自分の毛布を引きずってきて、俺の膝の上へ無理やり乗せる。何をするのかと思えば、そのまま俺の腕の中へ身体を滑り込ませてきた。
小さな体が胸へ当たる。
柔らかい髪が顎に触れる。石鹸みたいな甘い匂いが、汗と冷えで荒れた呼吸の隙間にそっと入り込んだ。
ジュリアは俺の服を握ったまま、頬を押しつける位置を探すようにもぞもぞ動き、ようやく落ち着くと、小さな声で言う。
「いっしょにねよう」
胸の中央で、きつく結ばれていたものがわずかに緩む。
「ジュリア、どこにもいかない」
幼い声は頼りないほど細いのに、その一言だけが、夜の底へまっすぐ落ちていった。
どこにもいかない。たったそれだけの言葉が、夢の中で何度も失った小さな手の感触と重なり、今、腕の中に確かにある重みを際立たせる。
ジュリアはさらにぎゅっとしがみついてくる。
「パパ、こわいの、いやだもん。ジュリア、ここにいる。だから、ねるの」
喉が塞がる。返事をする前に、俺は娘の背へ腕を回していた。
折れそうなくらい細い背中。そこへ触れた瞬間、夢の中で何度も失ったものが、現実ではちゃんと温かく息をしているのだと思い知らされる。
抱く力が強くなりすぎないよう気をつけながら、それでも離したくなくて、俺はジュリアを胸に抱き寄せた。
「……ああ」
やっと出た声は、情けないほど低く掠れていた。
ジュリアはそれで充分だというみたいに、俺の胸元へ頬をすり寄せる。
小さな手のひらが、ぎこちなく俺の背をぽん、ぽん、と叩いた。慰めるつもりなのだろう。強くも上手くもない、その不揃いなリズムが、かえって胸に沁みる。
「パパ、だいじょうぶ」
その言葉を、今度は俺が否定できなかった。
大丈夫じゃない夜を、娘の腕がそうやって囲ってしまう。
頼る側でいたい年齢のはずなのに、こんな小さな体で俺を繋ぎ止めてくる。その事実に、胸の奥が静かに、けれど深く揺れた。
気づけば、寝台の向こうでアインも起きていた。半分眠った顔のまま、けれど目だけはしっかりこちらを見ている。
何も言わず、そっと自分の毛布を抱え、俺たちの隣へ寄ってきた。そのまま俺の腕とは反対側に潜り込み、背中を預けるようにくっつく。
「パパ、あったかくしとけばいい」
眠気で少し丸くなった声が、妙に頼もしかった。
「おにぃちゃんも、いっしょ」
ジュリアがもごもごと言う。
「うん」
アインは短く頷き、もう一度だけ俺を見た。その眼差しの奥に、子どもなりの不安も心配も全部ある。それでも泣かず、騒がず、ここにいると決めた顔だった。
俺は二人を抱いたまま、しばらく動けなかった。
胸の中に残っていた悪夢の棘が、消えたわけじゃない。
発作の名残で呼吸はまだ浅く、喉の奥にも苦いものが残っている。それでも、腕の中の温度がひとつ増え、背中に寄りかかる重みがもうひとつ増えるたび、闇に塗り潰されかけていた場所へ、少しずつ輪郭が戻ってくる。
守る。
その言葉は、こういう重さのことだったのかもしれないと思う。
剣を振るう時だけじゃない。眠れない夜に崩れそうな呼吸を繋ぎ止め、差し出された小さな手を掴み返し、朝が来るまで抱きしめて離さないことも、きっと同じだ。
強さは一度で証明できるものじゃない。倒れそうな夜の数だけ、何度でも選び直すしかない。
俺はジュリアの髪へ唇を寄せ、アインの頭にもそっと手を置いた。
「……ありがとう」
二人はもう半分眠っていた。返事の代わりに、ジュリアの指が服をさらに握り、アインが小さく鼻を鳴らす。そのささやかな反応だけで充分だった。
船の外で波が船腹を叩く。一定の音。夜はまだ長い。夢はまた来るかもしれない。
それでも今は、この温度がある。失っていない。まだここにいる。ミユウも、アインも、ジュリアも。守るべきものは、悪夢の中じゃなく、この腕の中で息をしている。
その事実を骨の奥まで刻みつけるように、俺は目を閉じた。
二度と同じものを奪わせない。
胸の内でそう誓った瞬間、言葉は炎のように激しくはなく、むしろ鉄が静かに冷えて固まるみたいに、深いところで形を持った。
揺らがない。折れない。たとえ毎夜、闇が喉元まで来ても、そこで膝を折るわけにはいかない。
俺は父親で、夫で、この家族の前に立つ者だ。守れなかった夢に何度殺されようと、現実で立ち続ける限り、終わったことにはならない。
ジュリアの寝息が胸元で整っていく。アインの体温が背に伝わる。少し遅れて、寝返りを打ったミユウの羽音が微かに聞こえた。
暗い船室の中で、俺は娘と息子を抱いたまま、ゆっくりと呼吸を整えた。
もっと強くなる。
今度は願いじゃない。
誓いだった。




