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【Season2 】異世界転生したただの俺、大切な彼女を守るため最強の勇者目指します  作者: 東雲 明
第9章 ヴェイリノクス島編

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第135話 戻って、リリア

 乾いた破裂音がひとつ、耳の奥で硬く弾けた瞬間、青い光が俺とミユウのあいだからもぎ取られるように飛び、回転しながら闇へ消えた。


 銀の鎖がちぎれる音はやけに細く、それなのに剣を噛み合わせた時よりも深く骨へ響き、視界の端でほどけた青が床石を跳ねたのを見た途端、胸の奥で何かが引き攣ったまま動かなくなる。


 ミユウの喉元に残ったのは白い肌へ食い込む赤い擦れ跡だけで、そこだけが戦場の冷えから切り離されたみたいに生々しく浮いていた。


 その一瞬の空白へ、リリアは容赦なく踏み込んできた。


 黒い羽が夜を裂くように大きく開き、羽縁にまとわりついた紫黒の瘴気が尾を引いて地面を舐める。


 次に見えたのは、細い腕から信じられない速さで振り下ろされる刃の軌道だった。月光の残滓みたいな白さを持っていたはずの彼女の輪郭は、いまや闇の底で研がれた硝子片みたいに鋭く、近づくだけで喉の粘膜が焼ける。


 剣を上げる。


 上げた、はずだった。


 だが、踏み込み切るより早く、手首にわずかな鈍りが生まれる。


 目の前にいるのがただの敵なら、こんな間は生まれない。


 迷いの正体を考える暇すらなく、銀黒の刃が肩口を抉るように滑り、火花と一緒に衝撃が骨へ食い込んだ。


 横薙ぎに吹き飛ばされ、靴裏が石を削る。息を立て直す前に二撃目が来る。


 低く沈んだ体勢から跳ね上がる斬撃が腹を狙い、俺は身を捻って紙一重で避けたが、風圧だけで上衣が裂け、肌に走った浅い熱が遅れて滲んだ。


 間合いが、詰まりすぎている。


 距離を取るために後ろへ流れようとした瞬間、黒羽が視界を覆った。


 羽ばたきですらない。ただ一振り、肩を返しただけの動きだったのに、濃い瘴気を孕んだ風塊が壁のように正面から叩きつけられ、肺の中の空気が押し戻される。


 踏ん張った脚が半歩、さらに半歩、勝手に下がり、砕けた石片が踵の下で悲鳴を上げた。


 リリアの瞳が近い。


 金にも赤にも見える、落ち着きのない光が揺れていた。


 怒りとも憎しみとも違う、もっと奥で何かを焼き切ってしまった色だ。


 その目に見据えられたまま、三撃、四撃と連なる刃を受け流す。


 鋼が噛み合うたび、甲高い音が頭蓋の内側で跳ね返り、腕の痺れが肘から肩へ這い上がる。重いのではない。


 むしろ軽い。軽いくせに、振りの終わりに残る殺意だけが異様に深く、触れた場所からじわじわ体温を奪っていく。


 斬り返せる。


 この角度なら、剣を返して弾き、手首を落とし、そのまま胸元の宝玉ごと叩き割れる。


 そう分かっていながら、刃先が止まる。


 銀髪が翻るたび、昔見た面影がちらつくからだ。ミユウの隣で笑っていた頃の、あのやわらかい目元。からかう時だけ少し上がる唇。細い指で髪を払う癖。戦場のただ中にあるはずなのに、そういう断片だけが余計に鮮明で、腕に入れるべき力を削いでいく。


 その鈍りを、リリアは見逃さなかった。


 踏み込んだ足が床を砕く。低く潜り込んだ姿勢から、黒い刃が雷みたいに下から跳ねた。


 咄嗟に受けた剣ごと腕が持っていかれ、肩関節が軋む。体勢が開いた腹へ、膝が叩き込まれた。


 胃の奥の空気が一気に潰れ、口の中へ鉄の味が広がる。さらに追撃。真横から羽の一閃。鋭利な羽軸が無数の短剣みたいに迫り、俺は身を低くして二本三本を躱したが、避けきれなかった一本が頬を切り、熱い線を引いて飛び過ぎた。


 足を止めれば終わる。


 そう分かっているのに、攻勢へ転じる決断だけが剣先に乗らない。


 守るための剣のはずなのに、守りたい相手そのものが刃の向こうにいるせいで、俺の中で何かが噛み合わなくなっていた。


 ――甘いですね、龍夜さん。


 声が、耳ではなく骨の内側へ落ちてきた。


 ぞくりと背筋が冷える。次の瞬間、真正面にいたはずの姿が消えた。


 いや、消えたように見えただけだ。視線で追うより速く、頭上へ抜けていた。


 反射で見上げた先、裂けた天井の闇を背に、黒羽を大きく広げたリリアが身を反らせ、両手で刃を握り直していた。その胸元で脈打つ紫の宝玉が、生き物みたいにぬらりと濡れた光を返す。


 落ちてくる。


 そう理解した時にはもう遅い。


 垂直に叩き落とされた刃を、俺は両手で受けた。


 爆ぜる衝撃が足元から腰へ突き抜け、石床に蜘蛛の巣みたいな亀裂が走る。


 押し潰される。力任せじゃない。瘴気そのものに重みを与えたみたいな圧だった。剣を支える腕が震え、肘がじりじりと折られていく。


 刃同士が擦れ、火花の代わりに黒い粒子が散った。それが肌へ触れるたび、薄い針で刺されたような痺れが残る。


 顔ひとつ分の距離まで近づいたリリアの唇が、わずかに弧を描く。


「斬れないんですね」


 息と一緒に零れたその一言が、妙に静かだった。


 煽るでもなく、責めるでもなく、ただ確認するみたいな声色だったせいで、かえって深く食い込む。


 押し返さなければ本当に押し切られる。分かっている。全身の筋肉を総動員して剣を押し返し、横へ受け流して距離を捻じ開ける。息を吸おうと口を開けたところへ、間髪入れず黒羽の雨が降った。


 羽根じゃない。一本一本が研ぎ澄まされた刃だ。


 身を翻し、剣で二本を払い、三本目を肩で受け流す。だが四本目が脇腹を掠め、浅く裂いた傷口からぬるいものが流れた。


 痛みは遅れて来る。まず先に布が張りつく不快さがあり、その次に、熱を帯びた線がじわじわ広がっていく。


 踏み込み直した足裏が血でわずかに滑り、ほんの爪先一枚ぶん遅れたその誤差へ、リリアの刃が真っ直ぐ伸びてきた。


 喉元。


 避けるより先に体が反応する。首を反らし、紙一枚で切っ先を逃がす。


 銀髪が鼻先を掠め、冷たい香りがよぎった。花の名に置き換えられるような甘さじゃない。もっと硬質で、透き通っていて、それでいてひどく遠い匂い。かつてミユウの傍らにいた頃の名残が、こんな形でまだ彼女に残っていることが、余計に胸を抉る。


 リリアの連撃は止まらない。斬って、跳び、羽で道を塞ぎ、瘴気で視界を曇らせ、その曇りの向こうからまた刃が来る。


 直線だけでなく、円を描き、下から潜り込み、背後へ抜けたかと思えば羽ばたき一つで頭上へ回る。


 速い。だが本当に厄介なのは速度じゃない。俺が反撃に移る瞬間だけ、必ず彼女の顔がはっきり見えることだった。


 見えてしまう。


 そこにいるのが怪物ではなく、ミユウの名を呼んで泣ける女だと、否応なく思い出させられる。


 剣の軌道が鈍る。


 呼吸の継ぎ目が遅れる。


 その遅れを、黒い刃が容赦なく拾う。


 左肩に浅い傷。脇腹に二本目。額の端を掠めた一撃で視界へ血が垂れかけ、袖で乱暴に拭う。


 赤い膜の向こうで、リリアの羽が広がるたび、木々が薙ぎ倒され、砕けた葉が暴風に煽られて宙を舞う。月明かりの届かない真っ暗な森から砂塵が降り、鼻の奥で乾いた土の匂いが広がった。


「あなた……!」


 震えた声が、背中の方から届いた。


 振り向けない。だが、そのたった二音で分かる。ミユウだ。


 俺は刃を受け流しながら半歩だけ位置をずらし、彼女のいる方角へ瘴気が流れないよう立ち位置を変える。


 そんな余計な動きまで読まれているみたいに、リリアの斬撃が急に鋭さを増した。


 守るものを庇う時、人は軸がぶれる。その僅かな揺らぎを、彼女は笑うみたいに突いてくる。


 剣を払われ、空いた肩へ黒羽が叩き込まれた。


 衝撃で片膝が床につく。砕けた石の角が膝頭へめり込み、嫌な感触が骨の奥まで走った。


 そこへ追撃の切っ先が迫る。顔を上げた瞬間、喉笛へ一直線に伸びてくる銀黒の光。避け切れない。


 そのはずだった。


 耳元で高い金属音が弾け、切っ先が横へ逸れる。眩い白光が視界の隅で花みたいに広がった。リリアの表情が初めて揺れる。俺も反射的にそちらを見る。


 ミユウの手の中で、小さな光が震えていた。


 弾き飛ばされたはずのネックレスだ。いつの間に拾ったのか、切れた鎖を指に絡め、掌の中で青い石をかばうように握り締めている。


 細い指は砂埃で汚れ、どこかで切ったのか、白い肌に赤い線が走っていた。それでも彼女は離さなかった。胸元へ引き寄せたその姿だけで、俺の呼吸が一瞬止まる。


 リリアが、低く息を吐いた。


「それを……まだ」


 掠れた声だった。責めているようでもあり、奪い返したいようでもあり、どちらにも聞こえる曖昧さが、かえって痛い。


 ミユウは返事の代わりに、ネックレスを両手で包み込んだ。


 肩が小さく震えている。だが、逃げない。森の中を満たす瘴気の中で、彼女だけが別の時間を抱え込んでいるみたいに、白い翼の根元へ月光が静かに溜まっていた。


「これ……」


 声が細い。細いのに、折れていない。


 リリアの刃がふたたび持ち上がる。俺は膝を蹴って立ち上がり、彼女とミユウのあいだへ割り込もうとした。


 だが一歩遅い。黒羽が翻り、瘴気を纏った突風が俺を横へ押し飛ばす。


 壁の残骸へ肩がぶつかり、崩れた石が雨みたいに降った。舌の端を噛み、口の中へ鉄臭さが広がる。その隙に、リリアはミユウの目の前まで踏み込んでいる。


 やめろ、と叫ぶより早く、黒い刃の峰がミユウの手元を打った。


 青い石が、また宙へ躍る。


 今度は高く、くるくる回りながら月光を拾い、青白い筋をいくつも残して落ちていく。


 その軌道を、ミユウの目が追う。追いながらも、彼女はリリアから視線を逸らさなかった。逸らせなかったのかもしれない。目の前にある顔が、壊れてしまいそうだったから。


「返して」


 リリアの声は低い。怒鳴り声ではない。その静かさが、刃先よりも怖い。


「それはもう、いらないでしょう」


 ミユウの喉が上下する。乾いた息をひとつ飲み込んでから、彼女は首を振った。


「いらなくなんて、ならない」


 その言葉のあとに続く沈黙が長かった。


 剣を握る俺の手汗が柄に滲む。動くべきだ。分かっている。だが、二人のあいだへ無理に割って入れば、いまかろうじて揺れている何かまで壊す気がして、足が出ない。戦場のど真ん中でそんなことを考える自分に、奥歯が軋む。


 ミユウが一歩、進んだ。


 リリアの刃先が喉元へ触れそうな距離まで。


 瘴気が彼女の白い髪を汚すようにまとわりつく。


 翼の羽先が黒い粒子へ触れるたび、じり、と焼けるような音がして、白が少しずつ翳っていく。それでもミユウは止まらない。床へ落ちた青い石を拾い上げ、切れた鎖ごと胸に抱き寄せると、震える指でそれを差し出した。


「これ、あなたのために買ったの」


 声の端が掠れた。


 それでも彼女は、言い切った。


「元に戻って……リリア」


 たったそれだけの短い言葉なのに、礼拝堂に満ちていた黒い気配が一瞬だけたゆんだ気がした。


 リリアの肩が、ほんのわずかに揺れる。


 刃先が動く。斬るための前兆じゃない。迷いが、手首の奥へ生まれた時の微かなぶれだ。俺はそれを見逃さなかった。たぶんミユウも。


 ネックレスの青い石が、彼女の掌の中で灯を返す。


 宝石そのものの輝きじゃない。昔、誰かのために選んだ時間、その指先で迷いながら手に取った瞬間、そのとき胸へ宿っていたものまで一緒に掬い上げてきたような光だ。ミユウの頬を伝った雫が石へ落ち、表面に丸く震えて、青がゆがむ。


「覚えてるでしょう」


 ミユウは、泣き声を堪えるみたいに一度だけ息を止めた。


「お店の前で、長いこと迷って……これがいいって、あなたが最後に笑った。似合うかなって、何回も鏡を見て……でも、恥ずかしいからって、わたしに先に着けてみてって言って」


 言葉が途切れるたび、彼女の喉が震える。その震えまで全部、リリアは正面から受けていた。


 振り払えばいいのに、それができない。できないからこそ、瞳の奥の色が不安定に揺れる。紫黒の瘴気が胸元の宝玉から脈打つたび、その揺れを無理矢理押し潰そうとしているのが見えた。


「うるさい……」


 吐き捨てるみたいな声だったが、刃は下がらないまでも、先ほどまでの殺気を保てていない。


 ミユウはさらに一歩、詰めた。俺の指先に冷たい汗が滲む。そこまで近づけば危ない。危ないのに、止める言葉が出ない。


「あなた、わたしの髪を見て、青が似合うって言ったの。だから嬉しくて……帰る道で、何度も触った。壊れたらいやだって、ずっと」


 ミユウの唇が震え、次の音を作るまで少し時間がかかった。その間、森には風の音しかない。木々の間から差し込む月光が、舞い上がる砂塵を淡く照らし、二人のあいだだけ別の季節みたいに静まり返る。


「そんな顔で、忘れたなんて言わないで」


 リリアの呼吸が、乱れた。


 胸元の宝玉が強く脈を打つ。紫の光が肋骨のあいだから漏れるみたいに、彼女の胸を内側から照らし、細い体に不釣り合いな圧が周囲へ広がる。


 瘴気が吹き上がり、足元の石片が浮く。まずい。宝玉が彼女の迷いを押し潰しにかかっている。


 そう直感した瞬間、俺は前へ出ようとした。だがその前に、ミユウがネックレスを握る両手を胸へ押し当て、まっすぐリリアを見た。


「戻って。お願いだから……わたしを置いていかないで」


 その一言に含まれていたのは、説明でも理屈でもなかった。


 ただ、失いたくないものを掴み続けてきた手の温度だけだった。


 リリアの瞳が、見開かれる。


 宝玉の紫と、本来の彼女の色とが、ぶつかるように明滅した。握った刃の先端が、かすかに下がる。


 黒い羽の先が震え、何枚かの羽根がはらりと抜け落ちて床へ散った。瘴気を纏ったまま落ちたそれらは、石の上でじゅ、と湿った音を立てて溶ける。


「わたしは……」


 そこまで口にして、リリアは言葉を失う。


 喉元がひくりと動く。息が詰まったみたいに肩が揺れ、唇が次の音を探すようにわずかに開く。


 だが、宝玉がそれを許さない。胸元の紫がさらに濃く脈打ち、彼女の背の羽を不自然に持ち上げた。 


 苦しげに身を強張らせたその表情は、ようやく仮面の裂け目を見せた人の顔だった。


 ミユウの目から、また雫が落ちる。


 それでも彼女は拭わない。涙で濡れた頬のまま、切れた鎖を指に絡め、そっとネックレスを差し出し続ける。


 細い手首は震えているのに、その差し出し方だけは不思議なほどやさしい。責めるためでも、縛るためでもなく、迷子になった相手へ帰る場所を示すみたいに。


「これ、まだあなたのものだよ」


 青い石が、月光を受けて静かに揺れた。


 リリアの手が、ほんのわずかに伸びる。


 刃を持つ手ではない。空いた方の指先が、吸い寄せられるみたいに前へ出る。その動きはあまりに小さく、気を抜けば見落としてしまう程度だった。それでも確かに、彼女の中で何かがほどけかけていた。


 俺は息を殺したまま、剣の柄を握り直す。


 まだ終わっていない。終わっていないどころか、ここがいちばん危うい。分かっている。だが、目の前で揺れ始めたその指先を見た瞬間、胸の奥で固まっていたものまでひび割れる音がした。


 リリアの瞳が、ミユウの手の中の青を映す。


 その奥で、確かに、何かが揺らいだ。

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