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【Season2 】異世界転生したただの俺、大切な彼女を守るため最強の勇者目指します  作者: 東雲 明
第9章 ヴェイリノクス島編

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第134話 蒼き甲冑と揺らぐ瞳

 枝を払った風が、遅れて頬を打った。


夜の森は息を潜めたまま青黒く沈み、足元の湿った土だけが、踏み締めるたび鈍い感触を靴裏へ返してくる。


 その暗がりの奥、木々の隙間にひとつ、あり得ないほど白いものが立っていた。


 月を裂いて落ちてきたみたいに輪郭だけが浮き、揺れる銀の髪が肩先でほどけるたび、そこだけ別の時間が流れているように見える。


 リリアだった。けれど俺の喉にせり上がったのは敵の名じゃない。ミユウの隣で笑っていた頃の、あの柔らかな横顔の残滓で、だからこそ、胸の奥で何かが鈍く噛み合わなくなる。


 一歩、前へ出た瞬間、背後でミユウの息が小さく震えた。


 振り返らない。振り返れば、その気配に引かれて足が止まるのがわかっていた。


 守ると決めて、ここまで来た。なのに目の前の女は、斬り伏せるべき敵の貌をしていない。


 月光に濡れた睫毛の影も、細い顎も、白い指先も、すべてがあまりにも人間の記憶に近すぎて、剣を握る右手だけがひどく場違いなものに思えた。


 湿った空気を吸い込んでも肺の奥まで届かず、かわりに鉄の匂いに似た冷たさが、舌の裏へ薄く残る。


それでも、逃がせない。


 リリアの足が地を離したのは、瞬きよりわずかに早かった。


 白が揺れたと思った次の瞬間には視界の右が裂け、反射で身を捻る。


 頬を掠めた黒い羽の一枚が、刃物みたいな軌道で木肌を削り、背後の幹に深い傷を残した。遅れて風圧が首筋を殴り、耳の奥で乾いた音が鳴る。


 踏み込みが浅ければ、今ので終わっていた。呼吸を詰めたまま地を蹴り返し、俺は間合いへ飛び込む。躊躇を置き去りにするみたいに。


刹那、胸の内側で熱が弾けた。


青だった。


鎖骨の奥から滲み出した光が一気に広がり、心臓の鼓動に合わせるように胸元で脈打つ。そこから走った光の筋が肩へ、腕へ、脇腹へ、脚へと駆け抜け、服の繊維を内側から押し上げながら形を変えていく。


 黒に近い夜の中で、その色だけが澄みきった湖みたいに冴えていた。


 胸当てが肋骨を包み、肩甲が噛み合うように組み上がり、腕を覆う装甲が手首まで滑り込む。


 金属のはずなのに重さはなく、むしろ骨の延長みたいにぴたりと馴染んだ。


 青い光の残滓が縁を走り、呼吸ひとつで細かな紋様が淡く明滅する。


 森の闇の中で、その甲冑だけが夜明け前の空を切り取ってきたように鮮やかで、俺自身の輪郭までも少し違うものへ塗り替えていく。


左腕を引けば、小手の継ぎ目がかすかに鳴った。


 膝を沈めると、脚甲が地を掴む。踏み込める。斬れる。守れる。そう確かめたはずなのに、視線を上げた先でリリアがふっと笑ったせいで、胸の奥の歯車がまた狂う。


その笑みは、戦いの最中に浮かぶものじゃなかった。


昔、ミユウが焼きすぎた菓子を隠しきれずに困っていたとき、その隣で彼女が見せた、あの小さな笑い方に似ていた。責めるでもなく、からかうでもなく、ただ「だいじょうぶ」と言う前の口元。そんなものを、どうして今ここで見せる。どうして敵の顔で、記憶の中のやさしさだけを選んでこちらへ投げてくる。


 踏み込みが遅れた。


 遅れた一瞬は、戦場では致命だった。白い腕がしなり、闇を引き裂くように伸びた羽が、槍の群れみたいに俺へ降る。


 剣を返す。青い火花が散る。一本、二本、三本、受け切ったはずの軌道の隙間から四本目が腿を掠め、装甲の表面を削って熱を走らせた。


 続けざまに横薙ぎ。姿勢を落としてかわすが、頬先で裂けた風が皮膚を焼き、髪の先を数本持っていく。


 足を止めれば終わる。そうわかっているのに、踏み返すたび目の前で揺れる銀が、どうしても斬るべき線へ結ばれない。


「龍夜さん」


呼ばれた。


それだけで、剣先が鈍る。


低く、やわらかく、懐かしさだけを研いだみたいな声だった。


 森の冷気の中を、あまりにも自然に抜けてくる。


 耳から入ったはずなのに、胸のもっと奥、忘れたくても消えなかった場所に直接触れてくる声。


 次の一撃は、だからまともに受けた。青い甲冑が衝撃を受け止め、胸骨の奥で鈍い音が鳴る。


 息が押し出され、視界が揺れた。後ろへ滑る靴底が湿った土を抉り、根の盛り上がりに踵を取られかける。体勢を立て直すより早く、白い影が懐へ潜った。


肘が脇腹へめり込んだ。


甲冑越しでもわかる。内臓が一瞬、場所を失うみたいに軋んだ。


 息が潰れ、膝が折れそうになる。そこへ追撃の蹴りが来る。


 腕を差し込んで受けたが、重い。女の細い脚から繰り出されたとは思えない圧だった。


 骨の芯まで震えが通り、受け流しきれなかった力が肩から背中へ突き抜ける。そのまま幹へ叩きつけられ、背後の木が唸った。


 葉がばらばら落ち、顔へかかる。湿った土の匂いと、砕けた樹皮の青臭さが一度に鼻を刺した。


立て。


命じても、足が半拍遅れる。


 甲冑は覚醒した。力もある。なのに勝てない。力の不足じゃない。迷いだ。


 剣を振るう直前、どうしても一瞬だけ、あの頃の彼女が剣筋へ割り込んでくる。


 そのたびに刃先が甘くなり、その甘さを、今のリリアは容赦なく裂いてくる。


 白い羽が舞うたび、闇の中に残る軌跡は美しくさえあって、だからなおさら厄介だった。美しいものは、刃にしにくい。


地を蹴る。


今度は俺から距離を詰めた。下段に剣を流し、右から見せて左へ返す。牽制。反応を見る。


 リリアは半歩引いてかわし、銀の髪を揺らしながら身を捻る。


 その瞬間、黒い羽の内側が開いた。来る。わかったからこそ踏み込んだ。剣を肩口へ滑らせる。浅い。浅くていい、動きを止められれば――そう判断した、はずだった。


目が合った。


月光を映したその瞳が、ほんのわずか、揺れた。


怒りでも憎しみでもない、もっと別のもの。迷子が帰り道を思い出しかけたときみたいな、頼りない揺れ。


 そこでまた、剣先が鈍る。止めるつもりはなかった。


 ただほんの少し、力を抜いてしまった。それだけで十分だった。リリアの口元がかすかに歪み、次の瞬間、羽の影が下から跳ね上がる。視界が反転した。顎を打つ衝撃。脳が揺れる。空と木々の輪郭がめちゃくちゃに混ざり、そのまま背中から地面へ叩き落とされた。


肺がひしゃげる。


息を吸おうとしても、土の匂いしか入ってこない。


 喉の奥に熱いものが滲み、舌先へ鉄の味が落ちた。咳を押し殺して起き上がる。間に合わない。


 見上げた先で、白い影がすでに振りかぶっていた。降り下ろされるのは羽か、手刀か、それとも――考えるより早く剣を掲げる。


激突。青白い火花。腕が沈む。膝が地面へめり込む。受け止めているのに、押し負ける。じり、じり、と身体が土へ沈んでいく感覚に、背筋の奥だけが冷えていった。


「どうして、そんな顔をするんですか」


近い。


吐息が触れそうな距離で、リリアが囁いた。白い睫毛の影が落ちる。かつてなら、こんな近さは気まずさを呼ぶだけだったはずだ。今は違う。刃より危うい。声に、顔に、気配に、俺の迷いを掘り起こすための棘が仕込まれている。


「私を、斬るのでしょう」


押し込まれる力がさらに増す。腕の筋が軋む。青い甲冑の継ぎ目が微かに鳴った。


 斬る。そうだ。斬らなければ、ミユウへ届く。わかっている。わかっているのに、喉の奥で言葉にならないものが引っ掛かる。


 敵だと割り切るには、彼女の中に残っている何かがあまりにも見えすぎた。堕ちたなら、完全に壊れていてくれたほうがまだ楽だった。こんなふうに、ふとした拍子に昔の温度を見せるな。


奥歯を噛み、全身で押し返す。甲冑の紋様がひときわ強く光り、腕へ熱が流れた。押し返せる。押し切れる。ここで弾いて、そのまま斬り上げれば――


「やめて!」


声が、森を裂いた。


ミユウだった。


 その一声で、俺の身体のどこかがまた止まる。振り返らなかった。それでもわかる。


 どんな顔で、どんな手つきで、どれほどの必死さを込めて声を絞ったのか。長く一緒にいると、背中越しでも伝わるものがある。だから余計に苦い。


 俺が止めた一瞬を、リリアは逃さない。鋭い衝撃が膝へ落ち、体勢が崩れた。押し返しかけた力が逆流し、今度は横から払われる。剣が軌道を外され、胴へ白い蹴りが叩き込まれた。


 吹き飛ぶ。


 木の根に背を打ちつけ、肺の奥から荒い息が漏れた。青い甲冑が衝撃を散らしてくれてなお、肋の内側がじんじん痺れる。


 右手はまだ剣を離していない。離していないのに、指先の感覚が一瞬、遠かった。


 視界の端で星みたいな光が散り、すぐに闇へ溶ける。立てる。まだ立てる。なのに膝へ力を込めたところで、前に出たのは俺じゃなかった。


ミユウだった。


 銀の髪が夜気に揺れ、細い肩が月光を受ける。危ない、と喉まで出かかった声は、次の光景に押し潰された。


 ミユウの両手が胸元へ伸び、その指先が衣の内側から鎖を引き出す。


 青いキュービックジルコニアを抱いたネックレスが、月の下で小さく震えた。


 宝石の青は、俺の甲冑の光よりずっとやわらかくて、それでも見間違えようのない芯を持っていた。


 ミユウの指が震えている。風のせいじゃない。息の乱れで鎖が細かく鳴り、その音だけが妙に鮮明に耳へ届いた。


「これ……」


掠れた声だった。


けれど、その一音の奥にどれだけの夜が詰まっているか、俺にはわかる。


 迷って、悩んで、渡せないまま抱え込んで、それでも手放さずにいた想いの重さが、その二文字に全部沈んでいた。


 ミユウはネックレスを両手で包むように持ち、まっすぐリリアを見る。逃げない。


 怯んでいるのに、逸らさない。あの細い身体のどこにそんな強さが隠れているのか、何度見てもわからないまま、俺はいつもその背中に息を呑む。


「これ、あなたのために買ったの……!」


 言い切ったあと、肩が小さく揺れた。声だけじゃない。鎖を持つ指先、睫毛の先、喉元、全部がかすかに震えている。


 それでもミユウは一歩、さらに前へ出る。靴が落ち葉を踏み、湿った音がした。涙がこぼれたのはそのときだった。頬を伝った雫が顎先で光り、ぽたりと落ちる。土へ吸われて消えるまでが、ひどく遅い。


「元に戻って……!」


 森の空気が止まった気がした。


 その言葉は叫びというより、堪え続けたものが最後に裂けて零れた音に近かった。


 声の端は震え、息はうまく続かず、それでもまっすぐで、変に飾られていないぶんだけ胸へ刺さる。


 ミユウは泣いていた。大きな声で取り乱すんじゃない。ただ、どうしても引き留めたいものへ両手を伸ばし続ける子どもみたいに、喉の奥を擦りながら、それでも届いてほしい一点だけを見つめていた。


リリアの羽が、止まった。


 ほんのわずかだった。けれど確かに、闇を裂き続けていた黒の軌道が、そこだけ不自然に静止した。


 白い指先がぴくりと動く。銀の睫毛が震える。さっきまで俺を追い詰めていた鋭さが、刃先から細くほどけていくみたいに見えた。


 瞳が揺れる。夜の底を映していた暗い光の奥で、別の色がかすかに瞬く。思い出しかけたのか、拒んでいるのか、そのどちらともつかない揺れだった。


ミユウはさらに一歩、近づいた。


俺の背筋が冷える。危ない。近づきすぎるな。そう叫びたいのに、喉が動かない。


 ここで声を荒げれば、せっかく緩んだ何かまで断ち切ってしまいそうで、息を呑むことしかできなかった。


 右膝に力を入れ、いつでも飛び込めるよう姿勢だけ整える。もしリリアが再び刃を向けるなら、今度こそ間に入る。そのつもりで、地面を掴むように足先へ力を込める。


「覚えてる……?」


 ミユウの声はもう叫びじゃなかった。濡れた糸みたいに細く、それでも切れずに伸びる。


 ネックレスを差し出す手の先で、青い石が揺れた。月の光を受けるたび、深い海の底みたいな色が内側で静かに明滅する。


 その青を見た瞬間、リリアの喉がかすかに上下した。何かを言いかけて飲み込んだような動き。閉じかけた唇の端が、ほんの少しだけ震える。


「あなたが、綺麗って……似合うって……」


言葉の合間で、ミユウはうまく息を継げない。それでも止めない。止まれば届かなくなると知っているからだ。


 涙で濡れた頬を拭うこともしない。みっともなさを隠す余裕すらないまま、それでも手だけは下げずにいる。


 俺には、その背中があまりにも細く見えた。同時に、あまりにも強くも見えた。剣も甲冑も持たず、ただ過去を信じるだけで、堕ちた友に向かって立っている。俺が斬れなかった相手へ、ミユウは泣きながら、それでも真正面から触れようとしている。


リリアの足元で、落ち葉がひとひら転がった。


 風はない。なのに黒い羽の先が、ためらうみたいに震える。


 視線がネックレスへ落ちる。青い石を見ている。いや、その向こうかもしれない。


 あの日の市場か、笑い合った帰り道か、ミユウの横顔か。何を見ているのかはわからない。ただ、今の彼女がもう俺だけを敵として見ていないことだけは、空気の温度でわかった。張り詰めていた殺気が、薄い氷みたいにどこかから軋み始めている。


「……ミユウ」


 その声は、あまりにもかすれていた。


 今までの滑らかな響きじゃない。喉の奥に引っ掛かった砂を無理やり通したみたいに、痛みを含んだ声。


 呼ばれたミユウの肩が震える。けれど彼女は駆け寄らない。今ここで触れたら壊れるものがあると、本能でわかっている顔だった。涙をこぼしたまま、ただそこに立つ。ネックレスを差し出したまま、手を引かない。


リリアの指が持ち上がる。


 ゆっくりと、迷いながら、青い石へ触れようとして――そこで、ぴたりと止まった。


黒い羽の根元が、びくりと大きく震える。


 揺らいだ瞳の奥で、何かがせめぎ合っていた。戻りたいものと、戻れないもの。掴みたい記憶と、もう手遅れだと囁く闇。


 その二つがぶつかり合うたび、彼女の細い肩が小刻みに揺れる。唇が開き、閉じる。言葉にならない息だけが漏れる。俺は剣を握ったまま動けない。


 助けに入るべきか、見守るべきか、その境目すら今は曖昧だった。ただ、ここでひとつでも選び損ねれば、何か決定的なものが砕ける予感だけが、骨の内側に冷たく張りついている。


リリアの瞳から、雫がひとつ落ちた。

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