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第一章03『招かれざる客』

 



 缶にまだガスが残っている事を確認して、カセットコンロに火を付ける。

 ゴミ捨て場から勝手に拾ってきたフライパンに、薄いベーコンを一枚乗せ、その上から卵を一個割り、良い具合に焼けるまで少し放置。


 腹を空かせた奴に、たったこれだけというのも残酷過ぎる。フェグルスは冷凍庫から冷凍チャーハンを取り出し……しばらく悩む。本当にいいのだろうか。いざという時のための非常食なのに。でも結局、チャーハンを皿にあけ、レンジで三分チン。


 すると……あ~ら不思議。あっという間にベーコンエッグとチャーハンが!


 うんうん、これぐらい作ってやれば一時しのぎにはなるだろう。

 そんな風に思いながらフェグルスは―――


「……何やってんだ俺」


 ―――我に返っていた。

 己の作った料理の前で、フェグルスは思わず頭を抱える。なぜ? どうして? なにゆえ俺は、こんな事を……?


 現在の時刻、一〇時一三分。


 空から降って来た少女が日本刀を振り回した挙句、そのまま空腹でぶっ倒れるという意味不明な事件の後、気付けばフェグルスは残り少ない食料を焼き、レンジで温め、倒れた少女に振舞おうとしているのだった。


 いやだから……なぜ?


 どうして見ず知らずの少女に料理を振る舞っているんだ? 自分は。しかも相手は問答無用で凶器を振り回すような危険人物だぞ?

 だというのに。


「はぁーあ……」


 訳が分からない。分からないが……傷だらけの少女を見て、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 フェグルス自身、それがなんでかは分からないけれど。


「頭痛くなってきた……」


 今まで、厄介事にはなるべく関わらないように生きてきた。

 それはフェグルス自身の願望という面もあるが、それ以上に、人間社会に紛れるにあたっての最低条件でもあった。


 なるべく目立たず、注目されず。

 できる限り他人と関わりをもたず、正体を隠しやすくするために。


 だが、願望はただの願望でしかない。


 厄介事と言うのは得てして向こうからやって来る。そして回避するのも難しい。普通に掃除をしているだけで魔獣から追いかけられるし。それが終わったと思えば今度は世界最強から追いかけ回されるし。


 そして今、見ず知らずの、しかも空から降って来て傷だらけで、「追われて」だの「殺されかけて」だの、普通じゃないワードが飛び出すような少女を自宅に入れている始末だ。


「はあああああぁぁぁぁ……」


 とはいえ、まさか少女をベランダから放り捨てる訳にもいかず、こうして腹を空かせた少女のために、フェグルスは料理に励んでいたのだった。


「……ぅぁ……ぇ」


 と、その時、かすかなうわ言が聞こえてきた。

 んぐぅぅぅぅ~、と冗談みたいに腹を鳴らし、少女は寝かせてやったソファーの上でもぞもぞ蠢く。ようやく目が覚めたらしい。


「……ん……。……なに、このにおい……」


「ほら、起きろ。冷めるぞ」


 意識を朦朧とさせる少女を、フェグルスは静かに揺すってやる。少女は覚醒し切らないまま、薄く目蓋を開け、フェグルスを見上げ、不思議そうな顔をして、


「……だれ」


「ついさっきお前が襲撃した家の住人だ」


 それを聞くや否やだった。少女は何かを思い出したみたいに「はっ」という表情になった……と思った瞬間、


「てやあ!」


「ぶっ!?」


 フェグルスの頬に、平手打ちが炸裂していた。

 そして少女はバッ! とソファーの後ろに飛んで隠れると、両手で胸を守り、


「寝てるのをいい事にあたしの体に何したのよ変態! あたしを汚したくば、まずはあたしの前で死んでみせなさい!」


「なんじゃそりゃ……!」


 なんだこの急な展開。というか急な冤罪。

 ぶたれた頬をさすりながら、フェグルスは目つきを険しくさせながら、


「胸の件は悪かったよ。ホントに。ごめんって。ただ寝込みは襲ってねえ。襲ってはねえけど……その……」


 フェグルスは恐る恐る、少女の小柄な体を指差しながら、


「ちょっとだけ、まあ、触っちまったというか、なんというか……」


「……? ……なっ!?」


 フェグルスに言われ、少女は初めて自分の体の状態に気付く。

 見ると、腕にも足にも……触ってみるとなんと首にも、あの生々しい傷が付いていた箇所に、まんべんなく包帯が巻き付けられていた。


 誰がこんな事を……? と言えば、もちろんこの部屋には少女を除けばフェグルスしかいないわけで。


「やっぱり変なとこ触ってるじゃない! この変態! ゴキブリ! ドブネズミ! こうなったら、あんたを八つ裂きにして晒し首にでもしなきゃあたしの気が晴れな―――」


 少女はまさに猛獣の如し。とんでもない身軽さでソファーを飛び越え、そのままフェグルスに襲い掛かろうとする。

 が、その魂胆は、


「いぃっ!?」


「ああっ、そんな急に動くなって」


 失敗に終わる。

 フェグルスに飛び掛かろうとした直後、少女の体はビクゥ! と大きく震えて、そのまま動かなくなってしまった。

 多分、激痛が走ったのだろう。


「……一応、目に見える傷だけ簡単に包帯を巻いといた。バイキンが入るとマズいからな。服の中は詮索しなかったから安心しろ」


「あが……かっ……!?」


「……大丈夫か?」


「んな、わけ、ない、でしょ……!」


 まだまだ痛みと格闘中。

 少女は全身を震わせながら、「ぐぎぎ!」と歯を食いしばり、


「あたし、がっ、怪我でも、してなきゃ、あんたなんか一瞬で……あうっ!」


 未だに強気な少女の額に、フェグルスはデコピンを一発。その小さな衝撃で踏ん張りが消え、少女は真後ろに倒れてソファーにボフンと。


「何すんのよ! 痛いじゃない!」


「悪かったよ。でもそれよりこれだ、食うぐらいならできるだろ」


 そう言って、フェグルスはちゃぶ台に置いたベーコンエッグと冷凍チャーハンを指差してみせる。

 瞬間、少女は「っ!」と宝物でも見つけたみたいに目を輝かせた……が、


「……何のつもり……」


 すぐに体を縮めて、より一層怪しむ目でフェグルスを睨む。


「何のつもりもねえって。腹が減ってんだろ? なら食べてくれ、せっかく作ったんだし」


 精一杯の優しさのつもりだったが、結果は全くの逆効果。少女はキッ! とさらに目つきを鋭くして、


「あんたみたいな変態の言う事、聞くわけないでしょ!」


 とか言いながら、彼女の口元からは一本よだれがダラ~と。


「…………」


 呆れて物も言えないフェグルスに、少女はきょとんと首を傾げる。

 が、自らの失態に気付いたらしい彼女は、慌ててよだれを拭い、


「聞くわけないでしょ!」


「言葉が空虚過ぎるだろ。いいから食えって、もったいない」


「やだ!」


「えー……」


 参ったみたいに顔をしかめ、フェグルスはちゃぶ台の上を見る。食べてくれなきゃいよいよ食料が無駄になるだけなのだが……。

 しかし、食べたくない奴に無理やり食べさせるわけにもいかないし……。


「……じゃあいいや。俺が食うから」


「え」


 腹が減ってる奴の前で食うのも残酷だが、しかし仕方ない。せっかく焼いて、温めて、ほかほか美味しい状態なのだ。一番美味しい時に食べた方が食材達にとっても幸せだろう。


 フェグルスは少女に背を向け、ちゃぶ台の前にドカッと座る。

 スプーンを握り、冷凍チャーハンの皿を自分の方に引き寄せて―――それじゃあお先に、いただきまーす!


「ふん!」


「ごあ!?」


 背後から少女の蹴りが飛んだ。側頭部を蹴り飛ばされたフェグルスは、すごい勢いで真横に倒れてしまう。


 その隙をつき、少女はちゃぶ台の前を占拠。スプーンを握り、冷凍チャーハンを一気に口に流し込み、もぐもぐしてゴッキュン!

 そして突然、はっ……とした表情をして、


「まさか変なものでも入れてんじゃないでしょうね!?」


「食ってから訊くなよ……」


 もちろん変なものなど入っていない。むしろ最近の冷凍食品は普通の料理と同じくらい栄養満点。体力補給にも十分な仕上がりになってるはずだ。

 しかし、そんなフェグルスの気遣いなんて知ったこっちゃないらしく、


「―――ってゆーか」


 少女はチャーハンの皿を大事そうに抱え、スプーンで口に放り込みながら、ソファーの上に胡坐をかき、


「あんた、どうせ寝てるあたしに色んな事したんでしょ。何もできないのをいい事に、下衆未満の犬の糞みたいな情欲をあたしの体に吐き散らかしたんでしょ。好き勝手に使いまくってたんでしょ。どう責任取ってくれるわけ? どうやって死んでくれるわけ?」


「……取らなきゃいけない責任なんか俺にはねえし、死ぬつもりも毛頭ねえ。そもそもお前の体に変な事なんて何一つしてねえ」


「あたしの胸触ったクセに」


「それは俺のせいかもしれないけど、寝てるお前には何もしてねえ」


 反論するフェグルスを、少女は「あっそ」と簡単に切り捨てて、


「で、どう死んでくれるわけ」


「色々ブレないなお前……」


「罪を罰するのは当然でしょ。あんたなんか生きてるだけで大罪よ。未だに呼吸してて恥ずかしくないの? てかさっきから好き勝手に言ってるけど、被害者がこっちだって事まさか忘れてないでしょうね。あんたはもう死をもって償う他に道はないわ」


「いくらなんでも殺した過ぎるだろ。……胸の件はホント悪かったけど」


「だったら死んでよ。今すぐここで」


 しつこいくらいの死刑判決だった。

 なんでそんなに殺したがるんだコイツは。物騒か。ついに人の世はここまで無法地帯になってしまったのか。悲しいばかりだ。

 だけど、ここで素直に自分の罪を認めるというのも、どうも納得がいかず、


「そ、そもそもだなあ……っ」


 フェグルスはちゃぶ台を挟んで少女の向かいに座り、落ち着いて反撃を試みる。


「ホントは言いたくねえけど、あんなんほとんど不可抗力みたいなもんだろ。空から降って来る方がおかしいんだよ普通は。どんな天変地異だ。魔法も使えねえ俺にどうしろって」


「は?」


 その時、彼女はチャーハンを貪る手を止めて、ちょっとだけ驚いたみたいな顔をして、


「何あんた、魔法使いじゃないの?」


「……悪いかよ……」


 自分で言ったせいだが、思わず痛いところを突かれてフェグルスは口ごもる。

 今までも向けられてきた。全人類が魔法使いのこの時代に、魔法が使えない事を告げた時の皆の「え?」みたいな目。

 そして次に出る言葉は決まって……「じゃあ何ができるの?」だ。……残念ながら何もできないのだ。自分でも情けない事に。


 やっちまった、と思ったフェグルスだったが、意外にも少女はそれ以上追及も何もせず、


「ふーん」


 と、それだけで済まして、


「てかそんなん関係ない。あんたが加害者で、あたしが被害者。あたしはあんたに正当な罰則を要求してる。それだけよ」


「正当って……! だからって本気で殺しに来るか!?」


 いくら喚けど少女はガン無視。フェグルスの言葉など聞こえないフリで、少女はベーコンエッグの皿にまで手を伸ばす。


「しかも見ろ! この惨劇、この惨状! ここはなあ、一〇年近くも俺と苦楽を共にしてきた大事な大事な我が家なんだぞ!? それをこんなメチャクチャにしやがって……!」


 ガツガツ! ムシャムシャ! ごっくん!


「俺にも非はあるけどやり過ぎだ! 罰にしたって釣り合わねえ!」


 噛む、飲み込む。噛む、飲み込む。また噛んで、また飲み込む。


「おい、俺の話を聞いて―――」


 ずいっ、と。

 少女は空になった皿を目の前に突き出して、一言。


「おかわり」


「……ねえよそんなもん」


「また暴れてやるわよ?」


 我が家を人質にとられてしまっては、従わないわけにはいかなかった。

 フェグルスは再び冷凍庫を開ける。


 ……本当は使いたくなかった。最後の最後、本格的に食べる物がなくなった時に食べようと思っていた最終非常食・冷凍シューマイを取り出し、レンジでチン。

 それを皿に盛り付け、付属の練りがらしも出してやって、少女に差し出して、


「……じゃなくて!」


 かなりのタイムラグでフェグルスはツッコミを入れる。

 が、少女は無視して熱々シューマイを「はふはふ」言いながら口に放り込む。


「いいから話を聞けって。……まずお前、なんで空から降って来たんだよ」


「あんたみたいな変態にあたしの情報を知る権利なんてない。黙ってその辺で床のシミにでもなってれば?」


「…………。ほら、お前なんか言ってたろ。魔法使いに追われてとか、殺されかけてとか。そんで逃げたらどうしたこうしたって」


「関係ない。というか死んで」


「……じゃあ、あんな凶器(にほんとう)どこから」


「死ね」


「もうただの悪口だろ……」


 物理的に殺せないからって、今度は呪い殺す方針に切り替えたのかもしれない。

 その執念深さ、執着の強さ―――恐れ入る。


「せめて、こう……なんだ? 自分なりに事情を話すとかさあ」


「ああもう! うっさいわね変態のくせに! いいわよ、じゃあ一から一〇まで全部説明してあげる。ただし、一通り説明したら外に出て、あることないこと言い広めてあんたの社会的生命に終止符を打ってやるけど? それでもいいならどうぞ、なんでも訊きなさい」


 それにはさすがにフェグルスも言葉に詰まった。それを見た少女は追い打ちをかけるでもなく、ただ「ふん」と侮蔑の表情を浮かべてみせる。


 この態度、この振る舞い、傲慢すぎる言動の数々はどうだ。


 確かに胸を触ってしまったのは一〇〇パーセントこちらの罪だが、少女だって過剰なほどの暴力に手を染めている。お互い様というやつだろう。

 なのに、まるで全てこちらが悪いと言わんばかりの少女の口ぶり。これにはさすがに、フェグルスも何か反撃しないと気が収まらず、


「い、いつまでも法治国家がお前を野放しにしてると思うなよ……!」


「はあ?」


 行き詰った末の呪い攻撃も、少女の「はあ?」の前に虚しく散る。

 少年のガラスハートは砂と化し、流れる風に乗って遥か彼方へ吹き飛ばされた。


「……何も訊くなってかよ」


「そうよ、何も訊かないで。というか死んで」


「結局それか……」


 しかし、するなと言われればしたくなるのが人間の性……もとい魔獣の性。

 それに、ここまでコケにされて今さら引き下がるというのも気に食わず、


「あのなあ、こっちは自宅がぐちゃぐちゃにされてんだぞ! こんなんで―――」


 こんなんで、納得できるわけない……のだが。

 しかし反論の途中でふと、フェグルスは思い出す。



『何よ! 何なのよ! どうなってんのよこの街は!? 魔法使いに追われて殺されかけて必死に逃げて落ちてみれば! こんな貧乏ヅラの男に……む、胸を揉まれるわ!』



 魔法使いに追われて殺されかけて。―――少女は確かにそう言った。

 誰が聞いてしまっても、到底無視できる類の発言ではない。

 しかしだからこそ、フェグルスは頭を横に振る。



 ――――なにも自分から巻き込まれに行く事はない。



『あの時』から、一人で生きていくと決めた。

 自分に宿る『力』を振るわないために、厄介事から遠ざかるように生きてきて、これからもそうやって生きていく。そう決めたのだ。

 そうすれば、『力』を振るわずにいられると思ったから。


 少女の事情は分からない。

 断片的な言葉を聞いても、明確な状況は判断できない。


 だけど、今ここで深く首を突っ込んでしまえば、何か大きな厄介事に巻き込まれてしまうんじゃないかという嫌な予感だけはしていた。

 ならここで、少女との関係を断ってしまうのがベストのはず……。




『魔法使いに追われて殺されかけて必死に逃げて落ちてみれば!』




「…………」


 ―――もしその魔法使いに見つかったら、こいつはどうなる?


 不意の邪念に、フェグルスは思い出す。

 少女の体に刻まれていた大量の傷を。殺されかけたという少女の言葉を。空から降って来たという事実の重大さを。

 否定できない現実を、思い出す。

 でも。


「……ちっ……」


 自分が関わらなきゃいけない理由は、やっぱりない。

 そもそもコチラを本気で殺そうとしたうえに、他人の良心を無下にするような奴だ。なんでそんな奴にお節介を焼いてやらなきゃいけないんだ。


 だから別に、この少女がどんな事情を抱えていようが関係ない。


 なにせ他人を殺そうとする女だ。そんな乱暴者なら、いつかは誰かしらから恨みを買って、追われて殺されかけたりする事だってあるだろう。案外、全てコイツの自業自得なのかもしれないじゃないか。


 だから、どうでもいい。

 誰に追われていようが、誰に殺されかけようが、何もかもどうでもいい。

 どうでもいいはずだ。


 そうだろ?


 ……そうだよな?




「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」




 答えは出なかった。








        ***








「じゃあね。もう二度と会わないでしょうね」


「おう、こっちだって望むところだ」


 結局、少女は冷凍シューマイも綺麗に平らげ、元気いっぱいになって復活した。


「あたしとしては今すぐあんたをこの世から葬り去りたいところだけど、今日のところは勘弁してあげる。しっかり崇め奉りなさい、この慈悲深き心を」


「日本刀を片手に語る慈悲なんか崇められねえよ」


 フェグルスの視線は先程から一点集中、少女の握る日本刀に向けられていた。

 今まで没収していたのはいいが、一応あれは少女の所有物、いつかは返却しなければならないわけで。


「なに変態。気持ち悪い目で見ないでよ」


「いや……また襲い掛かって来るんじゃないかと」


「はあ? そうやってすぐ人の事を疑うんだあんたって。結局あんたみたいに他人を信じられない奴が社会から孤立して孤独に死んでいくのよね。今のあんたがまさにそうよ。かわいそう、憐れんであげる」


「…………」


 もう襲い掛かるつもりはない、と言いたかったのだろう……多分。

 口下手というか、口が悪いというか、とにかくあらゆる言葉が罵詈雑言に変換されて飛び出す少女は、日本刀を片手に「んーっ」と背伸び。肩を回してみたり、首を回してみたり、体のコンディションを確かめていく。


「まあいいわ、あんたはあいつらの仲間じゃないみたいだし」


 あんなに痛がっていた傷はもう気にならなくなったのか、少女はあっさり身を翻すと、ベランダに繋がるガラス戸を乱暴に開ける。


「……? おい、どこから出て行くつもりだ」


「どこって、見て分からない?」


 そう言って、少女はベランダに出る。


「普通に玄関から出ろよ。あぶねえぞ」


「入って来た所から出て行きたい派なのよ、っと」


 勢いをつけてジャンプすると、少女の小柄な体はあっさりと手すりの上に乗る。木製の手すりからミシミシと危なっかしい音がなる。心配だ、手すりの方が。


「……じゃ、さよなら」


「おう」


 特に理由はないが、あまり感情を読み取られないよう、素っ気なく返事をする。

 しかし、別れの挨拶を交わした後も、少女がその場から動く気配はなく、


「…………」


「――――」


「……どうしたんだよ、行かねえのかよ」


「ん、まあ、行くんだけど」


 この局面で若干の迷いを見せ始める少女に、「まだ何かあるのか」と身構えるフェグルスだったが、


「……勝手にあたしの体に触りやがった事に関しては、素手で心臓を毟り取ってやりたいくらいムカつくし、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


「だから、胸の件はホント悪かったって―――」


「でも」


 少女はそこで、少し言いよどみ、


「あんたは魔法使いじゃないみたいだし……食べさせてくれたし、包帯(これ)巻いてくれたし。……義理を通すって訳じゃないけど」


「ん?」


「ありがと」


 独り言みたいに呟いた少女は、何の躊躇もなく手すりから飛び降りた。

 一瞬にして、フェグルスの視界から少女の姿が消える。


「…………」


 最後の言葉……まさかそんな事を言われるとは思っていなかったフェグルスは呆然とし、しばらく誰もいなくなったベランダをぼんやり見つめる。

 ちょっとした静けさが部屋に立ち込めて、彼はようやくポツリと一言。


「……大丈夫か? あいつ」


 心配してみたが、考えてみれば心配する義理なんてない事に気が付いた。

 多分アイツは、また正体不明の何者かに追われる事になるのだろう。追われながら、逃げる事になるのだろう。


 だがそれは、自分とは何の関わりもない事だ。

 知る必要のない物語だ。


 頭の中でそう言い聞かせて、フェグルスは謎の喪失感に浸る。

 もはや一ヶ月分の疲労感を味わった気分だったが、しかし今日はまだ始まったばかりだ。早いとこ生ける常識人……もとい常識魔獣に戻り、新しい仕事を見つけなければならない。


「はぁーあ……」


 と、重い足を動かした時だった。

 足の裏に、変な感触があった。


「おう?」


 足を上げて、踏んづけていた『それ』を拾う。


「……なんだこれ?」


 ―――掌サイズの、三日月型のアクセサリーだった。

 大して特別そうな感じはない。探せばそこら辺で普通に売ってそうな安物だ。しかし、フェグルスはこんなものを購入した覚えは一切ない。


 よく見ると、これは……名前? だろうか。

 三日月型アクセサリーの側面に、何か文字が彫られている事に気付く。




『ティーネ』




「あ?」


 なんだこの名前、とフェグルスはその名を凝視する。

 明らかに女性の名前のようだが、生憎、女性の知り合いなんてそれほどいないし、そんな名前にも全く心当たりはない。

 となれば、残る可能性は一つ。


「……まさかこれ、あいつの?」


 脳裏に浮かぶのは、日本刀を振り回す小柄な少女の姿。

 それ以外考えられない。あの乱暴者が落としていったのだ。


「…………」


 意外な形で彼女の名前を知ってしまったフェグルスは、手にしたそれをどうしていいのかも分からず、しばらく見つめる事しかできないでいた。本来ならちゃんと持ち主へ返すべきなのだろうが、すでに去ってしまった後だ。


 今からなら走って追い付くか? ……いや、やめとこう。

 正直、コチラからは関わりたくない。


「……ティーネ。……なんてメチャクチャな奴だ」


 部屋に一人佇むフェグルスは、率直な感想を述べる。

 続いて部屋を見渡す。


「……こっちもメチャクチャか」


 片づけは、一、二時間で済むレベルを超えていた。

 神経質に並べていたはずの家具は散乱し、床や壁には斬撃の跡がくっきり残っている。死体の一つでも転がっていないのが不思議なくらいの有様だった。


「どこもかしこも、ぐちゃぐちゃだ」


 物理的にだけじゃない。精神的にも疲れ果てて、頭の中もしっちゃかめっちゃか。実は今までの出来事が全て夢だったんじゃないかと半分疑ってすらいる。


 だけど、目の前に広がっている光景は、どうしようもないくらい現実だ。

 少女が大きな傷跡を残した部屋を見て、続いてベランダの外を見る。


「……あり得ねえ、何もかも……」


 夢のような喧騒から覚めて、静かな部屋でフェグルスは一人ごちる。

 どうやら自分は、新しい仕事を探す前に、少女が散らかしていった部屋を片付けるところから始めないといけないらしかった。





 


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